39.リーズン・ホワイ
衣服は変えてもらった。袖を通すと洗剤の匂いがした。
初老の刑事によると、僕は二日間眠ったままだったらしい。
部屋は掃除されている。
リノリウムの床が淡く、天井の蛍光灯を反射させている。
スチールテーブルに二つのパイプ椅子。殺風景な部屋だった。
左耳が聞こえないのは、気になったが、出された食事が胃に入ると、どうでも良くなった。
「若い連中が色々乱暴ふるったようだな。今はこんな事は絶対ないはずなんだが、あんな大事件だったからな。若いとどうしても頭に血が昇っちまうもんなんだ。勘弁してくれよ」
初老の刑事は胸元をまさぐるが、思い出したような顔をして呟いた。
「ああ、そうか禁煙だったか。俺はラインから外れて、ここに来るのも久しぶりだったから、すっかり忘れていたよ」
白髪頭の刑事は椅子の引いて、机に肘をついた。太い鍛えられあげた腕だった。
「お前さ、以前に署に来た奴だろう。確か、女の子が自殺したとか言ってたのを覚えてるよ。その顔だ。間違いない。せっかく久しぶりに会ったんだからよ。自供でもいいからしていけよ、訊きたい事は後で訊くからよ」
僕の頭は鮮明だった。
久しぶりの睡眠で、頭の中が澄み切っている。
僕は口を開くことにする。
「最初に殺したのは子供だ。門田利之」
「厚生労働省事務次官の孫息子だよな」
「そうだ。それから二人誘拐して殺した。衆議院議員の孫娘と新聞社経済部のデスクをやってる奴の息子だ。警察はこの三件の事件で随分と叩かれたみたいだな」
「ああ、おかげさんでな。酷い目にあったぜ。上はカンカンだったよ。家にだって帰れやしない。で、お前は、それが悪い事とは思わなかったのか?」
「僕には良心が存在しない。心が無い。だから、心が痛む事はない」
置かれた書類を開きもせずに、男は僕に話をするだけだ。
パイプ椅子を後ろに傾け、バランスをとっている。
「それから、君は真野夏希を殺害。これも殺ったのか? 行方不明じゃなく?」
「そうだ。彼女は製薬会社役員の愛人だ。計画的に殺したから、おそらく証拠はでないだろうな。これは依頼によってだ。中国高官の愛人が恨んでの依頼だ。僕は実行しただけだ」
命令者は中国に居る。
だから、彼女を調査とするなら、中国の公安当局に依頼するしかない。
だが、中国とは犯人引き渡し協定を結ばれてもおらず、その女が政府関係者ともなれば何もできない。
だから報道もされず、いつの間にかうやむや。
桐生や陽子の事は語るつもりはない。どうでも良い事だからだ。
男はパイプ椅子の角度を更に遠くにしている。
どうでも良さげな態度だった。
「お前、大人のような口の聞き方をするねえ。最近の奴は皆そうなのかい? この前、お前を見た時はそうじゃなかったように思うんだがな。緊張してんなら肩の力抜けよ。聞いてる方も肩が凝るってなもんだ。それじゃ、続きいくか。お前はまた殺した。この前の連続誘拐事件だな」
「あの時は大きく分けて、三種類の誘拐をした。一つは身代金目当ての誘拐。もう一つは殺し目的の誘拐。最後の一つは長月秋代の誘拐。身代金目当ての誘拐も結局は金が受け取れずに殺してしまった」
「殺し目的の誘拐って何だ?」
「
全てが終わってしまったから、語ってしまおう。既に目的は完遂している。
「一つ目は誘拐対象が僕の殺人対象者だったという事。最初から殺すのが目的だ。二つ目は搭乗者が、内通者だったという事。最後の三つ目は、県内の警備体制をそちらに集中させる事。そうする事で、警戒地区に僕達の仲間を潜り込ませ、マエストロホテルに爆弾を仕掛ける事ができた」
「これも計画的だったと」
「そう。全ては計画だよ。誰にも言ってなかったから、組織内での反発は凄かった。言っても反発を食らってたはずだ。彼らは金が目的で集まっていたから、逃げられないように巻き込まれて、逃げ出せないようにする必要があった」
「でもってお前は爆弾テロを起こす。製薬会社の株式総会だ。全員死亡。完全に殺すつもりだった?」
「そうだ。最初から製薬会社が目標だ。彼らを殺すつもりだった。ついでに言っておくと、先ほどの殺人目的で誘拐した連中も、その製薬会社の研究所長と協力関係にある大学教授。それと精神科医の蒲田だ」
「そして、長月厚生労働省審査管理課長と君の父親である島根厚生労働省医薬食品局長を殺害。間違ないな?」
パイプ椅子を戻し、刑事は机の上に肘をつく。
彼は目を瞑っていた。目の皺は深い。捜査経験の厳しさを無言で語っていた。
「間違いない。それらは僕の殺人対象の筆頭だった連中だ。僕が今回の一連の事件を起こしたのは、この連中を殺そうとした事から始まってる」
「そうか」
