04.ナチュラル・ボーン・タイラント

 中国人達が住み着いている六畳間は暗い。

 柱も傾き、大黒柱が悲鳴をあげていた。天井は雨漏りで染みを作り、色も褪せて見える。


「昨日、李の坊主が殺された」

「へえ、本当。誰に?」

「ヒスパニック。スペイン語で怒鳴っているのを聞いた奴がいるんだそうだ」


 劉、王、胡が悲しそうに俯いた。

 李の坊主というのは、この前、僕が中国語を練習した子供だ。


 昨日深夜に出歩いていた時に犯されたらしい。

 直腸が裂けたでもしたのだろう、

 肛門から血を流し、何度も殴られ倍ほど腫れた顔を、血の混じった涙で濡らして、死んでいったらしい。


 三人の手には缶ビールがある。僕が差し入れで持ってきたものだ。

 心に付け入るにはまずモノだ。

 百の言葉を重ねるよりもモノは遥かに雄弁だった。


「それは実に残念な事だ。死ぬのだったらこの国じゃなく、中国で死にたかっただろうに」

「なんてことだ。さぞかし親父も悲しんでいただろうな」

「ああ、泣き死ぬかと思うぐらいに悲しんでいた。俺まで悲しくなったよ」

 胡はビールを煽り、貧相な顔を覆って、泣き出した。王も目を真っ赤にして、鼻をすすっている。

「それにしても、ウノ。お前はビールを飲まなくてもいいのか?」

「いいよ。毎晩客から飲まされるからね」


 ウノというのは僕の偽名。

 僕はフィリピン人とタイ人のハーフという事にしている。


「ウノも大変だよな。折角、日本に来て、金を稼ごうとしていた矢先に、叔父さんが亡くなってしまっただなんて」

「いいんだよ。最初は驚いたけど、嘆いても仕方がないよ」


 いずれも大嘘。

 嘘をついて痛む心は僕には無い。

 真っ黒な闇だけが横たわっている。

 だが、この連中は僕の言葉を信じているようだ。

 最初は疑いの目を向けていたけれど、僕が弁当や、ビールを差し入れている内に信じるようになった。


「ウノは強いなあ。今は日本人サラリーマン相手の男娼をしているんだって?」

「そうだよ。あいつらはストレスたまっているからね。平日はずっと休み無し」

「HIVなんだって?」

「そうだ。残念ながらね。だから、死ぬ覚悟がないと僕とヤれないぜ」

「ウノに言われた通り、この辺りの連中にはウノがHIV持ちだって事を伝えておいたよ。残念そうにしている奴が何人かいた。あいつら命拾いしたよな」


 アルコールの混じった下卑た笑いが、湿気で腐った畳の上に振りまかれる。


「何人ぐらいの日本人にHIVを伝染させたんだ?」


 ヤニで汚れた黄色い歯を剥いて、三人が嬉しそうに聞いてくる。

 彼らはこの話が好きだ。一日何度も聞いてくる。

 爪垢で汚れた指先は黒く、それは彼らの生活の貧しさを現していた。


 僕は話を続ける。

「二十人じゃきかないかな」

「すごいなあ。ウノは英雄だよ。俺達の英雄だ。日本に来る前は、日本人は優しいと聞いていたけれど大間違いだ。あいつら俺達の事をゴミグズみたいに扱いやがる」

「本当だ。最初は仲良くやっていくつもりだったのに、今じゃ殺してやりたいよ。あいつら全員殺してやりたいよ」


 彼らの中に巣食う憎悪は滞在する時間に比例して、その量を増す。

 不満の矛先というのは常に幸せそうな人間に向くものだ。


 彼らはコンテナに乗って不法に入国した密入国者。

 外国人の単純労働者を受け入れるようになり、入国する外国人は増加する一方だ。

 その隙を狙って中国マフィアは不法労働者を送り込む。

 不法労働者達は入国するのに金を払うが、馬車馬のように働かされ、金を稼がされる。

 日本への密入国は年々増えており、その方法も多種多様に渡る。

