14.イン・ザ・ダークウェブ

 僕の母親との関係は赤の他人のそれと極めて等しい。

 彼女は僕に何の関心も持っていない。

 母親はインテリア中毒で、ブランド中毒でもある。


 モノが作り出す価値という名のシェルターに逃げ込んでいれば、何も彼女を傷つけないと思い込んでいる。


 彼女との関係は無味無臭。味を失ったガムだ。

 間接照明で仄暗い廊下。隅々まで掃除さており、塵一つ落ちていない。

 廊下に右側にはドアがあり母親の部屋になっている。物音一つ落ちてこない。


 僕が外国人街に行くまでは、唯一生きていると認識できていたのは、グロ画像を見ている時だけだった。

 生と死の境界線を見て、辛うじて自分が生きているという事を確認していた。


 今は違う。



 だが、家の中に居るとどうだろう。世界は再び現実感を喪失してしまう。

 廊下の奥のドアを開いて入ると、ダイニングは整理されており、母親が料理した形跡すら見当たらない。

 艶のある黒いキャビネットのガラスの奥には等間隔で並べられた皿やグラスが黙って整列している。

 カトラリーの枝には意匠の凝った花々が浮いているが、暖色系のLEDで照らされた銀の色は赤身を帯びていた。

 アンティーク調のテーブルに置かれた茶色のテーブルランナーは、角度を変えると模様が浮き上がる。


 そのテーブルを前にして席へと座る。僕は調和した家具の一部になった気がした。母親が僕に食事を用意してくれる、盛られたスープに厚みのある肉が目の前に置かれた。


 鉄板の上で焼けた肉の焼けた音だけが、静寂なキッチンを満たす。


 虚飾の世界。

 上辺だけの世界。

 見て見ぬふりをする世界。


 まるで、どこまでも続くガラスの地平線に置かれたガラス玉のような虚無感。


「達也さん。塩を取ってくれるかしら?」

「はい。ママ」

「ごめんなさい」


 まるでダンスのような会話。次のステップを探るかのように言葉を選択する。

 塩が入った小瓶はクリスタル。透明だが通る光は屈折し、向こう側は見えはしない。


 母親は遠慮しがちに僕に尋ねてきた。

「最近、家に帰ってこないけど、あなたは何をしているの?」

「ああ、友達の所に泊まっているんだ」

 

 僕の渡した塩を母親は受け取る。声は相変わらず生気がない。

 目を見ても、彼女の中に意識があるのかわからない。目が虚空を視ていた。


「そうそう、今月のお小遣い渡していないけど、お金は大丈夫なの?」

「アルバイトしているからね。ママは心配しないでいい」

「そう。それならいいけど。でも……」

「ママ」


 僕の差し込んだ言葉に、彼女は驚いた表情をする。そして、苦しそうに顔に苦渋を滲ませた。

 ほつれた髪には白髪が交ざっている。ここ最近は染髪もしていないらしい。

「ごめんなさい。ごめんなさい。私、また聞き過ぎたのね。ごめんなさい」

「いいさ。何も問題ない」


 母親は頭を手で抱えるようにして、謝罪の言葉を唱え続けた。台風が過ぎ去るのを耐えようにも見えた。鼻に両手をあて、身体は小さくなり、今にでも消えてしまいそうだ。


 母親は洗練されていると思う。無駄なものはなく、まるで生きていない無機物のようだ。


 多分、母親も生きているという痕跡を失くそうと努力している。完成された製品。高価なモノは多くの場合沈黙している。


 彼女もそれに似せようとしているに違いない。


 そんな母親も口だけは別だ。肉を食べている彼女の口は獣と同じ動きをする。上品に口を閉じていても、下品な咀嚼の動きは隠せない。


 切歯で肉を引き千切り、臼歯で肉をすり潰す。

 舌は淫猥に肉の表面を撫で、涌き出す唾液と混じり合い、食道を通って胃に嚥下される。


 見慣れたダイニング。

 白と黒で統一されたインテリア。間接照明が柔らかな光で全てを包む。


 アンティーク調のテーブル。

 統一感のある弾力のある椅子は優美な曲線で構築されている。


 壁にかけられている時計は、白を基調としたデザインで、壁に溶込みシンプルに時間を刻む。


 これらは生きているのだろうか?


 僕は自分の髪を撫でる。自分の髪がセルロイド製じゃないかという気がしたからだ。


「じゃあ、部屋に戻るから。それと、食後に薬を飲むのを忘れないようにね。先生も言ってたように病気を治すのには必ず飲むようにしないと。ママは最近、落ち込みが酷いみたいだから。薬は新しくなっているから気を付けて。この前のとは色や形が違うから」

「ごめんなさい」


 また、謝罪の言葉だった。

 僕は階段を上がる。階段を昇りきった所には、ダリの十字架の聖ヨハネのキリストが架けられている。

 十字架にかけられたキリストを俯瞰している絵だ。


「僕は生きているのか?」


 ついこの間まで、僕は、何度も絵に尋ねたものだった。今の僕は何も尋ねない。


 部屋へと入る。モノトーンで統一され無機質で乾燥した部屋。黒のスチール製のテーブルに、置かれているPCの電源をつける。


 画面が切り替わり、ネットにログインする。ここが世界の入り口だ。ブラウザーを起動してネットへと接続する。


 クリック、クリック。

 気取ったブログが世界を語っていた。

 皆で優しい心を持つ事で世界は生まれ変わる。

 皆で協力し合う事で世の中は生まれ変わる。

 ――まず、現実と向き合え。本当にお前は世界を観たのか?


