18.スネーク・テンプテーション

 ビルに訪問者が来た。中国人だ。歳は六十を越えているだろう。


 福々しい恰幅かっぷくの良い体はどこか場違いに思えた。

 深い皺が、額に何本も走っており、それは彼のたどってきた人生が容易でなかったことを物語っている。


「ウノさんはいますか?」

 彼は中国語でそう言って訪ねてきたのだそうだ。このビルには中国語を理解する人間はいない。

 守衛をさせていた奴が僕の所まで来て来客を告げた。


 ビル一階に急設された応接間はひどい有様だ。タバコ臭くて、脂臭い。

 蛍光灯が息継ぎをしているかのように瞬く。淀んだ空気に陰鬱いんうつが混ぜられている。


「それで、ここに来た要件は?」

 僕の後ろには、シャフバンダルとメルキアデス。それにリカルドが立っている。

 運び込まれたカウチの豊かな弾力。だが、既にタバコの焦げ目が付いている。

 僕は陳を座らせ、対面した席で僕は腰を下ろす。木目のあるテーブルが僕と陳の距離だ。


「おい、老いぼれ! ドンが要件は何かと言っているんだよ! 何とか言ったらどうだ? お前の口は飾りなのか?」


 訛りの強い英語。リカルドの怒声を手で制する。

「待て、リカルド」


 だが、陳は皺一本も動かさない。僕は中国語に切り替えた。


「老人。名前は何だ?」


 老獪ろうかいさを表に出さず、老人は目を細めた。

 胡乱うろんな狸。皺が多い彼の表情は動きもしない。糸のようになった目で僕を見極めようとしている。

 背は丸まり、自分から出る情報を最小限に抑えていた。


「儂の名前は陳達国。この街で薬屋を経営しているんだよ」


 ようやく信号を出し始めた。僕は肘をついて、陳との距離をつめる。

 僕達のような人間は距離感を大切にする。物理的な距離は心理的な距離を表している。


 それは上辺の親密さの場合もあるし、相手が怯えているかを試す場合もある。

 相手が圧倒されるのが最も望ましい。


 僕の後ろに三人の猛者を並べさせている。彼らから静かに殺気が流れてくるはずだ。

 手を使って、表情を使って、全てを使って、僕達は距離感を図り、与し易いと踏めば一気に喰らう。

 話し合いの場に、激烈な闘争が隠れている。

 テーブルの上には何もないが、そこへ陳の内面をぶちまけられたら成功だ。


「ここに来たのは理由があるはずだ。要件は?」

「人払いをお願いしたい」


 陳の表情は変わらない。細められた瞳からは何も読み取れない。

 陳の鼻をかするぐらいまで手を伸ばし、その後に手を広げる。後ろの屈強くっきょうな三人へと視線は移るはず。


 だが、陳は表情を動かさない。深い皺は微動だにしなかった。


「ここにいるのは、僕達の幹部。中国語を理解するものはいない」

「できれば、そこの南米人。彼だけでも、ここから出て行ってもらえないか? いきなり殴りかかられでもしたら、儂なんて直ぐに殺されてしまう」

「何だ? 何を喋ってるんだコイツ!」

 リカルドが威嚇をしてきた。理解できない言葉で会話されると神経に障るのだろう。怒気に殺気が混じっていた。会談するには騒がしすぎる。


「おい、リカルド。ここから出て行け。じいさんに嫌われようだ」


 振り向き、リカルドに命じた。火がついたように彼は怒りだす。

 隣にいたシャフバンダルに制されながら、リカルドが体を前に踏み出す。


「おい、じじい! お前ふざけんなよ! この糞野郎! お前を切り刻む事だってできるんだぜ?」

「リカルド!」


 シャフバンダルが強引に割って入る。

「ちっ、わかったよ。いいかジジイ! 俺をここから追い出したとしても、覚悟しとけよ! いいか、俺はリカルドだ! 覚えておけ!」

 リカルドが指差し、叩き付けるような罵声を浴びせかけたが、陳は身震いもしない。

 陳が食えない奴ということだけが理解できた。


 リカルドが追い出され、ドアが壊れる勢いで閉じられた。壊れかけの窓枠に嵌った汚いガラスが身を揺する。


「騒がせたな。取りつくろうつもりもない。これが僕達の組織なんだ。まだ粗暴で統制がとれていない。これを見ても、依頼があるのか?」

「あんたの噂を聞いてやってきた。儂はさっきも言った通り、この街で薬屋を経営している。漢方薬だから、あんた達の外国人にはわからないだろうけどね」


 この街は不法滞在者の街だ。

 広く、大まかではあるが、中国人や中東系、中南米系と住み分けが行われている。

 ロシアや東欧系の白人も居るが少数だ。隠れるように小さなコミュニティーを構築している。


 このビルは中東系と中国人系の境界線上に存在しているが、僕達が中国人系の奥まで行く事はない。

 知らないのも当然だ。


「知らない。はっきり言って初めて聞いた。聞くまでは存在すら知らなかった」

「儂がこの国に来てから五十年位なる。当時、中国人はほとんどおらず、朝日を見ながら何度も中国に帰ろうかと思ったもんだった」


 シャフバンダルもメルキアデスも話は理解できていない。中国語の会話だからだ。

 しかし、二人は集中力をとぎらせる事なく、老人を凝視している。

 何かあれば彼らは即座に陳を殺すだろう。それらは部屋中を張り巡らされ緊張の糸となる。


