十.砂に還る伝説
短い黒髪に大柄な
半開きで覗きこむと、中にはすでに多くの客がいて、食事や酒を楽しんでいるようだった。その混雑具合に、彼は入るのをやめようと思い扉を閉めかけた。
その時。
聞くつもりなく耳に入った会話が、彼の足を止めさせる。
武勇譚のような、噂話。
人に身を変じた魔物と若い英雄が戦い、魔物を討ち滅ぼす物語だった。
一瞬、笑いがこみ上げた。わずか数日、たったそれだけの間に人の噂とはこうも可笑しく歪むものなのか。
「百年後の世界を見てみてぇよな」
誰に言うともなく呟き、扉を蹴り開ける。剣に手をかけ引き抜いた。
衆目が集まり、幾人かが驚いたように立ちあがる。
ダンッ、と鈍い音を立てて、会話していた人の輪のど真ん中、木製のテーブルに大振りの剣が突きたてられた。
気分良く語っていた者たちが、恐怖に顔色をなくして振り返る。そして、ヒィッと息を飲んだ。
「か、かか海賊王……!」
誰かが叫んだ言葉に店内は騒然となる。
逃げ出そうにも、彼は入り口の扉に足をかけ、手を腰に当てて、立ちふさがっていた。口もとに浮かぶ歪んだ笑みと、飢えた獣のような双眸。
凶悪な怒りと
「俺にも聞かせろよ。なァ、てめーら誰の話してたんだって?」
誰も答える者はいない。恐怖のあまり気を失った者もいる。
エフィンは大股で店内に踏みこみ、投げつけた剣をつかんで引き抜いた。それを翻し、手近い場所に立っていた男性の眉間に突きつけ低く囁く。
「怯えるなよ。俺は、感謝してるんだぜ? おまえらがあの
なぜ海に追放されたはずの海賊王がここにいるのか。その疑問の答えは、海賊自身からもたらされた。
怯える人々をぐるりと見渡し、エフィンは唐突に笑顔を消して剣を振りあげる。餌食とみなされた男が目を見開いて腰を抜かす。
「てめぇら
勢いよく振り降ろされた刃の先が男の額ギリギリで止まった。
「……離せ、ちび」
いつの間にきたのか。
彼の腹のあたりにしがみついて、水竜の子供がその大きな瞳でエフィンを見ていた。声をあげるでもなく、瞳に透明な雫をあふれんばかりに
海賊は子供を振り払うことはしなかった。子供も抱きついたまま離れない。
喧騒が静まる酒場の中、足音が響く。長髪長身の男が開きっぱなしの扉から入ってエフィンの前まで来ると、おもむろに手を振りあげる。
子供から彼へと視線を移した海賊の頰を、彼は何も言わず平手で打った。
意表をつかれたエフィンは瞳に怒りをのぼらせ、彼を——シエラを睨む。感情のつかみにくい銀河の双眸を細め、彼は静かに宣告した。
「おまえは海に帰れ、エフィン。陸で
「なんだよシエラ! 奴が死んだのは俺のせいだって言うのか? 冗談じゃねぇ」
食いかかるエフィンを悲しげに見返すと、シエラは目を伏せ静かに言った。
「そういうわけじゃない。……でもなあエフィン。おれのこの怒り、一体どこにぶつけたらいい?」
エフィンは言葉を飲みこむ。
腹にしがみつく小さな腕がまるで胸を締めつけているようだ。心をかき乱す感情の正体がわからず、意味もなくただの言葉を吐き捨てる。
「あんな奴……!」
だがその後に続けられる台詞もなく、なぜか声は震えていた。そんな自分の動揺に苛つきを覚えながらも、エフィンは無理やり身体をねじ曲げた。
子供が、腕を解く。剣を収めて
先日の討伐によって今は他に仲間もいない。
今はシエラの魔法で忘れているのだろうが、エフィンは竜殺しと呼ばれる海賊だ。本能的な恐ろしさを感じないのか、と思う。……自分の父親を殺した男と二人きりで、この子供は夜を過ごすつもりなのだろうか。
その時。
「なきたいなら、なけばいい」
氷片のように澄んだ幼い声が響いた。
虚をつかれて振り向いた顔は、ひどく無防備な表情だったに違いない。
「今の、おまえか?」
こくりとうなずき、子供は再度口を開く。
「くるしいの、かなしいの、なみだにとかさなきゃ、いやされないから」
「それ、俺のことかよ」
険しさを込めた声にも怖じけづく様子はなく、子供はうなずいた。つい睨み返したエフィンだったが、その表情がふいに
「おまえ、名前は?」
「アルティア」
「女みてぇな名前だけど女なのかよ」
呟きながらエフィンは船の方へと歩きだす。今度は
そしてアルティアは彼に
夜闇に沈む港には人の姿もない。打ち寄せる波の音だけが真黒の海を彩っていた。
二人の姿もその闇にまぎれ、やがて停泊する船のいずれかに溶けこんでいったのだった。
そして、あの悲劇から一つの巡りが年を刻んだ。
『永遠と一瞬に、そう大きな違いはないんだよ』
あれはいつの頃だっただろうか。陽だまりの熱に彩られた、はるか遠い記憶。
たとえ永遠の時を生きられるのだとしても、永遠に幸せでいられる、と同義ではないのだと。
愛する者を
「僕は、乗り越えられるんでしょうか」
簡素な椅子に腰掛けて、目の前に置かれたティーカップを眺めながらアスラは呟く。ほのかに広がる甘い香りは、懐かしい花園を
「おまえはまだ許せないのか」
「……」
沈黙の答えは
両手の指を組みその上に