 クリック。クリック。

 水着の女性がこちらを見て微笑んでいる。

 そこにはカタログじみた作られた笑顔が張り付いている。

 快活な笑顔に健康そうな肢体は伸ばされていて、人生を謳歌してるとアピールをしている。

 ――モデルの女が考えているのは、自分の口座に振り込まれる金額だろう。


 クリック。クリック。

 日本は実に素晴らしい。

 人々は相互互助の精神を持っていて、助け合う事を忘れない。

 伝統のある建物は実に見事だ。治安は維持され博愛の精神を忘れない。

 ――自己承認が足りない日本人はいつでも他者からの視線を気にする。馬鹿な奴らだ。


 さあ、ダークウェブへと行ってみよう。

 そこには隠された世界がある。


 クリック。クリック。

 オンラインカジノにようこそ。ここであなたの運を試して下さい。

 ここではあなたはワイルドなハンター。

 グッドラック。幸運の女神を捕まえて。


 クリック。クリック。

 ここは奴隷市場です。

 目の醒めるような美しいコーカサスの女性、タイランドのキュートな幼女。

 それとも逞しいポーランドの男性。

 あなたのお好みのパートナーを選択して下さい。

 それらはあなたを幸福の王国へ連れて行くでしょう。


 ネットでこれだけ情報が溢れているというのに、人は自分好みの情報だけしか収集しない。

 世界はこれほどダイナミックなのに、それを受け入れるのを拒絶する。

 自分の認識できる範囲で、欲する情報だけを拾って世界をイメージを作る。



 ダークウェブだと、警察が行う捜査方法、体制。それに科学捜査についてまで詳細に公開されている。


 キャリアと呼ばれる連中が取り仕切り、ノンキャリアと呼ばれる連中はいいように扱われる。

 現在の警察は数値絶対主義に走り、現場ではひたすら数値と効率を求められる。体制的に体育会系になっており、無理強いを強いられている。捜査にも効率化が大切なのだそうだ。


 ノンキャリア組は置き去りして、キャリア組は自分の保身で頭が一杯だ。

 老後の彼らは天下り、防犯カメラ、セキュリティー会社等で安穏としている。

 警察の外注企業として、防犯カメラやセキュリティーが世間に提供される。だが、その会社から情報が引きずり出されている事実は知られていない。


 システムは暴かれ、そこから取り出された情報に、値札を付けるのがダークウェブ。


 数値絶対主義はここでも徹底されている。


 掲示板やSNSを見てみると、今日も飽きず、誰も彼もが泣き言を書き連ねている。

 彼らは負の連鎖の中で逃げ場所を探している。何もしようとせずに、ただ、そこで燻り、沈んでいる。


 そこに炎上するように煽ってやる。数秒で掲示板やSNSが炎上する。

 飛び交う罵詈雑言ばりぞうごんは、見ていて愉快だ。重ねられてゆく、感情の波。

 ネット上での荒れ具合が僕の愉悦ゆえつとなる。



 歪んだ感情に口角を上げていると、突然に秋穂の声が頭の中で再生された――




 ――僕はそれに応じる。

「秋穂、僕の心は無痛症だ。だから、何も感じない。そうだったな」


 最終的に彼女は首を吊って死んだ。

 顔が緑色に変色していていたのを鮮明に覚えている。

 いつも微笑みを浮かべていた口からは、紫色の舌がはみ出していた。


 目は見開かれ真っ赤に充血していたが、首だけはいつものように白かった。

 瞳は黒く塗りつぶされて、今にも眼球が眼窩からこぼれ落ちそうだった――



 スマホが振動する。呼び出しだ。浮遊していた意識を取り戻す。

ハイHi,こちらはウノだUno speaking。|呼び出しを随分長く待っていた《I’m just waiting for your calling for a long long time》」

「どうした。ウノ。声がいつもと違うが、何かあったのか?」


「ああ。僕は今、死体安置所にいる。静かで、平和な、約束された地」

「いつもと違うようだが、問題はないのか?」


 通話の向こう側では、シャフバンダルが不審気な顔をしてそうだ。

 目線を動かしてこの部屋を眺める。シンプルで無機質で、生きていない部屋。

 だが、スピーカーの向こう側は違う。


「なんでもない。それでシャフバンダル。電話してくるからには何かあったんだな?」

「ああ、ブラジル人がやって来て、お前に合わせろと言っている」

「理由は?」

「仲間に入れろと言っている。九州の方でトラブルを起こして、逃げて来たらしい。今は手元に仕事がないそうだ」


 シャフバンダルの声は相変わらずに淀みがない。

 元イラク軍人は要件を手短に、適格に伝えてくる。

「お前は会ったか?」

「ああ、英語も問題ない。訛りがキツいがな」


 英語が喋られるなら問題ない。意思疎通ができればコントロールができる。

「シャフバンダル、お前はどうしたい?」

「使えそうだ。可能なら手元に置いておきたい。そろそろ、もう一人リーダー格になる人間が欲しい。人手が足りない」

「今から三十分後には、そちらに着く。それまでは待たせておけ」

「早く来い」


 通話を終了する。息を深く吸うと、生の空気が僕の肺に満たされた。

 さっきまでは、乾いた空気だと思っていたが、電話の後は熱く、湿りを帯びている。


 ドアを開くとそこは世界だ。

 玄関は脱出口だ。

 そこから僕はどこにでも行く事ができる。外は全ての場所に繋がっている。



 空気も地面も何もかも死んだ場所を後にして、僕は外国人街に向かった。

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