初老の刑事はため息をついた。長い長いため息だった。
心の全てまでを吐き出しているかのようだ。
彼は瞑っていた目を開いた。
「仙道君。仙道達也君。俺は君が起こした門田利之君の誘拐事件から、捜査を続けていた。ずっとだ。昔のやり方で地道に聞き込みを続けたよ。俺はラインから外れてるからね、誰も文句を言う奴はいない。報告はさせられたが、呆れて放っておかれたよ。だから、勝手にやらせてもらってね」
「門田利之は防犯ブザーを鳴らしてたな。そこから僕を追ったのか?」
「ああ、ただ正直参ったよ。尋問するにも外国人だ。今まで通りにはいかなかった。何しろ奴らとくれば、日本語を喋られないばかりか、金を要求してくる。今まで通りにいかなくなってしまったんで、骨が折れたよ」
文化が違うという事を身体をもって理解したらしい。
効率的な捜査方法だと、ハッカーを通じて行った情報攪乱に引っかかり、手が届かないはずだった。
ラインから外れた地味な男は言葉を続ける。くたびれた背広に折り目はついていない。
「おまけに君の母親もだんだん口を閉ざすようになってきて、最後には謝ってばっかりだ。どうしようもなくなった。後手に回ったけれど、わかった事もある。動機。どうしてこんな事をしたのかもだ。君は何も言わなかったが、俺にはわかる気がする。これから喋るから、それが正しいか、言ってくれるか?」
僕は承諾することにした。
言われてみれば、
「構わない。
初老の刑事は僕の目を見つめてきた。
深い皺だ。彼は僕の何倍生きてきたのだろうか。
「君の言動がおかしくなったのは、幼馴染みである、桑原秋穂さんが亡くなってからだ。俺はここからがスタートだと思っている」
彼は身動きせず僕を見据えた。眼光は鋭く僕も読み暴くつもりなのだろう。
「秋穂さんは、君と同じ学校に通学していたようだけど、彼女は残念ながら、高校の授業について行けなくなった。そして、精神的に追いつめられ、とうとうノイローゼになる。彼女は心療内科に通うようになった。心療内科には君も一緒について行っていたみたいだね。病院の人も言っていた」
「そうだ。間違いない」
「秋穂さんは鬱病と診断された。そして、薬が処方されるが、一向に病気は回復しない。君は一人で何度も病院を訪れ、抗議をしたり、他の病院に彼女を連れて行ったりと、秋穂さんを治す為に尽力した。これも間違いないね?」
「間違いない」
あの頃を思い出す。
萎れてしまった秋穂を何とかしたくて、元に戻って欲しくて、僕は色々試みたものだった。
すっかり変わってしまった秋穂。
動けなくなった彼女は身体を縮ませ、僕の影に隠れてばかりになった。
背中に添えられた手の暖かさだけが、昔の彼女そのままだった。
僕は秋穂の家族ではないから、診察室には入れなかった。
病院の待合室で彼女が回復する事だけを願って待っていた。
「ところが、秋穂さんは自殺してしまう。家族の証言によると、自殺する前夜、君と秋穂さんは激しい言い争いをしたんだってね。そして、母親が秋穂さんの部屋に入ると、秋穂さんが君の首を締めていた。これも正しい?」
「正しい」
秋穂が自殺する前日。
彼女は憤怒に満ちていた。今まで見た事もない顔だった。
身体から噴出する怒りに身体をまかせ、彼女は僕の首を絞めた。
後に知ることになる事実。当時は
だから、秋穂がどうして僕の首を締めたりするのかわからなかった。
初老の刑事はゆっくりと口を開く。無精髭が撫でていた。
「秋穂さんの自殺の原因は鬱病の薬の副作用だと、以前に君は言っていたね。新聞では単に自殺と書かれているだけだったが」
僕は小学生低学年の頃に観た映画の影響で秋穂の首を締めて叱られた事がある。
それはやってはいけない事だと秋穂に教えられた。
それをやったら、人間でなくなる。そう秋穂に言われたのだ。
だから、僕は混乱した。
人の首を締める事を、人を殺す事を否定した秋穂が、僕を殺そうと首を締めるからだ。
どうして秋穂はやってはいけない事をするのか、僕には理解できなかった。
翌日、僕は秋穂にどういう理由で僕の首を締めたのか。
どういう理由で僕を殺そうとしたのか聞こうと思った。
僕には人の心がわからないから、理解する事ができないから、秋穂に理由を聞くしかない。
それまでの彼女は僕に何でも教えてくれたから。
いつも通りの毎日になると思っていた。
秋穂が笑ってくれる日常がくると思っていた。
秋穂が叱ってくれる日常がくると思っていた。
だけど、彼女は自殺していた。
僕を置いて一人で旅立ってしまっていた。
秋穂はどこにもいない。
もう理解できない事を訊く事はできなくなってしまった。
どうして僕を殺そうとしたの?
