30.デッドウーマン・ウォーキング

 僕の家へと帰ると、母親が死んでいた。寝室で泡をふいて死んでいた。


 閉め切った部屋に死臭が立ち籠めている。青ざめた色から察すると死後それほど時間は経過していない。コバエがこの世の天国とばかりに乱舞している。


 窓を大きく開き、空気を入れ替える。家の中を歩いても、現実感が無かった。

 ここに僕が住んでいたというのに、記憶の倉庫を漁らないと、何も思い出せない。


 母親は死ぬまで、部屋の片付けに執着していたようだ。整理された本棚。そして台所。全てのモノは整然と、あるべき所に納められている。


 生物の痕跡は死体になった母親だけ。そこから視線を移すと映画に出てくるような、作り物じみた空間しかない。無機質で快適で清潔。非情にして冷酷。

 そして、どこまでも余所余所しい。生きているものを拒絶するような雰囲気。


 母親は金銭的には恵まれていたが、自分を取り囲む環境はそうではなかった。

 妾という身分を隠すように、インテリアやレイアウトに病的にこだわった。


 この家は極端に生活の臭いがしない。母親は自分の過去や、生き様。

 全て隠そうと、無かった事にしようと、雑音のない空間を創り上げた。

 この家は彼女の作品だ。彼女自身だ。


 僕は電話の後、秋代に母親を紹介した。

「秋代。あれが僕のママだ」

「死んでいるわ」

「ああ、人間はいつかは死ぬものだ」

「ええ、本当ね。酷い臭いだわ。窓を開けなくちゃいけないわ。お母さんが死んで、あなたは何も感じないの?」


 悪臭の中、僕達二人は鼻を摘もうともともせず、母親を見下ろした。


「ああ、何も。君はどうなんだい?」

「わからない。それにしても臭いわ。ねえ、覚醒剤を持っているかしら?」

「もう切れる頃か?」


 秋代の顔は青ざめている。一筋の汗が涙のように頬を滑り落ちてきた。

 眠たそうな瞳の奥に、意思の残骸が微かに身震いさせている。


「疲れているようだ。とりあえず、僕の部屋に行こう」

 秋代の体を担いで、階段を昇る。彼女の体は驚くほどに軽かった。

 彼女は細い腕を僕の首に絡めてきた。首筋に手首の骨が当たる感触がする。



 僕の部屋へと秋代を連れて入る。

 モノトーンで統一された家具は、無機質で乾燥をしたまま、呼吸すらしていない。

 この部屋は音が外に漏れることはない。


 秋代をベッドへと座らせる。白いワンビースを着た彼女は精巧な人形のようだった。


 覚醒剤をスプーンに入れて炙る。覚醒剤は解け、薄い飴色の液体へと変わっていく。


 秋代は目を細め、安心した顔をしている。彼女の頬はこけていたが、それでも彼女は美しかった。

 溶かした液体を注射器に吸い上げる。


「今日の秋代は消耗している。この注射はハイにはならない程度だ。気分の悪さは落ち着くはずだ。後は睡眠薬を飲んで休むといい。疲れただろう?」

「そんな事はどうでもいいの。それをくれないかしら。もう、私は生きているのも嫌なのよ。そうでないと、あの男達が私にした事を思い出してしまう。私は何も思い出したくないの」

「そうか、じゃあ、腕をまくって」


 秋代の透き通った腕。さぞや無茶をされたのだろう。

 彼女の腕に注射痕がいくつかある。


 腕を縛って血管を浮かせた。秋代の視線は注射器に釘付けになっている。

 青みがかった、透き通った白目に微かな血管が浮かんでいる。


 注射針を刺すと、肉を貫く感触が注射器を通して伝わってきた。

 秋代の血が注射器にあがり、液体の中で舞う。


 注射液を秋代の体内に送り出した。甘いため息が彼女の口から漏れる。

「さあ、秋代。疲れただろう。休むといい。今日はお休み。これからベッドに連れて行くから」

 

 秋代の体を抱えてベッドに滑り込ませる。

「この服のままでいいの?」

 白いワンピースを摘まんで、秋代はけだるげに聞いてきた。


「ああ、僕はその服が好きなんだ」

「どうして好きなの? よく似たデザインのもあったのに」


「以前、秋穂がその服が欲しいと言っていた」


 ベッドの中で秋代は小さく頷いた。

「この薬を飲むといい」

「これは何?」


「ハルシオン。睡眠薬だよ。ほら水色が奇麗だろう」

「ええ、頂くわ」

「怖い夢を見ないように、寝るまで側にいるよ」

「今日は優しいのね。ねえ、何か話しをしてくれない。一人で考え事をしていると、苦しくて、気が狂いそうになるの」


「どんな話がいい?」

 仰向けになっていたのを、彼女はこちらを向くように体を動かす。

 枕の繊維が擦れる音の中、秋穂は僕の方へと目線を向けた。


「そうね。あなたがいつか言っていた。秋穂さんだったかしら、その話をしてくれるかしら。もう、死んでしまったのね。その人」


 僕は椅子をベッドの横に付けた。

 秋代の額を優しく撫でた後、深く腰掛ける。

 黒色のメッシュでできているアーロンチェアは音も立てずにしなる。


「死んでしまった。秋穂と始めて会ったのは、引っ越した翌日だった。幼稚園に行く前だった。確か四歳だったと思う。門を覗き込むようにして、彼女は立っていた。声をかけると逃げたんだ」