「そして、儂は銀行業務を始めるようになった。そう、今ではここで地下銀行を経営している」


 老人の話がようやく核心に入りつつある。

 おそらく彼は僕達の話を聞く姿勢を見て、話す気になったのだろう。

 忍耐と注意深さ。それが彼の命を今まで保ってきた。


 僕はテーブルに片肘を付き、顎を乗せた。

「話を続けろ」

 もちろん視線は動かさない。体重は移さず、腰に緊張感を残す。陳は言葉を続けた。


「最近、外部からの人の流入が多くなってきている。不法滞在外国人、テロリスト、スパイ。警察や公安」


 言葉の最期に物騒な単語を混ぜてくる。座っているカウチに、刃物をチラつかせられた気分だ。

 この老人。皺に埋もれたこの老人が、警察や公安の人間を特定できているとでも言うのか?


 緊張の糸が、少しだけ震えるのを感じた。

 シャフバンダルとメルキアデスから警戒感は途切れていない。僕は言葉を挟まず、老人の話が終るのを待った。


「儂の店が扱う金額は多い。治安の悪い外国人街では力こそ正義だ。お前達に守ってもらいたい」


 地下銀行というのは、違法に経営される銀行だ。

 主に不法労働者などの送金に使われたりする。

 ダークウェブは一般的になったが、仮想通貨を使えない連中も多くいる。


 地下銀行の場合、本人確認も必要とされず、手数料に関しても、普通の銀行に比べて安い。

 土日も営業をしており、その処理も早く、三十分もあれば、送金相手に届ける事ができる。

 これは中国のケース。シャフバンダルによれば、イスラム圏ではよく似た仕組みがあるらしく、ハワラと呼ぶのだそうだ。


「陳。僕達があんたの店を守るのだとして、僕達にはどのような見返りがある?」

「中国人にとって命より大切なものは金だ。この国に来ている人間はそれを私を通じて家族の元へと送っている。儂の一存によっては送金を拒否する事も可能だよ。この意味がわかるかね?」


 陳は少しだけ。本当に少しだけ、目を開く。

 勝負をかけてきてるのか?


「中国人の送金に介入することで、中国人をコントロールできるようになる、と。そういうことか」


 僕の言葉に老人は沈黙で回答をした。彼は言葉で返答をするつもりはないのだろう。

 言質をとらせない。そうやって、この老人は今まで生き延びてきた。


 僕達が崩壊しても、陳は無視をするはずだ。

 そんな緩やかな関係。法外の地に住む人間は自分の命を他人に預けたりしない。


 僕も彼も。誰でもだ。


 僕達にとってメリットは少なく、契約が履行される保証もない。

 ただ、中国人にとって、陳が運営している地下銀行は重要な拠点になる。護衛と称して、陳を制圧できる体制にしておくのも悪くない。

 金は組織にとっての血液。心臓を制圧すれば、中国人がコントロールできる可能性がある。


 僕はテーブルにかけていた肘を外し。体を背もたれに預ける。陳に送り続けていた圧力も、少しはマシになったはず。


「陳。考えておいてやる。あんたの店の近隣に空いている部屋はあるのか?」

「ああ、ただし自殺があった部屋だ。その部屋でいいかね?」


 陳から目線を逸らさず、英語で二人に内容と僕の考えを伝える。

 二人はしばらく考えたが同意の返事を返した。


「メルキアデス。お前の配下に直ぐに移動できるのがいるか?」

「ああ、何人がいい?」


 最近はメルキアデスの目線の移動も落ち着きを見せている。ようやく自分のペースが掴めたのだろう。

 低くて母音の強い英語が部屋の空気を割った。


「最低二人、交代制でつめてもらう。有能な人材。メルキアデスが認める奴なら構わない」

「今の所は、俺の部下しか該当者がいない。二人、交代で俺も入ろう。今、連絡をつける」


 連絡が終った旨の報告を受けた後、しばらく陳への回答を保留した。


「確かに引き受けてもいいが無料で護衛のサービスはできない」

「お願いできるかね?」

 陳の目は糸のようになっている。年をとり、汚れた目から心の底が覗けない。


「陳。金を準備しろ。手渡されてから、僕達は直ぐにでも行動を開始する」


「これは用心棒代だ」

 折り畳まれた紙束がテーブルの上に置かれた。黄ばんだ厚手の紙だ。開くと仮想通貨の口座情報で残高がある。円換算すると五千万円はあった。


 メルキアデスが部下に移動するように指示をする。彼らは軍隊のように整然と行動へと移す。改めてメルキアデスの指揮力の高さを知った。

 彼は同じラテン系のリカルドと違い、感性としてはシャフバンダルと近い。リーダー経験が長かったのが大きいのだろう。



 仮想通貨の口座情報の紙束を繰っていたら、最期の紙に辿り着く。

 見ると、住所が書かれていた。

 疑問に思って手を止めていると、陳が因業な声で囁きかけてくる。

「公安の連中がな、ここにスパイを送り込んでいる。中国人工作員二人の住所がこれだ」


「その料金は別だ」

「……」


 僕は紙束に添付された、最期の書類を見る。

 鞏、姜という二人の名前と住所が書かれていた。

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