Walking On The Edge
21.スニーク・コラプション
僕がビルから自宅に戻ろうとした時、シャフバンダルが質問してきた。
「ウノ。お前はどこに行っているんだ? 今日こそ答えてもらうぞ!」
広間に居並ぶ南米人やアラブ人の目線は、恐怖感より不審感の色合いが強い。薄暗い部屋で口は開かれず、視線が僕の心を探っている。
シャフバンダルは苛立ちを隠そうともしない。リカルドが死んでから、組織に無数の亀裂が走り、そ修復するのに
だが、僕には僕の予定がある。振り払うようにして答えた。
「僕は忙しい」
シャフバンダルは呆気に取られた顔。濃い髭の中で口を開き、白い歯が並んでいるのが見える。
広間を横切ると、アラブ人達が僕の行く道を空けた。彼らは黙っているが、疑いも目で僕の挙動を観察していた。
階段を降りようとする僕の肩を、シャフバンダルの言葉が離そうとしない。
「お前は日本のサラリーマン相手に男娼をやっていると言っていたな! それは嘘だろう?」
「どうでも良い事だ」
シャフバンダルが
「リカルドが死んでから、雰囲気がおかしくなっている! どこにも行くなとは言わん! だが、組織が落ち着いてからにしろ!」
「そう言う訳にはいかない」
シャフバンダルの制止を振り切り、僕は家路に着く。階段に捨てられているプラスチックやナイロン袋が、いつもより多い。風紀も乱れてきっている。
切れかけの蛍光灯で瞬きを繰り返す、暗い階段を降りて行く。
背中から、シャフバンダルの
******
僕の回想は、心療内科での呼び出しで霧散した。母親の順番が回ってきたらしい。
「仙道さん。お入り下さい」
「ママ。呼んでいるよ」
「ああ、そうね。ごめんなさい」
待合室では、オルゴールを模した音楽が鳴っている。部屋は淡い緑色で、シャガールの絵が飾られている。
どこか不安定だ。
厚めの扉を開くと、いつものように精神科医の蒲田が窓際の席に座っている。観葉植物は相変わらず枯れそうな色をして、窓辺と地面を這いつくばっていた。
「ああ、仙道さん。お久しぶりですね」
「お久しぶりです」
「最近はどうされていますか?」
僕は母の横の席に腰掛けた。革製シートのしっかりとした弾力が僕を支える。
蒲田は日常生活の事を母に尋ね。僕は母の行動を頭に刻み付ける。
僕の部屋を勝手に入っている事がないか。誰かと接触していないか。
そういった諸々の確認をする。
二人の会話が終った後、僕は診療科医の蒲田に語りかける。彼の着ている白衣は白を通り過ぎ、青みを帯びていた。
「先生。母の薬を変えてもらえませんか? どう言えばいいんでしょう。いつもオドオドしているんです。不安に怯えていると言うのか、恐れているというのか。心が不安定なんだと思います。夜も眠れているのかどうかわかりません。強めの睡眠剤をお願いします」
「それじゃ。薬は新しいものにしておきますからね。それと家に閉じこもっている時間が多いですね。気が向いた時でいいので、散歩をするなどして、軽い運動と、日照時間を増やすようにして下さい。では、大切にしてあげて下さいね」
僕と母親は診察室を出る。病院から出て上を見上げても日光は降りていない。灰色の雲は厚く、灰色が空を満たしていた。雨がもうすぐ来るのかもしれない。
薬局では、いつも通り待たされる。薬剤師は処方箋に記された錠剤を調べていた。
僕と母親は店の中にある椅子に座って待つ。
目の前には水槽がある。熱帯魚が夢見心地で泳いでいた。この水槽に煮え立った湯を入れたら、彼らはどうなるだろう?