「秋穂さんって、人見知りする人だったの?」

「最初の頃はそうだった。だけど、僕のママと秋穂の母親は仲が良かったから、よく会ったりしていたんだ。そうしてゆく内に、話をするようになった」

「仲良くなっていったのね」

「僕にはわからない。ただ、秋穂は僕をよく叱ったな。僕はママに叱られた事がない。今まで、僕を叱った事があるのは、秋穂だけだ」


 僕は過去に思いを馳せる。成績優秀だった僕は、先生にも叱られた事がない。

 誰もが僕を褒めた。他の生徒はそんな僕を見て、ひがんだり、ねたんだりしていた。

 以前に、イジメが原因で生徒が自殺した事件があった。その為か学校では先生の監視が厳しく、僕が何かされた覚えはない。


「成績も良かったしさ。品行も良かったから、何かを注意された事もない。秋穂だけだ。僕を叱責しっせきをするのは」

「嫌いだったの、秋穂さんの事?」


「ネガティブな感情を秋穂に抱いた事はない。僕は彼女を嫌った事はなかった」

「どんな時に彼女はあなたを叱責しっせきしたの?」


 秋代は眠りに落ちそうだ。

 言葉に溺れて落ちていきそうになっている。白い寝具の中で弱っている。


「クラスで飼っていたハムスターの耳をハサミで切った時だ。教師もクラスの誰もが凍り付き、動けなくなっていた。だけど、昼休み、秋穂が隣クラスから来て、僕の頬をぶったんだ。驚いた。彼女は泣きながら、僕のした事は良くない事だと言っていた。どうしてかと聞くと、更に頬をぶたれた」

「そうなの」


 秋代の意識は眠りの淵に手を引かれている。

「秋穂の首を締めた時も怒られた。映画でそういうシーンを見て、やってみたんだ。酷く叱られた。それをやったら、人間でなくなるって言われた」


 秋代は寝息をたてていた。

 世の中にある煩わしい事全てから逃げ出して、彼女は眠っている。


 整った鼻から、静かな寝息が聞こえる。細い首。今にでも折れてしまいそうだ。


 僕は睡眠の深淵に意識を隠した秋代に囁きかける。話し相手が欲しいわけじゃない。

 返答など期待していない。僕が語りたいだけだ。


「秋穂は不思議な人だったよ。彼女は僕の考えている世界とは別だ。彼女は別の世界の人なんだと思ったよ。ママの無関心さとも違う。教師のような腫れ物を触れるような態度とも違う。同級生の嫉妬とも違う。秋穂は秋穂だったんだ」


 母親は僕に父親がいないという事を常に引け目に感じていた。

 その後ろめたさがあったのからだろう、彼女が僕を怒る事はなかった。

 腐敗が進行している今でさえも僕をなじりもしない。


 秋穂が自殺した日。

 その日を境にして、僕は母に暴行を加えるようになった。

 でも、彼女は謝ってばかりだった。秋穂のように僕を叱りはしなかった。

 殴っても。

 蹴っても。

 首を締めてみても。

 彼女は僕を叱ろうとせず、怒ろうともせず、謝ってばかりだった。

 機械のように、からくりのように。


 僕は空回りし続けた。無関心の中、僕は一人でずっと回し車を回し続けていた。


 僕はを忘れていた。世界はそういうものだったという事を忘れていた。


 そして、母親は心を病んでしまう。僕は彼女に暴力をふるわなくなったが、彼女は謝るのを止めようとはしなかった。


 今、母は死んだ。それについて僕は何の感慨も持っていない。

 喋るモノが喋らないモノになっただけだ。

 人間とはそもそも死体が生きているだけだ。


 母親が死んでいなかったとしても、殺すつもりだった。遅いか早いかの違いでしかない。

 静かに眠る秋代が休まるように、いつも持っている音楽プレーヤーのイヤホンを彼女の耳にかけた。


「そうなんだ。人間でなくなると言われたんだ」


 秋代の首に黒い髪の房がかかっている。

 それを払ってやると、白い首が寝息を吸い込んでる様が目に飛び込んできた。


 秋代の白い首が、

  首が、

   首が、

      首が――

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