 高まる需要に中国本土の密入国代金も跳ね上がり、度重なる摘発で巧妙さは増してゆく。


 勤め先は密入国を依頼したマフィアから紹介される。

 勤め先はマフィアと結託しており、不当に安い賃金で働かせる。


 人間の形をした作業機械として、労働時間は一日十六時間から二十時間。油に汚れた手には月三万円しか渡されない。


 健康保険もなく、社会保障も受けられない。

 パスポートを持っていたらマフィアに取り上げられる。

 低コスト生産の最大の貢献者。

 安い労働力は企業に歓迎される。


 求めれば、与えられる。

 探せば、見つかる。

 門をたたけば、開かれる。


 聖書に語られている理想の世界。


 不当な労働に話が違うとマフィアに訴えてみても無駄だ。

 日本人経営者が悪質な詐欺師で、俺達も騙された被害者だと、マフィアは耳元で囁く。

 彼らは疑う事もせずに、それをそのまま鵜呑みにして、日本人に恨みを募らせてゆく。


「俺はここから抜け出したいよ。早く家族の元に帰りたいよ」

 胡がそう言ってまた泣き出し、黒い爪で涙を引っ掻く。

 劉は精一杯の自制心でそれを制止する。

「そう言うな。今は金を稼ぐしかないんだ。金を稼いで家に帰って、裕福な暮らしをするんだよ」

「そんなの無理だ。わかっているんだろ?」


 劉の言葉に胡がしゃくりあげ、叫び声をあげた。

 身が切られたような苦痛の声。

「俺達はどうせここで死ぬんだ。金だって中国で聞いていたほど稼げないし、こんなに酷い職場だなんて聞いてなかった。工場長に逆らうとロバのように殴られる。俺は、俺はこんな事になると知っていたら、借金してまで来なかったよ」


 割れた魂の叫び。

 気力もなく、惰性で紡がれる声。

 胡の言葉を聞いて、他の二人も項垂れる。

「俺さ。日本に来る前に、親戚中に借金をしているんだ。戻ったら倍にして返すからって言ってさ。皆笑って俺を送ってくれたよ」

 情けなく鼻水をすすり、胡は話を続ける。

「行く前の日なんか、村中の連中がパーティーしてくれたよ。嬉しかったなあ。俺の村は貧しいのにさ。俺は生まれてから、あれだけの御馳走が並んでいたのを見た事がなかったよ。皆笑ってた。酒も飲んだ。誰もが酔っぱらっていたさ。あんな日は、きっと来ないんだろうなあ」


 胡の嗚咽はこの場を、行き場の無いドン底にする。

 袋小路。

 どちらを見ても助けなどない。

 不法入国がばれ、本国に送り返されても、中国マフィアの借金が残る事になる。

 そういう契約になっている。


 日本に渡る事を決意した時点で、彼らの身分は奴隷で固定化された。

 一生を売却する証文にサインをしたのだ。


 この世の中では無知は罪だ。

 騙される奴は一方的に、絶対的に悪い。

 良心や正義はいつだって沈黙を守る。


 浮浪者が道端で倒れたとして、気にかける人間がどれだけいるだろう?

 ヤクザに殴られている人間が居たとして、仲介に入る人間がどれだけいるだろう?

 僕はサイコパスだ。秋穂が以前言った通り他人の為に心が痛む事はない。

 だが、普通の人間も、そう変わらない。

 他人の苦しむ姿を見ても、彼らは見ていないふりをする。聞いてもいないふりをする。


 頭の中でコンテナマンの映像がフラッシュバックする。

 忘れられた存在。

 見捨てられた存在。


 僕にあった生活。

 グロ画像。コンテナマン。首。ハムスターの耳。

 差し込まれるイメージは締め付けられた縛鎖ばくさを解いてゆく。


「俺達はウノほど強くないし、頭も良くないんだ。字も読めないし、日本語も少ししかできない。だけど、いつでも人に馬鹿にされるのは嫌なんだ。俺達はそんなの嫌なんだ。皆を見返してやりたいんだ」

