31.Eye For Eyes, Tooth For Teeth

 外で車が止められる音。

 僕からの電話を聞いて、父親が帰ってきた。

 

 僕は玄関に降りる。

 父親は想像しているよりも大きな体格をしていた。折り目がしっかり付いた濃いグレーの背広を着ている。

 精力的なビジネスマン風情で、顔の中央で鼻が座っている。黒縁の眼鏡をかけており、その奥にある黒目が左右に忙しく動いていた。


 柔らかい玄関の明かりを受け、彼は整然と黒に染められた頭を掻いた。

 敷き詰められた白いタイル張りの玄関に、品の良い、フレグランスの香りが漂う。


「こんにちは。電話は君からだね? 見ない内にまた大きくなったね。見違えたよ」

「電話で連絡した通り、母親が亡くなりました」

「そうか。それは残念だったね。とても奇麗な女性で、素晴らしい人だったよ。それにしても、何か臭わないか?」


 父親から用事を早く済ませようとする気配が見え隠れしている。

「通りに車が置いてあると、近隣住民の迷惑になるので、ガレージにでも駐車してもらえませんか?」

「ああ、わかった」

 駐車を終えた後、彼は玄関に戻って来た。土間に上がり、スリッパを履き、ウッドフロアーの廊下を歩く。久々の来訪を出迎えるかのように廊下は軋む。


 父親は僕と対面して、目線を宙に浮かせていた。僕の顔をまともに見ようともしない。


 別に見て欲しいとも思わない。無関心を装う彼の姿は、まるでコメディだ。

 操り人形のようにギクシャクと動く。


 父親に電話をした時、彼はすっかり当惑していた。関わりを持ちたくないというのもあったのだろう。

 電話を切ろうと、最大限の努力をしていた。

 もとより世間体を気にする人物と知っていたから、説得するのはそれほど難しくなかった。


「僕は生活に必要なだけの金額を君の母に渡してきた。そして、君の将来についても、見合った金を与えてきたはずだ。君は母親から何も聞いていないのかい? 僕達の関係はもう終っていて、友好的な状態だったんだ。やましい事は何もない」

「母親の事を責めたりする為に、呼んだわけではありません。ただ、母親はあなたの事をよく喋っていたので、死んだ時ぐらいは、顔を見せてあげて欲しいと思ったんです」


 父親は疑わしいという態度のままだったが、張り巡らした警戒感は解いたらしい。

 強張った体から緊張感が失われてゆく。

「そ、そうか。それはすまなかったな。僕も連絡を取っていないから、元気にやっているのだろうとは思っていたんだが、この歳で死んでしまうとはね。まだ若いのに」

「前から様子はおかしかったのですが、まさかこんな事になるとは、思いもしませんでした」

「そうしたら顔だけでも見させてもらおうか?」


 スリッパの擦れる音が止まり、僕はドアノブに手をかけた。

「母親です」


 母親の寝室を開けた。

「君、これは臭うな。死後どれぐらい経っているんだ? 腐敗臭がする。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ?」

「僕はちょっとトラブルがあって、家を数日空けていたんです。帰ってきたばかりで、いきなりこれだったんです。何をどうして良いのかわからず、混乱してまって。考えても見て下さい。僕は高校生なんです。取り乱してしまって。どうしていいか、わからなくて、慌ててあなたに電話したんです」


 父親は僕の言葉を聞いて何かを計算しているようだ。

 いきなり、日常生活から逸脱いつだつした光景を見せられても、彼の心はそれほど乱れていない。


「そ、そうか。確かに高校生でも、これは驚くよな。なら、僕が後始末を手配しよう。ただ、僕と君の母親とは友人関係だ。だから、葬式などの細かい手続きなどは、僕は一切タッチできない。喪主は親族である君に一任するよ。君は母親の忘れ形見だからね。最後ぐらい、良い所を見せてやらなくてはね」


 彼の声は無機質な光沢を放つウッドフロアーに吸い込まれていく。

 こういう人間芝居を父親と母親は繰り返してきたのだろう。


「ええ、立場については良くわかっていますので、心配はしないで下さい。ただ、僕も突然の事だったので、どうしていいかわからなくて。この件は誰にも言いません。そちらも母親の事については、誰にも言っていないんですよね?」

「当たり前だろう」

「ここに来るのも、誰にも言っていませんよね?」

「当然だろう」

「良かった。それと相談があるんです」


 露骨に嫌な顔をした。眉根を寄せ、口を曲げる。不快という感情を隠そうともしない。

「君、僕は忙しいんだ。まだ片付けていない仕事も残っているんだ。もう、帰らせてもらうよ。病院に医者の知り合いがいるから、そいつに死亡診断書を書かせれば良い。その医者には葬儀の事を言付けておくから、君は何も心配しなくていいから」


