第一章 瓦解の朝、誓いの日

一.廃墟にて


 その朝、王宮は騒乱に満ちたはじまりを迎えた。




「ティルシュ、逃げろ!」


 宝剣を握らせ語気荒く叫ぶ友の表情かおは、左腕に負った深手による痛みで歪んでいる。

 何をどう理解して良いのかも分からず、ティルシュは震えながらかぶりを振って拒否の意を示した。今にも崩れてしまいそうなほど膝は笑い、握りこんで血の気が失せた指はぎくしゃくとしていて自分のものではないようだ。


「早くしろ! 時間が、もうねえッ!」


 彼の叫びが耳を打ち、まっしろになっているティルシュの意識に反響した。


「おまえを」


 かすれた息で、ティルシュは問う。


「おまえを置いて私だけが」


 やっとの思いで押しだした声は、ただそれしか形を結ばなかった。炎の匂いが近くなる。

 友が——クフォンが怒鳴った。


「つべこべ言ってんじゃねぇ! 早く行けよッ!」


 苛々したように隠し通路の扉を蹴り開けると、彼はそこにティルシュを無理やり押し込んだ。反論も抵抗も返す隙を与えず、重い扉を閉じる。


「クフォン! ここを開けろ、クフォンっ!」


 ティルシュは慌てた。眼前の扉を必死に、力任せに押したり引いたりしてみたが、彼は向こう側から錠を下ろしてしまったのだろう。

 固く閉ざされたこちら側とあちら側。

 耳を澄ましてみるものの、音も声も聞こえてこない。こうなってしまっては、クフォンがどうなったのかティルシュに知るすべはない。


 ダン、と扉に拳を叩きつけ、唇を噛む。

 猶予ゆうよはないのだ。この隠し通路だって、いつ発見されるとも分からない。

 少しの逡巡しゅんじゅんののち彼は顔をあげ歩きだした。人工灯がしつらえてはあるが、その光は弱く通路は暗い。それでも、どこへ向かえば良いかは分かっていた。

 奥へ。出口へ。……外へ。ティルシュはただ独りでただひたすら、歩き続けた。



 その朝。

 即位後わずか十日の新王は、たった一日の間に王座を追われたのだった。






 青い風の島とも呼ばれるウィザール島は、かつての名のいわれも虚しく、大地のほぼ八割を砂礫されき荒野こうやに奪われてる。

 島の各地にはいくつかの王国があるが、それぞれが砂漠に阻まれ思うように行き来もできない。それがゆえに戦争も起きず、平和といえば聞こえも良いだろうか。

 だが実情はといえば、人々はひたひたと歩み寄る滅びに不安をかき立てられ、未来を望む気力を蝕まれ、心までも荒廃の砂に覆われつつあった。


 海を隔てた他大陸はここよりいくらか住みやすい、という噂を頼りに、人々は移住を夢見て金を貯める。

 しかし海賊がむ危険な海を航行するのであれば、生半可な金額では足りない。だが商業も農業すらも廃れた風の島で、高収入が見こめる仕事は多くない。

 失望はやがて、絶望に変わってゆく。

 絶望はさらなる無気力を生みだし、それによって助長される貧しさが、絶望の連鎖を連ねて広げゆく。


 人々は、りどころを求めていた。

 この枯れきった生活から救いだしてくれるものであれば、誰であろうと良かった。

 神でも、魔物でも、人間の英雄でも。

 あるいは過去の時代に祖先が退けたという、ドラゴンと呼ばれる種族であろうとも。






 石畳の舗装がかろうじて、過去の時代ここが街道であったことを伝えている。しかし廃墟と化した街並みは、今では瓦礫がれきを積みあげただけの形骸けいがいにすぎない。

 ティルシュは崩れ落ちた石壁に背を預け、膝を抱えて、放心したように瓦礫の陰に座りこんでいた。傍らには愛馬のソールフェイレイがおとなしくたたずみ、石の間に生えでた葉の細長い草を食んでいる。