「ありがとう、ティリーア」
「ゆっくりしていってね、シエラ」
それだけ言って微笑むと、窓辺に置いた椅子に座り膝に編み物を広げる。
結界に隠されたこの小さな家で弟と暮らしながら、彼女は相変わらず穏やかに慎ましやかに日々を過ごしている。
シエラはそんなティリーアと、硬い表情でうつむくアスラを交互に見やり、口を開いた。
「ハルの真意をおれが語ることはできない。でもおれはハルと同じく、この世界が滅びる未来を
「……
膝に置かれた手を握りこむ。無意識に語調を強めるアスラを、シエラは銀河の双眸で見つめる。
「アスラ。おまえは、世界を許せないのか?」
一瞬、見開かれた両目が、細められ、見る間に涙があふれた。
うつむいたまま、アスラは否定の意味で頭を振る。握った拳に雫が落ちて、じわりと熱を残してゆく。
「はじめから、いつかはと決まってたことだ。
意味がわからない、苦しげにアスラは呟く。
シエラは小さく笑って、つまり、と言葉を添えた。
「人と竜の訣別はいつか必ず起きることだったんだよ」
「なら、ハルが死ぬのは運命だったと、……シエラさんは言いたいんですか?」
怒りを
ティリーアが窓辺で顔をあげ、話す二人を見ていた。
「それは違う。つーかおれにも、ハルの真意なんて解らないさ」
ため息をつき、シエラは視線を泳がせる。言葉なんてものはどうしてこうも、伝えたいものに対して
「ただ確実に言えるのは、ハルの死によって終焉は先送りされたってことだ。だからおれは
うつむいたままのアスラは、しばらく言葉を探していたようだった。
やがて顔をあげ、シエラを見る。
「シエラさん。僕ずっと、あの時からずっと考え続けてきました。……馬鹿なことを、って思われるかもしれませんが。僕は人間になりたいんです。できますか?」
「できなくはないが……人間の
「わかってます」
全部を理解したわけではないが、ようやく繋がった気がするのだ。
あの懐かしさは過去に得た繋がりではなく、
「そういう人間の生を積み重ねた先で、僕はハルを迎えたいんです。ハルが人間を愛したというなら、僕はそういうハルの想いを理解したい。そしていつかは本当の意味で許したい。お願いできますか、シエラさん」
「……そうか、わかった」
シエラはうなずき、優しく笑う。
それから窓辺に目を向け、ティリーアに声をかける。
「そういうことらしいぜ、ティリーア。で、おまえはどうする?」
「わたし?」
「決まってるじゃない。わたしはここで、ハルを待つわ」
そしてさらに、十の巡りが年を刻む。
ハルがどういう思いで王座に就いていたのか、今となっては知るすべもない。
走らせていたペンを置き、彼はふと窓に目を向けた。
砂を運ぶ西からの風が激しさを増し吹き荒れている。今日の風は勢いが強く、到着する予定の
滅びを、予感していた。
国の至る所から井戸や泉の水が減っているという報告を受けている。西から吹き付ける死の風は、乾いた砂を畑地に運ぶ。
こんな大地が人々に実りの恵みをもたらすはずがない。いずれはこの土地を捨てることも、本気で検討せねばならないだろう。
「……後悔なさってるんですか、ジェラーク様」
「どうしてそう思う? フェレス」
傍らに立つ人物が、影のような声を発する。是非を答える代わりに、彼は笑って聞き返す。
答えは沈黙だったが、遅々として進まないペンが彼にそんな思いを抱かせたのだということに、気づいてもいる。
「そうだな、正直うんざりしてるさ。後悔してるのは国民じゃないか? これを議会に提出すれば、またひと
今、議会は、移住についての討議で
土地を捨てたくない者と豊かな生活に移りたい者。それぞれが勝手にすればいい、とはいかないのが国家というものだ。
どう決定したとしても非難の声はあがるだろう。そして囁かれるのだ、こんなことになるのならなぜ竜族を追いだしたのか、と。
昔の自分を見ているようでうんざりする、ただそれだけだ。
ただの人間である自分にできることなど、笑えるほどに限られている。
「私が、後悔なんて——できるわけがないだろう」
この身をどれだけ非難されようと、責任を果たす。
その決意は、片時も忘れたことがなかった。どんな
「俺も、逃げません。後押ししたのは俺です」
同じ罪を共有する二人の間には、友愛や主従とは別の絆がある。
「貴方に一生涯の忠誠を誓います。——だから」
続く言葉をフェレスは語らない。ジェラークも聞き返さなかった。
西からの風が乾いた死を運ぶ。
この時代より数十年を経て、ライデア国は住民を失い、水脈が枯れ、
ただひとつ、南東の港町ティリーア、遠い昔に竜族の村があったと伝えられるその場所にのみ、大地の力は保たれているのだという。
巡る年月の中にあって、記憶は
それは一説には銀河の竜による業ともいわれるが、砂に覆われた大地に住む人族の中に伝説の光の王の名を知る者は、今は誰ひとりとしていない。
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