どんな気持ちで僕を殺そうとしたの?
僕は生きていちゃ駄目なの?
秋穂は答えてくれない。
「僕の母親を見ただろう。精神療養に使われる薬の正体はあれだ。
薬は心の悩みを取り除くと同時に、心をも取り除く。
秋穂が飲んでいた薬は普通に精神医療で処方されている薬だ。
見込まれていた効果はなかった。それでも販売はされている。
自殺、凶暴化の件数は減少傾向もない。
そんな薬を秋穂は自分の病気が治ると信じて飲んできた。
そして、僕はそんな薬を秋穂に飲ませていた」
喋ろうとする老刑事の言葉を遮った。
「鬱病を含む精神疾患の定義は曖昧で、数値的な根拠はない。
そして、精神科医達は、科学的であろうとし仮説をたてた。化学物質の不均衡。それはモノアミン仮説と呼ばれる。
この仮説に製薬会社が食い付いた。精神疾患は薬で改善すると信じ込ませた。
製薬会社が薬を作り、厚生労働省がそれを認可。そして、薬が流通する。
精神疾患の薬は、僕が殺した何倍もの人を毎年殺す。そして、それらは巨額の利益の為に販売禁止にならない」
老刑事は黙り続けたままだ。
「なあ、おじさん。教えてくれないか。僕のやった事が罪でも何でもいい。だが、秋穂を自殺させた薬を飲ませる仕組みを作った連中は罪じゃないのか? その仕組みを放っておく連中は罪じゃないのか?」
初老の刑事は何も語ろうとしない。伸ばされた無精髭は動きもしなかった。
僕はもう喋らない。
僕が喋る事で、秋穂が生き返るなら、舌がすり切れても喋るだろう。
抗議して訂正される世の中なら、僕は何度でも抗議をするだろう。
だが、この世の中はそうなっていない。
なっていなかった。
闇から闇へ全ては葬られた。
行政に言っても、
製薬会社に言っても、
警察に言っても、
何も変わらなかった。誰も動かなかった。見てみないふりをされた。
秋穂が死んでしまったのに。秋穂があんな姿に変わってしまったのに。
秋穂はコンテナマンのように無視された。
秋穂は何度も殺された。
国会議員の事務所から追い返された時。
市議の家で怒鳴られた時。
県議事務所でレポートが破られた時。
新聞社のドアが締められた時。
ジャーナリストに迷惑だと言われた時。
厚生労働省前で警察に捕まった時。
製薬会社の警備員に追い返された時。
市警で取り合ってもらえなかった時。
県警で皆に囲まれて苦笑された時。
弁護士に諦めろと言われた時。
担任に馬鹿な事をするなと言われた時。
校長から抗議行動は止めろと言われた時。
母親にいい加減にしてと泣かれた時。
そして、秋穂の親にもう忘れろと言われた時。
秋穂を覚えているのは僕だけになった。
こんな社会は信用できない。
こんな社会は認められない。
こんな社会はいらない。
秋穂のいない世界なんてどうでもいい。
<Supplement>
以下にURLにある動画は2009年辺りに作成。
精神医学:死を生み出している産業(安全確認済み)
http://www.cchr.jp/videos/psychiatry-an-industry-of-death/
時間がかかるが同サイトの全ビデオを閲覧することを推奨。
尚、エモーショナルな構成にはなっている。
</Supplement>
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