 手入れの行き届いた美しい白馬は一見すれば目立ちそうなものだが、彼女は賢く、戦闘馬としての訓練も受けており、危険を察したら反応を示してくれるのでまだ安心だった。


 実のところティルシュは、どこをどう走ってここへ至ったのかを覚えていない。

 隠し通路から馬舎にたどり着き、白馬を駆って城をけだし、あとは馬に任せてひたすら遠くへと逃げた。

 追っ手はあったが馬に乗る者は多くなく、振り切るのは難しくはなかったが、行くあてがあるわけでもない。そのうち方向感覚を失い、気がつけばこんな場所に迷い込んでいたのである。

 情けない話ではあるが、膝を抱えていたのは途方に暮れていたからだった。

 持ちだせたものは宝剣ひとつと、愛馬の彼女ソールフェイレイのみ。路銀はわずか、食べ物も水もない。この場所に留まったところで助けを期待できるはずもないのだが、今は物陰から出て姿を晒すのも怖ろしかった。


 せめて、独りきりでなければ。

 身を呈して自分をかばい逃がしてくれた親友クフォンを思い、ティルシュは祈るように瞑目する。口が悪く態度も大きく、主従の立場をわきまえない彼を煙たく思うこともあったが、今はそれさえも無性に慕わしかった。

 その時。

 ひくりと耳を動かしソールフェイレイが頭をあげた。その様子を確認し、ティルシュの全身に緊張が走る。

 実技用の長剣に手を掛け、いつでも動けるように立ちあがった。

 風が動いたのか、あるいは衣擦きぬずれの音なのか。気配が近づいてくる。

 ざくざくと瓦礫のかけらを踏みしだき、傾いた壁の陰から現れたひとの姿に、ティルシュは息を飲んだ。


 白く崩れた廃墟の街に、その姿はあまりに不似合いだった。

 風に流れる長い髪は、深い藍。長身のくせにひどく華奢きゃしゃで、纏った長い外套がいとうが風をはらんで波だっている。が瞳をすがめて自分を見た時、ティルシュは一瞬自分が今いる状況も含めてすべてを忘れていた。

