第一章 光を統べる者
一.姉と弟
鮮やかな深紅に
一羽、また一羽と、黒羽の鳥がねぐらへと帰ってゆく。脇目もふらず、今の今まで熱心に木の実を集めていた少年は、夕刻を告げるその鳴き声に我に返ったように顔をあげた。
「あ、もうこんな時間だ。帰らなきゃ」
母には、光の無くなる時間に外へ出てはいけないと言いつけられている。なぜと尋ねれば、闇の時間は
母自身もわかってはいないのだ、と彼は思う。
村の大人たちがそう言い伝えていることを、少年も知ってはいる。
言い伝えの真偽はどうであれ、門限までに帰らなければ母が心配する。
不安がちな母に小言を聞かされるのも、小心な父に煩く叱られるのも、彼としては面倒臭かった。登っていた木から身軽く飛び降り、木の実をいっぱいに放り込んだ
世界に満ちるは
編みあげた魔力を持つ言葉が、ざわりと空間を変容させる。
「『時空を織りあげし時の精霊よ。
ゆらり空間が歪み、裂け、少年を呑み込み、そして閉じる。
十分の一秒ほどの
まだ、世界が分かれはじめて間もないころ。
きんいろに降り注ぐ光。大地を駆ける透明な風。青く澄み切った空。
緑の草木が大地を覆い、清く透明な流れには魚たちがすまう。
歌う鳥たち、躍動する獣たち、そして人間たち。それが、この世界の住人だった。
人に温もりを与えるのは、鮮やかに輝く炎。夜闇を彩るのは、月光と星の幻。
世界にははじめ、人間だけが住んでいた。けれどやがて、
彼らはそれぞれに村をつくり、多くは森に住むことを選んだ。
––––そのころ、人間と竜族の間にまだ、交流はなかった。
「ただいま、母さん」
「お帰り、アスラ。……今日はどこへ、いってたの」
出迎えた母は少年の腕に抱えられた編み
小さな村とはいえ、食べ物に事欠くような生活はしていない。村にもその周囲にも果樹や山菜があふれており、遠出をする必要などないのだ。
それなのに息子はいつも、村から何キロも離れた森の奥や川に行ってばかり。それが彼女には
「アスラ、ねえ聞いてるの? 村の外は危険なのよ。何かあっても、あまり遠くだとわたしたちが気づけないじゃない。ねえアスラ」
少年は答えることなく、籠を抱えたまま母の横を早足で通り過ぎてしまった。追いかけるように話し続ける彼女を無視し、立ち止まりもせず階段を上っていく。
「アスラ、アスラったら!」
「母さんには関係ないよ」
上から素っ気ない声が返ってきて、母は言葉を失う。
ややあって、言い訳のようにアスラの言葉が続けられる。
「それに、姉さんが
「また、そんなこと言ってるの? あの子に……人間のあの子にそんな力があるわけないじゃないの!」
「母さんは知らないだけだよ!」
叫ぶように言い返した母の言葉よりなお強く、アスラの声が飛んできた。母は怯えたように身を
「アスラ、だって……本当のことじゃない」
返る声はなかった。彼女はそれでもしばらく階段の下で待っていたが、息子が降りてくる気配はなかった。
あきらめたようなため息を残し、重い足取りで階段を離れる。
母自身が、おのれの言葉で傷ついてもいるのだということ。––––それに気づくのには、アスラはまだ幼すぎたのだった。
部屋の扉が勢いよく開いたので、黒髪の少女は驚いたように振り返る。彼女の手には小さな白い花が握られていた。
どうやら花瓶の花を取り替えていたところだったらしい。
「どうしたの? アスラ」
眉をつり上げ飛び込んできた相手を見て、彼女がおっとりと首を傾げた。上質の絹糸のような髪が肩から滑り落ちる。
癖の強いアスラの銀髪とは対照的な、ストレートのダーク・ヘア。勝気なアスラとは真逆なおとなしめの印象を与えるこの少女は、アスラの実の姉である。––––そうであるはずだ。
竜族の体色は、その者が生まれ持つ属性の色に準ずる。ゆえに、髪の色や目の色が遺伝的要素に左右されることはない。
属性も遺伝するわけではないので、親子・兄弟でありながら容姿が似ても似つかぬ者もいる。炎の竜から氷の竜が産まれたとしても、異常なことではないのだ。
