19.クラック・イン・ザ・ウォール
公安警察。
正式には警備警察の公安・外事部門。
極左暴力集団、右翼団体、共産党、外国諜報機関、国際テロリズムなどに対しての捜査や情報収集を行う部門だ。
一般人とは関わりのない部門だが、国家の治安を乱す可能性がある事案に、彼らは対応する。
トップは警察庁の警備局長、その下に五つの課がある。
海外の事案を担当するのは外事課になり、地域毎に課が設けられている。
外国人街に潜められていた工作員の拷問は地下室で行われた。窓も無く密閉された空間は染み出てくる湿気でむせかえりそうだ。裸電球が赤く輝き、僕達を見下ろしていた。
影の輪郭は不明瞭だったが、肉を打つ音が
椅子に縛られている男の名は鞏水明。中年の男だ。鞏の周りにいる中国人達は、鞏は建築関係の仕事をしていると言っていた。
拷問を担当するのはメルキアデスと僕だ。
鞏は日本語と中国語しか話せないので、英語での尋問はできない。
メルキアデスが責めて僕が訊く。
部屋の隅にはリカルド。興味本位で覗きにきたらしい。
最近、リカルドの待遇は改善させているが、態度も日増しに大きくなってきている。話の途中に割り込んでくるなど日常茶飯事。
だが、幹部としては優秀で、先のコカインの仕入に大きな貢献をしている。
僕は鞏の髪を掴んで引き上げた。髪は脂で濡れており、指先に絡んでくる。
「お前達に指示を出しているのは誰だ?」
鞏の下半身は裸。後ろ手に荒縄で括られていた。
時間をかけて殴られ、赤い電球の下で、彼の顔は黒く腫れている。爪を剥いでも何も喋らない。
メルキアデスはゴム手袋をして鞏の睾丸を掴んだ。責める度に睾丸を潰すように、握力を加える。
苦悶の声が反響し、まるで地獄が地上に降りたかのようだった。
メルキアデスは拷問を行うのに
電球を浴びて、黒々とした肌に血がからんでも、顔色一つ変えなかった。
「わかった。言う。言う。外事二課だ」
喋り始めた。心の堤防が少しだけ崩れた。一度、決壊した堤防は、もはや水を止められない。
掴んだ髪を更に引き上げ、僕は顔を近づける。鞏の口から吐き出される息は鉄の匂いがしている。
「で、そいつとは、どうやって知り合ったんだ?」
質問は続き、鞏は答える。
「五年前に不法就労で捕まった時に、持ちかけられた。麻薬取引を暴く際に協力させられた」
聞き取りにくい中国語。日本語の方が良いかもしれない。
鞏は金魚のように口を開けて喋る。欠けた歯には赤黒い血がまとわりついていた。
「ここへはいつ来た? 会う頻度は?」
「二週間前。約束では一週間に一度。職場近くの自動販売機の上に、缶を置くんだ。その日の夜に指定の酒場で情報交換する手はずになっている」
公安刑事を殺すと厄介だ。
鞏の足の小指を踵で踏み潰す。苦悶の声をあげた。足をどけると小指の爪が床に張り付いていた。
悲鳴が終わった頃、今度は足の甲を踏みみつけた。
「ここへは何を探るように言われている?」
「この街での動きを逐一報告するように言われている」
「僕達の事も言っているのか?」
「言っている」
「どのような報告をした?」
「おっかない連中らしい。複数の外国人をまとめて、覚醒剤の販売をしているらしいと」
僕が踵をあげると、鞏は泣き声をあげて、足をすぼめる。
足の潰れた痛みに、表情も制御できず、顔は原型を留めていないほどに変形していた。
「それだけか?」
「本当だ。それだけしか言っていない。信じてくれ」
「メルキアデス。玉を潰さない程度に、締め上げろ」
鞏は理性を失った猿のような悲鳴を喉から絞りだす。あまりの大声に声帯が潰れたらしい。
何かが裂けた音の後に、悲鳴に雑音が混ざるようになった。
ぶと、リカルドの方を見ると、彼は親指の爪を噛んでいる。
違和感を覚えた。
コロンビアにいた時に、この手の拷問を見ていないとは思えない。
そもそも、リカルドが拷問を覗きにくる必要性はあったのか?
