十.裏切りの刃


 ラシェールが営んでいる薬屋は老舗しにせのようなものなので、日中は来客も多く、すべき仕事もたくさんある。作業の邪魔になっては悪いからと名目づけて、ジュラはティルシュをともない町の散策へと繰り出した。

 ティルシュの心情に配慮してくれたのだろうが、どちらも話題を蒸し返す気にはなれず、ジュラが町を案内しティルシュがついていくような形で時間を過ごす。

 異国の品が並べられた市場、潮の香りが混じる湿気しけた風、かなたに停泊している色あざやかな帆船はんせんの連なり。気分は沈んでいても、眼に映る景色や肌に感じる空気は新鮮な驚きに満ちていた。

 船員たちが賑やかに駆け回り、波の音と人の声が混じりあう。人々が異国の地に憧れる心情がなんとなくわかるような気がした。


 そうやって日中をのんびりと過ごし、夕刻に二人はラシェールの店へと帰る。

 数日は彼の家に泊めてもらい、星刻せいこくの日に砂漠へおもむく予定ということだった。


 三人で夕食をとり、久しぶりに湯に浸かって疲れを癒す。

 彼の家は宿ではないので、彼の両親が使っていたという部屋にジュラと一緒に泊めてもらうことになった。二人用のベッドは十分な大きさがあり、一緒に寝ても狭すぎるという心配はなさそうである。

 あかりを落とし横になったものの、ティルシュはどうしても眠れなかった。

 何度も寝返りをうちながら、傍らで眠るジュラを起こしては悪いという思いがますます身体を緊張させ、頭を冴えさせる。そうしてどれだけの時間が経ったのだろう、ふいにジュラが身じろぎした。


「……ティルシュ、眠れないの?」


 気遣わしげな声とともに灯りがともる。わずかに上体を起こした格好で、ジュラが心配そうに首を傾げていた。


「すみません、起こしてしまって」


 小さく謝ると、ジュラは改めて身を起こし、うーんと伸びをした。


「大丈夫、竜族ってあんまり寝なくても平気だから」


 安心させる言葉とともに向けられる屈託のない笑顔。年齢不詳なこの表情かおに、出会ってから何度救われてきただろう。

 願いが叶う星刻の日は、彼と別れる刻限だ。その予感が不安で、苦しかった。


 ぱたぱたと、手の甲に涙が落ちる。

 もう限界だった。

 本当は、どこかずっと遠い場所に逃げてしまいたかった。逃げられるような場所などどこにもないと、分かってはいたけれど。

 肩にそっと腕を回される。華奢きゃしゃで温かい腕が理性を溶かしてゆく。きしむ心からとめどなく涙があふれた。

 ジュラに抱きしめられたまま、子供のようにティルシュは泣きじゃくった。


 瓦礫に埋もれ途方にくれていた自分を見つけて、拾いあげてくれた。外の世界を知らない自分に必要なものを備え、世話をしてくれた。世界を紐解ひもとき、過去を伝え、未来を示してくれた。