 砂漠の強い陽光ひかりの下、まったく焼けた様子のない白磁の肌。切れ長の双眸は瑠璃るりの宝玉で、通った鼻筋と薄い唇は名技師が丹念に造った貴石の彫像のようだった。

 ひとにあらざる美しさ。

 ティルシュの全身を、恐怖と畏怖が入り混じった怖気おぞけが通り抜けた。

 砂漠に、荒野に、廃墟に、棲むと伝えられる妖魔のたぐい、それ以外に思い浮かぶものもなく、恐慌に陥りかけた——寸前。


「何やってるの? こんなトコで」


 発された言葉はなまりのない、流暢りゅうちょうなウィザール語だった。

 子供のように目を丸くし驚きを隠しもしない表情が、先ほどの人外じみた印象を一瞬で霧散させる。

 茫然ぼうぜんと固まるティルシュを彼は不思議なものを見るかのように見ていたが、やがてくすくすと笑いだした。


「なんて顔してるんだよ。こんな場所に座り込んでる君のほうが、通りがかりの僕よりずっと怪しいと思うんだけど」


 年齢不詳の、屈託ない笑顔である。いまだ相手の正体をつかめないゆえにティルシュは返す言葉も思い浮かばず、無意識に後ずさる。

 彼は気分を害した様子もなく、むしろ足を踏みだして距離を詰めてきた。


「え、え? あの」

「大丈夫。……いい子だね」


 怯えるティルシュがさらに身を引くと、彼は視線を転じて傍らの騎馬へと手を差しだした。

 白馬は素直に撫でられており、怯えや警戒心は見られない。その様子から、彼が危険な存在ではないことを悟ってティルシュはようやく安堵する。


「おとなしいね、この子。折角だから名前を教えてよ。もちろん君の名前も、ね」


 視線が傾きティルシュを見た。やはりその顔は人のものとは思えない端正さだったが、もう怖ろしいとは思わなかった。

 無意識に愛馬のたてがみを撫でながら、やっと言葉らしい返答を口に乗せる。


「私は、ティルシュ。ティルシュ=クルスレード=ローヴァンレイといいます。彼女はソールフェイレイです」

「ティルシュ=クルスレード=ローヴァンレイ? どこかで聞いたことあるけど」


 一度聞いただけの名をするりと反復してみせて、彼は首を傾げた。ティルシュは視線を落とし、愛馬のたてがみを握りしめながら細い声で付け加える。


「つい昨日まで、私はローヴァンレイの国王でしたから。今はもう、そうではありませんが」

「ローヴァンレイ国って十日前に、新王が即位したんじゃなかったっけ?」


 驚いたように聞き返す彼に、ティルシュは返答できずうつむいた。その様子に、まさか、と彼が声をあげる。


「その新王って、君のことなの?」


 はい、と答えた声は消え入りそうに小さかった。

 戸惑うように視線を揺らしつつも、彼はティルシュに手を差しだし、言った。


「名前を聞いておきながら名乗らずごめん。僕はジュラ、時をつかさどる、竜族だ」

「リュウ、族?」


 怪訝けげんな顔で繰り返したティルシュに対し、彼は苦笑して尋ねた。


「知らない?」


 返答をためらう様子から察したのだろう、ジュラは小さくため息をつく。


「無理ないか。僕らの存在なんて伝承の中にあるだけだろうし、それを知ってたとして、よほど美化されちゃってるんだからたまらないよね」

「勉強不足で、申し訳ありません」


 彼があまりに寂しそうに言うものだから、心が痛んでティルシュは目を落とす。

 竜族、という存在を知らなかったわけではないのだ。自分の中でその存在は漠然としたつかみ所のないものだったから、結びつかなかっただけ——などというのも結局は言い訳に過ぎないが。

 費やさなかった努力を咎められても仕方ないだろう。

 竜族が人の姿をしていることくらい、伝承をひもとけば解ったはずなのだ。よりによってそんな相手を妖魔と勘違いしたのだから失礼にもほどがある。後悔と羞恥でティルシュは顔をあげることができずにいた。

 ジュラは握り返してもらえないてのひらを握ったり開いたりしていたが、不意に腕を伸ばしてティルシュの手をつかんだ。


「とにかくここにいても仕方ない。逃げてるんだろ? 僕を信じて、任せてくれない?」

「……でも」


 おもわず身を引くティルシュに彼が見せたのは、極上の笑み。


「大丈夫。竜族の誇りにかけて、僕は君に危害を加えない。君を必ず守ってあげると誓うよ」


 ジュラの言葉には信じるに足る重さがあるように、ティルシュは感じた。決して彼の言うような警戒を抱いていたわけではなかったが、それでも今の彼を動かすには必要な力だった。

 握られた手に体温が伝わってくる。竜族かれらにも人と同じ生身の身体があるのだとぼんやり考える。

 結局促されるままにティルシュは、この不思議な青年に導かれて、白い瓦礫の街を後にしたのだった。





 甘い風が彼女の長いダークヘアを踊らせる。遠い過去に彼の指が髪をすいてくれたことを、思いだす。

 空をけるは透明な風。

 さざめく草の葉にチカチカと弾かれる、光のかけら。

 その光の海に身を浸して、彼女はふんわり微笑ほほえんだ。

 両の腕を高く、天へと差し伸べる。


「愛してるわ」


 いつだって、いつまでだって、現在いまだって。

 信じている。

 その約束がどれほど信じがたいことであっても、きっと真実になると。

 ねえ、だから。


「早く、逢いに来て……?」


 そっと囁いた言葉は、こたえられた言葉は。

 通り過ぎた風だけが知っている。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る