「信じろと言われて、信じると思うか? それだけじゃないだろう? 姜は違う事を言っていたぞ」
鞏に向けた質問。これは嘘だ。
鞏から隠している情報を吐き出させる為の方便。もう一人のスパイであった姜からは、何も聞き出せていない。
だが、姜が喋ったと聞けば、鞏も口が回りやすくなるだろう。
「本当だ。本当にこれだけなんだ。信じてくれ。お願いだ」
僕はメルキアデスの方を見る。大まかに英語で説明をすると、無言で首を振る。
彼は汗を拭い、これ以上は何も出てこないだろうと目で語ってきた。
「それで一昨日の停電はおまえらの仕業なのか?」
「いや、違う。あれは俺達じゃない」
睾丸をひねる。
男は口から血の混ざった泡を吐く。体を動かす為に大きく椅子が揺れた。
「ほ、本当だ。あいつ。”孫”がその担当だ。俺達とは違って、あいつは警視庁組織犯罪対策部のスパイだ。あいつらが停電を起こし、工作員が陳の店を監視するカメラを設置する予定だった」
「リカルド。この前、停電時に修理工が来たが、どうだった?」
話がいきなり向けられた為か、リカルドは飛び上がるかのような反応をした。
意識を他に飛ばしていたようだ。目が泳いでいる。
リカルドの様子がおかしい。
「あ、ああ。俺と二人が修理工を監視していたんだが、特に何もしなかった。二人の男だ。目つきが鋭くて、体格も大きい。隙がない動きをしていた。工作員かもしれない。あいつらが去った後に、電柱を調べてみたが、何もなかった。おそらく、監視しているに気付かれたのかも知れない」
いつもは陽気なリカルドだが、今その面影はまったくない。目線を下に向けたままだ。
僕を見るように促すと、直ぐに視線を逸らせた。
引っかかるものがある。
前回のリカルドの報告と違いがある。彼が言っていた、車の強奪は失敗していた。
理由は修理工が三人だったから手が出せなかったという事だった。
だが、今のリカルドは二人と言った。辻褄があわない。
リカルドが車が強奪できなかった為、結果報告で話を膨らませている可能性はある。
だが、それでもリカルドの様子が腑に落ちない。
リカルドの表情を観ていると、生気がないように思える。怯え過ぎ。彼の額に流れる汗が、視覚に焼き付く。
裸電球の明かり、鞏から出てくるうめき声。疑問は徐々に疑惑へと変わってゆく。
リカルドは何度か拷問に立ち会っていた事がある。
その時に彼はこれほど怯えていなかった。
僕は意識を鞏に戻す。
彼は萎びたトマトのような顔をして、助けてくれと懇願する。
「その組織対策部は何を狙っている?」
「陳の経営する地下銀行だ。あいつらが張っているのは、一年前からだ。決定的な証拠がつかめていないらしい」
死角でリカルドが動きが見えない。たしか、彼のシャツは汗だくだった。タバコの火がどうしようもなく揺れていた。
リカルドは何を恐れている?
「本当か? 本当に組織対策部か? 目的は本当に陳の地下銀行なのか?」
「本当だ。信じてくれ。どうしたら信じてくれるんだ」
鞏の声が悲鳴にと変わってくる。トーンは上がり、足が震えている。揺らされる椅子の足は床を乱打し、鞏の割れ声が益々大きくなる。
僕はメルキアデスに命令を下そうと口を開きかける。
「¡
リカルドがそう叫んだ後、彼はメルキアデスの所に駆け寄りスペイン語で話し始めた。
メルキアデスはポルトガル語を母国語としている。
スペイン語とポルトガル語は非常に似ており、ネイティブ同士なら意思疎通は可能だ。
二人は僕の目の前で早口で喋っている。
両言語とも母音がはっきりしており、それらはまくしたてているようにも聞こえた。
手を広げ、必死に主張をするリカルド。彼は汗だらけだ。
スペイン語を理解できない僕には彼らが何を言っているかわからない。
リカルドとメルキアデスが共謀をしようとしているのか?