しかしアスラの姉はそれ以前の、もっと根本的なところで異常があった。すなわち種族そのものの違いである。
竜族の両親から産まれたはずであるのに、彼女は竜族ではなかった。彼らの持つ、強大な魔力と
それはあたかもこの世界の別の住人、人間の様であった。
魔術を操ることもできない
彼女自身に身の覚えがなかったため、しかしその潔白を証明だてるすべもなかったゆえに、その仕打ちはひどく辛いものだった。
当然のなりゆきとして、少女の誕生は誰にも祝福されることはなかった。村の者には忌まわれ、両親にも
けれどそんな少女にとっても、両親にとっても変化の
アスラは『時の
今の時点で世界には四人の司竜が存在しているという。
光、風、水、記憶すなわち人の心。
ティリーアの弟は、新たに産まれた司竜だった。それも『時と空間』をつかさどる、最も強力な力を持つ
村の者たちは鮮やかなほどにてのひらを返した。アスラの誕生をこぞって褒めそやし、自分たちの村からそういう存在が出たことを誇りにした。
そしてそれは母にとって、良い変化だった。少なくとも、
そういう村の者たちの変化自体はティリーアにとって何の慰めにもならなかったが、彼女を救ったのは他ならぬその弟竜だった。村の者からも両親からも
幼いゆえに、世間体や優越意識など分からない。
そしてアスラは
両親を嫌うわけではないが、姉を
生まれ育ちのゆえだろう、ティリーアは感情の乏しい少女である。
弟と両親の
感情を表すことのできない人形のような彼女が、それでもわずかに笑顔を見せるのはアスラに対してだけで、彼はその姉の笑顔が何より好きだった。
「なんでもないことだよ、姉さん。それよりこれ、見てよ。姉さんにお菓子作ってもらおうと思って、いっぱい採ってきたんだから」
話題を変えるついでに抱えた編み
「ありがとう、アスラ。こんなにたくさん、大変だったでしょ」
「
心配をかけないようにと慌てて言い添え、ついでアスラは話題を変える。
「そういえばね、村のみんなが言ってたんだけど……なんか偉いひとが村に来るらしいよ? どんな人なんだろね」
「ふぅん……」
朝、出がけに耳に挟んだ噂だったが、姉の反応は意外と淡白だった。
興味を覚えてくれなかったのは
「なんかね、この世界をつくったひとらしいよ、そのひと。みんなが『
面白がってくすくす笑うアスラの様子を見て、姉は口もとをわずかに
「アスラったら……高貴な方にそういう言い方は失礼よ?」
「いいじゃん、別に」
当人がここに来て、一緒に話を聞いているわけでもないのだ。アスラはその話題をそうやって流し、勢いよく窓を押し開けた。
残光が紫色にたなびく宵闇の光景を、目を細めて見渡しながら、どこか遠くへ思いをはせるように呟く。
「キレイだよ、姉さん。夜は魔の時刻ってみんな言うけど、そんなことはないよ。村のひとたちはどうしてそれが、わからないんだろう」
言うなれば、未知のものへの本能的な恐怖。村の者たちをとらえているのはそれに相違なかったが、幼いアスラに理解できるものでもなかった。
夜風に銀髪を揺らしつつ窓から身を乗り出す少年の後ろで、黒髪の娘は黙ったまま優しい笑みを
(姉さんが幸せになれますように。そのためならぼく、なんでもするのに)
祈りを向けた先は、そろそろ光りはじめた空の星だ。星はまるで自分たちを見守るように優しく淡く瞬いている、というのはアスラが常々思っていることである。
そもそも星とはなんなのか、あの光がどうやって地上へ届くのか、幼いアスラは何も知らない。
だから、心の中で祈ったその願いが星に聞こえたかどうかはわからない。
ただ、彼はなんとなく予感を感じてもいた。
時の竜の予感は、未来の片鱗である。それを肯定するかのように––––その
それが二人の運命を大きく揺さぶることになるのだと、その時はまだ知るはずもなかったのだが。
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