 そして今は何も聞かず、そばにいてくれる。

 何も持たない、何も返せない自分を、彼がどれだけ大切に扱ってくれているのか、分からないほど子供ではない。

 分不相応な優しさに自分がどれだけ甘えているのかも。

 彼の優しさに報いるどころか傷つけてしまった、という自責が心を引き裂き、自己嫌悪を募らせてゆく。


「……私は、王に向いてない、……いっそ、このまま誰かが、そのほうが……きっと、国のためになるんです」


 今までで一番本心に近いであろう独白を、ジュラは黙って聞いていた。優しく背中をなでるてのひらが、ティルシュの気持ちをしずめていく。


 優しさは弱さであるとひょうする者もいるだろう。

 ティルシュの気質はある意味では、王に向いていないのだろうとジュラは思う。でも、だからこそ、成せることがあるとも思っている。

 それにこの気質は、この世界ほしを造ったあおい風がなにより愛した心だ。

 たとえ存在が消えてしまったとしても、託された心は消えはしない。

 巡る螺旋らせんの時の中、姿を変えても受け継がれゆく幾千の想い。つなぐ命に心を託して、やがては世界を変えてゆくはずだから。

 それはいつか、荒漠こうばくの未来さえも変えてゆく力となるはずだから。


「ティルシュ、僕、君が大好きだ」


 吐息にのせて囁いた言葉が、ティルシュの涙を止める。


「君が、どうしても無理だと言うのなら、僕は君に王を強要したりはしない。でも、僕は君なら、いい王様になれるって思うんだ」


 巡りて繰り返す時代を時の司竜じぶんたちはずっと、見てきた。

 滅びへいざなう無慈悲な運命はいつの時代も人々を翻弄ほんろうしてきたが、人間ひとは失敗を悔い、未来に立ち向かい、ひたむきに生き抜いてきた。

 その生き様をずっと見てきたのだ。


「ティルシュ、だから君はもっと自分を、そして自分の国を、愛さないといけない。だって、愛する者のためにこそ、人は最善を尽くすことができるんだから。だからまずは自分をまっすぐ見つめて、自分のことを愛してあげて。僕は君のことが大好きなんだよ」


 強くいだいた腕からこころが流れこむ。

 大好き、という言葉は真実ほんとうだと解っていた。何も考えたくはなかった。返す言葉を探すこともできなかった。でも、それでも。

 不安も恐怖も、ゆっくりと溶けていくのを感じた。

 それが今のティルシュの真実だった。






 早朝に、ラシェールの店の戸を叩く音がした。開店前で薬草のり分けをしていた少年は慌てて声を投げる。


「いらっしゃいませー。開いてるよ!」

わりい、客じゃねえんだが」


 聞き覚えのある声に、竜の少年の顔が明るくほころんだ。


「シエラ! 良かった、ちょうどジュラも泊まってたところだよ」

「何い!?」


 漆黒の長髪を一本に束ねた、夜闇の双眸そうぼうを持つ男は、妙に落胆したふうにカウンターまでやってきた。不思議に思って首を傾げ、ラシェールは尋ねる。


「どうかした?」

「あ、来たんだシエラ。良かった……っていうか手紙に返事書いてよね」


 階下の声に引き寄せられたのだろう、ジュラが階段を降りてくる。それを細めた目で眺めやり、シエラは低く呟いた。


「おまえに先を越されるなんて悔しいぜ、坊や」

「……僕、もう子供じゃないんだけど」


 呆れを声にのせてジュラは応じる。出逢った時は確かに幼い少年だったが、もう二百年以上も昔の話だ。揶揄からかうにしても、坊やはないだろう。


「何か不味マズったのかと思ったじゃん。びっくりさせるなよ、シエラ」

「まったくだよね」


 ラシェールもジュラに全面同意する。そんな二人をシエラはにやにやしながら眺めていた。子竜の成長を見守る親の気持ちでも味わっているのだろうか。

 そんなやりとりをしているうちに、ティルシュも階下へ降りてきた。

 腫れたような赤い目に気づいてラシェールは気まずそうに黙り込んだが、ジュラは構わず腕を引っ張ってシエラの前へと連れていく。


「……おはようございます」

「おはよ、ティルシュ。紹介するよ、こちら初代銀河の竜のシエラ。シエラ、彼がティルシュだよ」

「おう、よろしくな」


 強引に手を取られ、強い力で握られて、ティルシュは本能的に身を引いた。が、シエラにつかまれたままなので当然逃げ場はない。野生の獣のような雰囲気の男は、凄みのある笑顔でティルシュに顔を近づけて言った。


