20.スネーク・ポイズン

 飯屋の入り口に客が来たらしく店員が声をあげる。中国語が飽和したこの店は中国人地区にある飯屋。

 天井近くに申し訳程度に神棚があり、桃を形どったの燈台から淡い光が投げかけられていた。

 そこには金色の衣を来た赤顔のヒゲ男が祭られている。

 店は繁盛しているようだ。縦横無尽に濁声が飛び交う。網をかければ会話が捕まえられそうだ。


「そうか。”孫”が警察のスパイだったか」

 陳が沈んだ声で言い、茶をすする。


「そうだ。この前の停電の時に、あんたの店を監視できるように、カメラを設置しようとしていた。結局は仕掛けられなかったがな。一年前から捜査は開始されていたんだそうだ」

「まったく気付かなかったわ。始末してくれて助かる。ここの中国人が”孫”を始末したら、仲間殺しで問題になるのでな。孫はスリ集団を仕切っていた。あいつらも怪しいか」


 陳はそう言って、茶碗を持つ。目線は下げられたまま。僕達の会話はこの店の喧噪がかき消してくれる。

 乱れ飛ぶ中国語の潮騒が、この店の空気をよりいっそう暑くしていた。


「リストがあるのだったら、もらえるか? 写真もあればありがたい。確定するまでの時間が短縮できる」

「そちらに届けさせよう」

「僕に直接渡してくれ」


 要件を手近に終わらせた後、肉包子を口にする。中から肉汁が浸み出てきた。臭みのある油。舌に絡み付き、飲み込んだ後でも臭さが鼻に残る。


 陳は身体を膨らませるように笑った。くぐもった笑い声。

 死にかけた老人らしい息の浅い笑い。


「劉の奴から聞いたが、今、お前さん達のグループの雰囲気が悪くなっているらしいな?」


 中国人の繋がり。僕、シャフバンダル、メルキアデスは中国人とのコネクションを持っていない。

 劉が陳に通じているのか?


 疑いだせばきりがない。

 肉包子を持った指先に、まだ平静心の残せている。動揺を見せる訳にはいかない。


 だが、疑わなければ、明日殺されるのは自分かも知れない。


「ああ。ちょっと引き締めてやった。緊張状態を保つことは組織のかなめだ」

「ウノ、お前が見えている誰もが疑わしい、そんな事を思っているんじゃ無いのか?」


 陳の瞳は笑っていた。彼は楽しんでいる。

 僕の状態。疑心暗鬼になっている僕達の状況を見てわらっている。


「この緊張感こそが、組織を組織たらしめるものだ。知らないのか?」


 再び、笑い声をあげる陳。

 周囲の目がこちらに集まっている気がした。ここに居る全員が僕を見て笑っているかに思える。耳に届く全ての声が、僕の名前を囁いているかのようだ。


「ウノの組織で幹部が減ったと聞いたわ。中国人を入れてみる気はないか? 五名ほど候補がいる。いずれも有能だがな。どうだね?」

「幹部を増やす予定はない。爺さんの言いつけを一々守っていたら、僕の首が刈り取られるかもだ」

「そんな事はせんよ。お前達にしっかりしてもらわないとな。落ち着きつつある外国人街の治安が乱れる」


 砂糖に包まれた言葉。飲み込むには余りに危険。喉元を過ぎれば何に変わるかわかったものじゃない。


「中国人は劉と王で十分だ」

「劉と王はどらちも他愛無い。違うか? お前からすれば物足りないだろう」


 探る言葉。彼は僕の目を見ながら、全身を観ている。

 少しの動きでも捕えてやろうと、細い目は開かれている。底の知れない真っ黒な瞳が誘っている。


「だが、劉と王はスパイにはなりえない」

「そうか。そうか。残念だ。また人間が欲しければ言うがいい。私はそれを拒まないよ。だが、南米や中東の奴らは信用できん。覚悟しておいた方がいい。お前の知らない所で牙を研いでいるかも知れん。油断だけはしないようにな」


 薄笑いを浮かべて、陳は茶を飲む下す。上を向いて剥き出しになった彼の喉仏が不器用に上下に動く。

 僕は置かれた茶碗を手にした。


「覚えておいてやるよ」

「なんの。なんの。”困った時はお互い様と”、日本では言うのだろう?」

「らしいな」


 返答をしながら、陳は僕の本名が仙道達也で、日本人の学生である事を知っているかもしれないと思った。


 中国人のネットワークは日本人が思っているよりも広範囲に及ぶ。

 そして、彼らは日本人と見分けがつきにくく、周囲に溶込む。彼らはどこにでもいる。


 劉や王は僕の配下になっているが、彼らは僕の事を中国人コミュニティーの報告している可能性はある。そして、普段の僕、つまり仙道達也の生活を、監視している中国人がいる可能性だってある。


「ウノ。”孫”の件については、礼を言うよ。これが謝礼だ」

 陳が胸元から封筒を取り出す。この前と同じように仮想通貨の口座情報だろう。


 内容を確認し、内ポケットに入れようとすると、陳が薄笑いを浮かべる。

 彼は顔を寄せ、囁くように僕に耳打ちしてきた。擦れた囁き声は、蜉蝣かげろうの羽音を想起させた。


「幹部の南米人にも報酬を渡しておいたよ。”孫”を始末したのだったのだろう? 仕事のできる奴だ。あいつは私の事をどう言っていた?」

 メルキアデスの事をほのめかしているのか?

 確か、彼には陳が経営する地下銀号の護衛を依頼している。メルキアデスと陳が接触する可能性はある。


 だが、

「”孫”殺しをじいさんが命令した事にしておいてもいいんだぜ? 同族殺しはまずいんじゃなかったのか? 特にここでは?」


 陳は目を細めた。彼の目から感情を読み取れない。表に出ていた笑いは、ゆっくりと消えて行く。


「そうか。そうだったかもしれんな。いかんな、歳を取ると。どうにも物忘れが激しくなる」


 彼はとぼけて見せた。南米グループ幹部であるメルキアデスが陳から報酬を受け取ったというのは嘘だろう。

 可能性はあるが、この会話での陳の目的は揺さぶりをかける事だ。

 揺さぶりをかけて、そこから出てくる僕の表情を読む。それが目的だ。


 メルキアデスと陳の間に、知らないやり取りがあると僕に思わせられれば、僕がメルキアデスを疑うと考えたのかもしれない。


「”孫”がいたスリ集団のメンバーの情報。それと写真。忘れずに持って来い。調査中に訊きたい事があればお前が居るはずの薬局に行く。お前が薬局に居なければ、アルバイトにでも訊く。爺さんに”孫”殺しを頼まれたウノと名乗ってやってもいいぜ?」


 殺しを依頼したからには、同じ穴のムジナだ。僕は彼に笑いかける。後ろの中国人のざわめきが波のように、また大きくなった。陳は少しだけ目を開いた。


「ウノ。お前は面白い男だ。私の養子になる気はないかね? この国はお前にとって窮屈だろうて。私の養子になれば、もっと大きなビジネスができるかもしれない」

「遠慮させてもらうよ」

 この男は危険だ。油断すべきじゃない。


 馴れ合うな。騙せ。騙されるな。


 僕は椅子を引く。もう帰る時間だ。長居するべき場所じゃない。ここは中国人の臭いがキツ過ぎる。


「じゃあな」

「ああ、ご苦労さん」


 僕は出されている中国茶を飲み干した。日本茶とは違う、嫌みのない滋味が口の中に広がる。

 

 僕は飯屋を後にした。

 

 飯屋の表看板に巻き付けられている電球達に光が灯り始めた。

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