 彼は何度も玄関を見る。まるで玄関に人かがいるかのような仕草だった。

「いえ、相談事は僕や母の事ではないんです」


「じゃあ、何なんだ!」 

 父親は叫んだ。怒りを露わにした。睨むようにして、威嚇をしてきている。

 だが、目の奥には臆病な影が揺れているのを、見逃さなかった。

 後ろめたさがあるらしい。それと、焦燥。


「こちらに来てもらえますか?」

 手を掴み、階段を上がって行く。

 父親の手を初めて握ったが、思ったよりも小さかった。


「母親の事ではありません。葬式については問題ありません。でも、それとは別件なんですよ」

 父親は手を振り払い、ついてくる。階段の間に二人の足音が響く。


「何だ。進路相談とかじゃないだろうね。僕にも娘がいるんだ。それで手一杯だ。君については母親に十分すぎるぐらいの金を渡しているから、君は進学するなり、留学するなり好きにすればいいじゃないか。彼女も馬鹿じゃないんだから貯金ぐらいしているだろ?」

「そんな事じゃないんです」


 僕の部屋の前に父親が向き合ったのを確認した後、ドアを開いた。

「これは?」

「長月審査管理課長の娘さんです」


 父親の心が揺らいだ。

「なんでまた、長月君の娘さんがここにいるんだ? 君達は付き合っているのか? それを報告する為に、僕をここに呼んだのか?」


 混乱の淵に意識を引きずり込まれて行くのを眺める。確かに彼の意識は強く、強靭だ。

 しかし、思いもしなかった事態が五月雨のように降りかかれば揺らぎもする。

 冷静な判断もできなくなる。


「いいですか。声を小さくして下さい。長月さんの娘さんが行方不明になっているのはご存知ですよね」

「あ、ああ。部下から聞いていた。突然の家出だと、人づてに聞いていた。まさかここにいるなんて。君、ひょっとして彼女を攫ってきたのか?」

「いいえ、違います。僕は彼女を助けたんですよ」

「何だって?」

「いいですか。内密でお願いします。落ち着いて良く聞いて下さい。秋代さん。長月さんの娘さんは覚醒剤中毒です」


 最早、父親は僕の掌の上だ。

 口を開けた父親は猿のようだった。知性のある動物には見えない。


「ほら、腕を見て下さい。注射の痕があるでしょう? 放っておくと、暴れてしまうので、仕方なく覚醒剤を打っています。ですので、今は沈静状態です。ですが、覚醒剤が切れるとまた暴れ出します」


 僕はベッドの側に行き、布団から取り出した秋代の腕を見せる。

 そこにはいくつかの注射の爪痕が残っている。


「ど、どうすれば、どうしたらいいんだ」

「とにかく、電話でいいので、彼女の父親を呼び出してもらえませんか? いいですか? 内密でお願いします。それでなくとも、彼女は覚醒剤中毒です。他の人に知られたら、彼女にしても、長月さんにとっても、災いになるでしょう?」


「そ、そうだな。君の言う通りだ。わかったよ。長月君に電話をしよう」

「いいですか。内密でお願いします。これが彼女の生徒手帳です。間違いないでしょう? 彼女も自分が長月審査管理課長の娘だと言っていました。警察に知られると留置場行きになってしまいます。そうなれば、長月さんのキャリアがまずい事になる。局長のあなたも、どうなるか」


 秋代の腕を布団の下に戻した。

「皆まで言わなくてもわかる。今、電話するから、君はそこで待っていたまえ。いいね」


 部屋から出て行って電話する父親。通話内容をドア越しに聞いてみる。

 どうやら長月と電話をしているようだ。


 電話が終った父親が部屋に戻ってくる。

「長月君には電話しておいた。直ぐにここへ来るだろう」

「そうですか。母親の死体は目に触れないようにしておきます。消臭剤も巻いておきますね」

「君はしっかりしているな。僕でさえが取り乱しているというのに」


 彼はネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外す。歯の間から空気を吸いながら腕組みをした。

 落ち着きは彼から逃げ出したようだ。


「いいえ、最初なんか泣くわ、叫ぶわで酷いものでしたよ。ただ、医者から処方された鎮静剤を飲んでいますから、落ち着いていられます」

「そうなのかい? 今の薬って、進んでいるからな。まだ、動悸がするよ。ああ、酒でも飲みたい気分だ。まったく。なんて日だ。厄日だよ」


 興奮が覚めやらない様子で、彼はシャツの上部を摘んで、団扇替わりに前後に動かしている。


「帰りも車を運転するんでしょう? お酒はまずいでしょう。立て続けだったので、気が参ってしまうのはわかりますけど、飲酒運転で捕まったら新聞沙汰です。これからが大変なんですから」

「ああ、君の言う通りだ。本当に君はしっかりしているな。躾がいいんだな。娘に君の爪の垢を煎じて飲ませたいよ」


「これでも飲んで落ち着いて下さい。かなりマシになりますから」

 僕は水色の錠剤を渡した。


 父親は何の疑いもなく、それを飲み込んだ――





 物音が聞こえなくなった頃、インターフォンが鳴る。


 玄関のドアを開くと、長月が震えて立っていた。


 彼の周りには誰もいない。




 先ほど血を吸ったカミソリは、僕の手の中にある。

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