理解できない言葉が汚れた壁に反射する。それは跳ね返って、更に大きな騒音を生む。
鞏の潰れた小指が目に入った。削れた爪を中心にして、血の花が咲いていた。
この密閉空間で何が起こっても不思議ではない。リカルドとメルキアデスが共謀した場合、僕が次の鞏になる。
リカルドの声が更に大きくなる。それは、絶叫に近い。密閉された空間で頭が軋むほどの音声。
彼は外へ出る扉を指さして、この場を去ろうとしている。
メルキアデスとの共謀に失敗し、ここを去ろうとしているのか?
それとも、”孫”と同じく、どこかのスパイなのか?
僕は言葉を
「メルキアデス! この中国人を今すぐ殺せ!」
メルキアデスは何も言わず、中国人の睾丸を潰した。鞏は泡を吐いて失神する。
リカルドが悲鳴をあげた。
メルキアデスは間髪を入れず、腰に差していたモンキーレンチで、鞏の側頭部を殴りつける。
耳があった部分が大きくへこみ、血にまみれた紫色の粘液が壁に飛び散って張り付く。
「次にリカルドを殺せ! 直ぐにだ!」
メルキアデスの動きは一瞬だ。
手にしているモンキーレンチを引いたかと思うと、リカルドの足下へ踏み込み、彼の胸元から顎へと垂直にレンチを跳ね上げた。
リカルドの顎が砕けた音がした。顎があった部分は大きく潰れ、彼の輪郭から下顎が消えた。
メルキアデスは仰向けに倒れた身体に馬乗りになり、レンチの柄を眼球に突き刺す。
眼球の膜が破れて、黒目が卵の黄身のように頬を流れる。リカルドの身体は大きく痙攣した後、動かなくなった。
「メルキアデス。リカルドは何と言っていた?」
「こいつは以前に拷問で睾丸を潰された事があるらしい。それを思い出すから、睾丸を潰す拷問は止めてくれと言っていた。トラウマだったのだろうな」
メルキアデスの視線は僕に注がれている。これ以上、僕が言葉を重ねるのは良くない。
直感的にそう思った。
僕の判断ミス。
リカルドが拷問ごときに怯えを感じるはずはないと思った。
だから、中国人が責められている時に、怯えたリカルドを疑った。
ここは閉鎖された空間で、リカルドとメルキアデスが共謀された場合、殺されるのは僕になる。
そう判断しての事だ。
一瞬の決断を要求される場面で、迷いがあれば、命取りになる。
だが、判断を誤ってしまった。
「メルキアデス。リカルド配下の連中はお前が仕切れ」
「リカルドの処罰理由は何にする」
二人の生者と二人の死者の空間で、僕達はお互いを探るようにして会話を交わす。
言葉は核心には触れずに、触覚のように、注意深く微妙な変化を探る。
屋根が低過ぎる。何故かそう思った。
「僕が尋問している間に、スペイン語で会話した。それは英語ではなかった」
「そうか。死体を処理しておく。ボスは自分の部屋に戻っていてくれ」
リカルドの口から落ちたタバコが、階段を伝わって落ちる血で音をたてて消えゆく。
煙と一緒に蒸発した血の臭いがあがってくる。
「後は頼んだぞ」
「わかった」
階段を上がる背中にメルキアデスの視線を感じた。
<Supplement>
カクヨム上で描写に問題がある場合については、
通報前に感想欄、もしくは下記の近況報告にてご連絡下さい。早急に対処します
https://kakuyomu.jp/users/eed/news/1177354054887306964
本作品にはテーマがあり、決して犯罪を示唆するものではありません。
</Supplement>
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