「なんだ? 挨拶が聞こえねえぜ、ほら」

「え、ええと」


 怯えるティルシュの眼前で、シエラの頭に掃除用のほうきが落ちた。ぐふ、とうめくシエラの後ろには、呆れたように半目で箒をつかむジュラがいる。


「痛え!」

「ガラ悪いんだよシエラ、ティルシュをいじめないでくれる?」

「これくらい普通の挨拶……ってやめろ落ち着け」


 シエラはティルシュの手を離して、ジュラの攻撃から逃れようとする。

 叩き出す、あるいは掃き出す、といった形容が似合いそうな二人の攻防を眺めながら、ティルシュは思案に沈みつつ視線を泳がせた。


 昨夜の心を裂くような動揺は、朝、目覚めたときには消えていた。不安が消え去ったとは言えないが、ティルシュの中で覚悟のような決意が固まりつつある。

 いずれにしてもまずは、国へ戻らなければ。

 その上で何が起きるのかはある程度予想できたが、もう、逃げてばかりいるのは嫌だった。何より両親の安否を確かめたかった。

 そのためにも、せめてクフォンが無事でいてくれれば良いのだが。

 そんなことを考えながらぼんやり窓の外を眺めていたティルシュの意識が、視界の端を横切った人影に気づいて一気に覚醒する。


 間違いない、あれは——。


「すみません、ちょっと出てきます!」


 店内の三人に声をかけ、返事を待たずに外へと飛びだした。ジュラが何か叫ぶ声が聞こえたが、答えている余裕はない。

 さほど広くはない通りの中央に立ち、辺りを見回す。いない。


(クフォン……!)


 見間違えるわけがない。

 彼の姿であれば、どんなに遠くからでも見分ける自信がある。見たのが一瞬だったからといって、間違えるはずなどない。

 生きていたのだという安堵あんどが心を震わせた。

 見つからないという焦燥しょうそうが胸をしめつける。

 人混みの中だろうと望む相手に声を届ける魔法が使えたなら。中空から地上を見渡すための翼があったなら。

 焦る心が意味のない思考を弾きだす。


 ——と、突然。

 ぐいと誰かに肩をつかまれた。

 ティルシュは期待を込めて振り向き、そして恐怖に身を凍らせた。


「見つけましたよ、若様」


 親愛を言い含めるかのような声音で、しかし瞳に明確な侮蔑ぶべつの色を映して、彼は言った。父の従兄弟いとこの息子、ティルシュにとっても血縁であるトゥースという名の彼が、なぜここに——、

 問いを巡らす思考は、最後まで形にすることができなかった。

 ざく、という鈍い音と、腹に焼けるような熱さを感じて、ティルシュの全身からすべての力が抜けた。





 膝をついた自分を見おろす、黒髪になかば隠れた双眸そうぼうは、冷たい殺意を映し暗く燃えている。どうしてという問いは、込みあげてきた血で音にならなかった。

 容赦のない勢いで身体から剣が引き抜かれる。その痛みにも、麻痺した全身はあらがうことができなかった。

 ティルシュの前髪をつかんだ彼は、あざけるように唇のはしをつりあげる。


「おまえみたいな異国の血が混じる者に、国を治められてたまるか」


 それが裏切りの理由か、と、自分の中で理性が告げた。怒りや憎悪は不思議と湧かなかった。それよりも——ただ悔しかった。


 私はまだ、彼らに何も返せていないのに。

 ありがとうさえ言えず、このまま、——……、


 最後に意識の片隅で、ティルシュは誰かが呼ぶ声を聞いた。





 父は、異国から訪れた女性を見初みそめて妻にした。

 王でありながら貴族たちに迎合げいごうしない自由な気質の父は、遠い異国に憧れを抱いてもいたのだろう。身分にも出身にも頓着とんちゃくせず、めかけをとることもなかった。

 ティルシュにとって、両親は温かな居場所だった。

 だが、それは家族にとってというだけだったのかもしれない。

 黒髪が主であるこの島において、異国の血を引く異相いそうの王が排斥はいせきされる可能性を、ティルシュは考えたことがなかったのだ。まさか、命を奪われるほどうとまれているなどとは。


 同じ、人間なのに。

 髪色や出自しゅつじの違い、ただそれだけのことで排他はいた意識を持つ愚かな種族だから……竜と人は、訣別けつべつせざるを得なかったのだろうか——……?



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る