新しい薬をもらう。抗鬱剤が三種と睡眠薬が二種だ。家まで母を送っている間、彼女は僕に何度も謝った。
まるで、水飲み鳥。彼女は既に形骸だ。思考を放棄した謝罪マシーンと化していた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
母は謝ってばかりいる。
荷物を持った時。
電車の席をとってやった時。
バスが来たと言った時。
「ママ、先生は散歩したり、日照時間を増やしたりした方が良いと言っていた。できそう?」
「ごめんなさい」
「そうだね。無理はしない方が良いよね。家の中に居れば良いよ」
「ごめんなさい」
「……」
誰もいない自宅で一人でいる時も、暗がりで、頭を垂れて謝ってばかりだ。
今回、家に帰ったら、母親はテレビのノイズ画面に向かって、ずっと謝罪の言葉を繰り返していた。薄暗い部屋で、ノイズ画面の明かりが、彼女の顔を浮かび上がらせていた。
母親を家まで送った後、僕は学校に行く事にする。
電車に乗って五駅。
車窓から眺める景色は同じでも、その景色は色褪せて見える。視界に入る何もかもが嘘くさい。何もかもが偽りの臭いがする。
この所、外国人街にずっと居たので、校舎を見ても現実感が喪失していた。ベージュの校舎、ドーム状の体育館。これまで過ごしてきた日常が、どうしようもなく遠く見えた。
教室に入ると授業中だった。扉を開くと、規律正しく並べられた頭が一斉にこちらを向く。授業中だったらしい。
僕が着席すると、何もなかったかのように授業に戻る。
教師も僕に何の注意も払おうとはしない。ホワイトボードに公式が書き加えられてゆく。
左右のホワイトボードには例題と回答がぎっしりと埋められている。
ここは進学校。
落ちこぼれの救済などありはしない。落ちこぼれは切り捨てられるだけの存在だ。
学校は頭に知識という作物を植え、育てる為の工場。作物の育ちが悪ければ、見捨てられる。
僕の隣の席に居た山田と鈴木はいない。
僕の知っている限りでは、二人は相当な金を儲けているはずだ。
この前、PCで見た管理画面を見る限り、二人の下に無数の子会員が伸びている。売上げの数パーセントが、山田と鈴木の懐に入る。今では週に五百万以上の収入があるはず。
休み時間になると、時間がふやけたようになるのは変わらないらしい。
前席にいる奴が振り返り、
「よお。仙道。久しぶりじゃないか? 全然、学校来なかったよな。何かあったのか?」
「色々あった。学校に来れなかったんだ」
「そうか。お前さ。次のテスト大丈夫なのかよ? それとも、諦めたのか?」
上目遣いで彼は尋ねてくる。頭を支えるように首を出してきた。
「どちらでもいい」
「なんだそれ? まあ、俺はどうでもいいけどさ。お前が脱落すれば、俺の順位が上がるわけだし」
「ところで、山田と鈴木がいないみたいだが、何かあったのか?」
前席の男は感心がないらしい。片手をあげて軽く振って見せた。
「あいつらの事だから、諦めたんじゃねえの。元々、低空飛行だっただろう。あの二人は」
「そうか。ついに墜落か」
「いや待てよ。なんか噂があったな」
僕は目を細める。机に肘をつき耳を澄ませる。前席の男は
「あいつら覚醒剤をやっているとか噂があった。まあ、あいつら二人落ちこぼれても、誰も悲しまないだろう。クラスでも浮いてたしさ。付いてこれない連中は脱落さ」
二人が覚醒剤をしているのを知っている奴がいる。
彼らに関心を持っていない奴までもが知っている。
「そうだな。彼らはどうしようもなかった。もう、おしまいだ」
「俺達にすれば、あいつらなんて点数が低すぎて、相手にもならなかったから、どうでもいいんだけどな。静かになって良かった。それぐらいの感想しかないね」
この男は無理に苛烈なポーズを取っている。
彼は精一杯の努力をしていた。
高校生は自分の表面に張り付いたイメージを大切にする。
彼らはイメージの奴隷だ。
ファッション。ライフスタイル。メディアが捏造したイメージの中で、
高校生だけじゃない。
自己承認の足りないメディア共が乱造する番組達。
日本に対する海外の反応や、日本文化の紹介という番組ほど馬鹿馬鹿しいものはない。
国際化を迫られ、自分が誰なのか理解できていない連中は、こぞって外国人に映った姿に、自分を見付けようと必死だ。都合良く編集された映像が、世界の合意である訳もない。
僕はそんな所に居るのはゴメンだ。
「あれっ、仙道? もう出て行くのか? 来たばかりなのに」
「ああ、僕はこういう場所は飽き飽きした」
男は嬉しそうな顔をした。ライバルが少なくなる。それだけで、彼は満たされた顔をしている。
彼の幸せとは何なのだろう?
