On The Turning Away

37.バック・トゥー・マイ・ホーム

 警察の全てが外国人街に集ったわけじゃない。

 だが、国内最大にして最強の組織、警察の敗れた光景は衝撃的だっただろう。

 全ての暴動が鎮圧されるのに三日かかった。


 自衛隊が内閣総理大臣の要請を受けて治安出動をしたのは、翌日の午前十時だ。

 防衛大臣は状況をつかめておらず、取材に来た記者に現状を尋ねる始末だったという。


 僕は港湾を歩いている。

 向こう側、外国人街には火が放たれ、業火となって、空を焦がしている。


 いつか見たコンテナマンへの送り火だ。


 雨が少しだけ降ってくる。傘をささず、僕はそのまま歩いた。

 濡れても僕にこびり付いた汚れは落ちない。


 劉との待ち合わせ場所は埠頭だ。そこに船が入ってくる予定になっている。

 劉はそこから国外に脱出する。僕は彼を見送りに来た。


 誰もいなくなっている港湾に男が一人佇んでいた。まるで迷子のようだ。

 雨に濡れながら、痩せて不安そうな男の背中。


 劉だった。

 彼は相変わらず貧相ななりで、僕を見つけると顔をクシャクシャにして駆け寄ってきた。

 上下ともにボロボロで、最初に会ったよりも酷い有様だ。


「待ったか?」

「いや、ウノ。大して待っていない。俺はタイ経由で帰る事になっているんだよな? それに乗って家に帰れるんだよな?」


 彼は相変わらず疑う事を知らない。

「そうだ。それにしても、王は残念な事をしたな」

「ああ、暴動に巻き込まれるなんて、あいつもついてないよ。折角、これからだっていうのに。馬鹿だよあいつ」


 辛そうに顔をしかめる劉。

 悔しそうに下唇を噛んでいる。


「金は送金したか?」

「ああ、ウノの言う通り、ハワラに預けておいた」

「そうか。受け取りはマカオになるからな。船に乗ったら、乗組員から偽造パスポートとマカオの通行証を受け取れ。その後はタイに行け。家族と一緒に行くんだ。他の連中には、その話を一切するな。お前の家族も含めて、タイに着くまで何も話すな」

「すまないな。ウノ。俺はお前を信用できないと思っていたが、俺の勘違いだったようだよ。俺はタイに行くが、お前が来たのなら家族にお前を紹介するよ。そして、大きな祝宴を開くんだ。俺の娘もお前に会えば、きっと喜ぶだろう」


 劉は人の良い笑顔を浮かべた。

 黒く灰を浴びた彼の顔には、涙の跡がいくつも残っている。

 王が死んで、皆死んで、随分と泣いていたのだろう。体以上に心が痩せている。


 僕は劉に同情したわけじゃない。僕の心は渇いたままだ。


「なあ、ウノも俺と一緒に行くか?」

「僕はここにいる。どこにも行かない。僕は忘れ物をした。それを取りに行かないといけない」

「もう決めた事なのか?」

「ああ、決めた事だ。いや、決まっていた事なんだろうな」

「マフィアの連中が血眼になって、ウノの事を探している。陳を脅して、マフィアの金を凍結しようとしたのがバレた。彼らはウノを決して許さない。マフィアに見つかれば、きっと拷問して殺される。陳もメルキアデスも殺された。マフィアは全く容赦がない。それでもウノは残るのか?」


 中国人の多くは、中国人同士の絆を重んじる。それ以上の繋がりというのは、基本的には存在しない。

 それこそが世界に股がる中華ネットワークの強みだ。


 だが、例外もあるようだ。劉はそこから抜け出した。

 彼は自由を手に入れた。


「俺と一緒に逃げないか? お前といれば、何でもできる気がする。お前がリーダーでいい。俺は何でも言う事を聞くよ。残酷な事は全部やめて、新しい世界で新しくやり直してみないか?」


 僕は首を振る。

「そうか。残念だ。とても残念だよ。ウノも知っているだろうが、中国語のさよならは再見という字を書くんだ。俺達中国人が別れる時には、次に会う事を考えて別れる。だからウノ。ツァイチェンだ」

「ツァイチェン」


 僕と劉は別れた。

 雨は酷くなっている。

 流水となって僕の顔を洗い流す。

 僕は足を家へと向けた。


 僕は携帯音楽プレーヤーを家に忘れてしまった。それを取りに戻る為に家に戻る。

 ここからだと歩いて三時間ほどで着くだろう。誰にも見つからなければ、だ。


 僕の父親を殺し、秋代の父親を殺した。


 目覚めた秋代がプレーヤーをベッドの片隅に投げ捨てた。それをすっかり忘れていた。


******


 自分の父親が殺されているのを見て、秋代は逆上するだろうと思っていた。

 そして、彼女はその細い指で僕の首を締め、僕を殺そうとするとばかり思っていた。


 ところが、秋代は目を離した瞬間に、近くにあったボールペンで自分の首を刺して自害した。

 まったくの計算違いだ。

 僕は秋代の首を押さえたが、血の迸りを抑える事はできない。


 僕の全身は血まみれになった。

 血の出る所を押さえても、彼女の体が冷たくなるのを止められない。

 秋代の魂が飛び去るまで、血は止まろうとしなかった。


 白いワンピースが血で染まっていた。

 胸が痛くなるような気がしたが、僕にはそれが何かわからなかった。

 涙が一筋落ちた気がしたが、それも気のせいかもしれない。


 フラッシュ・ライオットを起こすべく、PCに向かったのは、それからしばらくしてからだ。


******


 意識を引き戻すと、そこは見慣れた景色に変わっていた。

 通りに並ぶ屋根。そして塀や木々。全て見覚えのある景色だ。全て見覚えのある死んだ世界。


 雨に打たれながら、夜の闇に死んだように横たわっている。その角を曲がれば、僕の母親の家がある。


 気が付けば四時間半もかかっていた。


 角を曲がると門の前に警官が立っている。

「誰だい。君は?」



「僕ですか? 僕は仙道達也です」

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