 胡は泣いてばかりだ。不幸だと泣くばかり。

 何も変えようとせず、結果変わらない状況を見て、また泣き始める。


「ウノ。俺達はいつまでもこのままなのか? ここから抜け出せる方法はないのか?」

 王は無口。喋る言葉も聞こえにくい。濁った目を真っ赤に充血させている。


「助けてくれよ。誰でもいいから助けてくれよ。もう嫌なんだ。ここから出してくれ。俺に自由をくれ。自由が欲しい。俺達を自由にしてくれ」


 劉。彼も同じだ。彼は依存心が強い。

 泣かずに、人にすがって嘆くばかりだ。


 彼らは毎日このような愚痴を言う。

 この袋小路から抜け出る事を考えもしない。

 そして、こぼす愚痴も無くなると、全てを諦めて重労働に戻ってゆく。


 疲れきった体を引きずって、地獄へと戻ってゆく。

 コストをかけようとしない。リスクを背負おうとはしない。


 何もしない奴は死ぬまで負け犬だ。

 そして、死んでも負け犬だ。


 今いる部屋は安っぽい。土壁がすっかり剥げ、地肌をさらしている。

 竹の骨組みが哀れなあばらを晒している。茶色までが剥げている。

 何もしなければ、彼らはここで干涸びて死んでゆく。

 この部屋で、今まで何人の負け犬達が、自分の悲劇を持ち寄り、傷の舐め合いを繰り返してきたのだろう。


 三人が黙り、泣き声だけが居座る。

「ここから脱出する方法がないわけでもないよ。僕はそれを知っている」

「えっ? ウノ、それは本当なのか?」

「それには随分な決心がいるけどね。君達はそれができるか?」


 彼らには一瞬の躊躇ちゅうちょもなかった。

「できる。できるさ。ウノ。ここから抜け出すのだったら、俺はなんでもできる」

「俺もだ。ウノ。俺達は友達だろ?」

「そうだよ。俺達は友達だ。いつだって助け合うのが友達ってもんだ。もうこんな生活は飽き飽きしているんだ。何でもやるから、俺達をここから出してくれ」

「慌てるなよ。ただ、皆の覚悟を聞いておきたいんだ」

「俺は大丈夫だ」

「俺も」

「俺だってそうだ。何だってやってやるぞ。犯罪だって構わない」


 皆、熱病に浮かれたような目をしている。

 追いつめられたネズミ達。

 ここから一秒でも早く抜け出したいのだと、彼らの目は訴えていた。


 彼らの決意は本当だろう。世の中の倫理を乗り越え、何だってする事だろう。

 ただ、その決意は三日もあれば冷えきってしまうに違いない。

 彼らは負け犬として、今まで生きてきた。

 そんな彼らが、下を向いて生きてきた彼らが、たった一日で氷の心臓を持つようになるとは思えない。


 だが、そんな彼らにも使い道はある。

 彼らを駒と見なして使ってやればいい。

 僕を裏切る事もない。出し抜く能力もない。

 適当に使って、状況が悪くなったら切り捨てよう。

 見込みがあれば別の話だ。


「わかった。わかった。皆の決意はとても良くわかったよ。感動したよ。何にしても僕達は金が必要だ。それが無くては何もできやしない。故郷に帰るにしても、何にしても金が必要だ。そうだろう?」


「そうだ。間違いない。せっかく来たのに、金がないと意味がない」

「俺は村中に借金をしているんだ。マフィアに借金も返さなくちゃならない」


「そうだろう。そうだろう。金の素晴らしいのは、僕達を自由にしてくれるばかりか、新しい可能性を広げてくれる。君達は君達の子供を李の坊主のようにしたいか? わけのわからないチンピラに、尻の穴を犯されて黙っていたいか?」


「嫌だ。俺は絶対嫌だ」

「子供達はもっと恵まれた環境で育てたい。それは親の最低限の務めだよ。それができないのは親として失格だ。子供に立派になってもらうように、良い環境、良い教育を与えるのは親として当然の義務だ。今まで送ってきたような惨めな思いを子供にはさせたくないだろう?」

 三人は食い入るように僕を見つめている。

 崩れかけた壁土みたいに、彼らの肌は荒れていた。

「今、君達は分岐点に立っている。裕福になるか、このままなのか。君達はどっちに行きたい?」


「裕福に決まっているじゃないか」

「そうだろう。なら僕の言う事を聞いてくれればいい。簡単だ。実に簡単だ」

「それで俺達は何をすればいいんだ?」


 悲しみに沈んでいた目は、いつしか欲望に輝いていた。

 こいつらは利用しやすい。

 疑う事を知らない。

 追いつめられた人間は余裕が無くなるものだ。

 迫られる判断をよく吟味しないままに物事を決める。


「まず金を作ろう。そうだな、二百万ほどは欲しいな」



 劉、王、胡の三人は力強くうなずいた。

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