僕には理解できない。
「じゃあな」
僕は教室を出た。廊下に出ると、沈黙した視線が注がれる。廊下には人がまばらにいたが、彼らは口も開かずにこちらを見る。好奇心に飢えた目が印象的だった。
職員室に行き、担任の元へ行く。担任はサラリーマン然とした男だ。
髪は整髪剤で固め、黒縁の眼鏡を掛けている。教科書に背広を着せたら、このようになるのだろう。
「何だ。仙道か。最近、学校に来ていないがどうかしたのか? 勉強に遅れがでるぞ。お前は成績は良いが、今は油断するべき時じゃない。それを忘れるな。また、
教師は書類を書いていた手を止め、僕の方を振り向いた。
人生のマスターにでもなったかのような口振り。
彼が世の中をどれだけ知っているというのだろう?
そして、彼は僕から見える世界がどのようなものか知っているのだろうか?
「僕は学校を辞めます」
教師は眼鏡越しに僕を見る。眼鏡越しの彼の目が濁ってみえた。
不機嫌そうな顔をしている。
「何があった? 親には相談したか?」
「いいえ、僕の意思です。これ以上、無駄な時間は過ごしたくない」
「お前の行動は突発的だな。前からそうだ。いいか。お前は若いから、血気にはやってしまって、一時の気持ちでそう思うかもしれない。だが、もっと長い目で見ろ。就職するにしても、結婚をするにしても、色々と障害がでるんだぞ」
彼は椅子を僕の方に向け、揺らぎのない声で言う。
片手は机の上に置かれ、その先には家族の写真が置いてあった。
「ええ、色々考えていますよ」
そう。お前達がバラ色だと語る将来の事。
担任は眼鏡を
「いいか。お前は社会的には、まだ半人前なんだ。お前は誰かにたぶらかされているんだよ。よく考えてみろ」
「僕は学校を辞められないんですか?」
「とりあえず、お前の親と話をさせてもらうよ。お前が止めたくても、お前と学校の間には在学契約という契約が締結されているんだ。お前の一存だけでは決められない」
教師は机に乗せていた手を離し、腕組みをする。シャツの肘に部分が黒く汚れていた。
僕は僕の人生を所有していないらしい。親の所有物だそうだ。
「そうですか。親とも話し合うようにします」
僕の母がもう壊れかけてるとは、言わなかった。面倒事は避けたい。
担任は身を起こし、笑いかけてきた。
「そうだ。それがいい。今という時間は、今しかないんだ。お前はまだ若いから、わからない事も多いが、こういう時は経験のある大人に判断を任せておくもんだ」
担任がどれだけの経験をしてきたと言うんだろう?
社会の奴隷である彼が教えられるのは良い奴隷のなり方だけ。今の彼の姿は奴隷。
それは僕のなりたいものではない。
「そうですね。ちょっと僕も色々と混乱しているので、今日は家に帰ります。もう少し休む必要がありそうです」
「そうだな。今は休んでおけばいい。学校に来るのは、調子が良くなってからでいい。留年したって、一年ぐらいは変わらないものだから、今は休憩しておけ。馬鹿な事をしたりするんじゃないぞ」
教師は席を自分の机に向ける。転がっていたペンを持ち、書類に何かを書き込む作業に戻った。
「はい」
立ち去ろうとする僕に教師が声をかけてくる。
「そうそう。この前、歳食った刑事さんが一人来た。何もないよね?」
「ええ、僕には何もないですね」
学校へと刑事が僕を訪ねてきただと?
包囲網は閉じられつつある。そういえば桐生が、僕を特定するのに、それほど時間はかかっていない。
僕は職員室を後にした。校門を出ると、そこには外の世界が広がっている。
道を歩くと、誰もが僕を見張っているような気がした。
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