07.グッバイ・グッデイズ

 誘拐事件が発生した際には、人質の安全の為に、取材や報道は自粛される。

 テレビ局が報道協定を解除するのは、人質の安否が確定した後だ。

 

 門田利之。

 小学四年生。身長は百三十センチ。体重は三十八キロ。

 やや小太りで黒縁の眼鏡をかけている。


 成績優秀。

 彼は家に帰ってから塾に行く所で誘拐された。

 誘拐されたのは午後四時。

 


 彼は自宅から十駅以上も離れた学校に通っているので、塾へは家に帰らず直行する。


 母親の言いつけ通り、学校の友人三人と一緒に塾へと向かう。


 母親の思惑はこうだろう。

 友達と一緒にいると、自分の息子が危険に遭遇する可能性は低くなる。

 小魚が補食されない為に群れるのと同じ理屈。


 塾へ行くルートは決まっている。

 利之君は電車では前から三両目の優先座席に座って塾へと向かう。

 友達と一緒に携帯ゲーム機で対戦ゲームに興じる。塾に行くまでが、唯一の娯楽時間だ。


 その後、駅に到着。彼は歩いて塾へと向かう。

 途中に公園があり、彼らは近道の為に公園を横切る。


 ただ、その日はいつもと違った。褐色の肌の色をした少女がいたからだ。

 その女の子は彼よりも年下で身長は百二十ほど。彼より小さい女の子。


 そのまま通り過ぎるかと思ったら、どうした訳か、その少女は手にしていたジュースを手から滑らせ、門田利之の上着をびしょ濡れにしてしまう。

 そのジュースは見た事もない飲み物で、彼の上着は緑一色に染まってしまった。

 そして、少女は大声で泣き出す。


 その少女は日本人ではない。日本語がまったく通じない。

 利之君は英語が喋られるが、ベトナム語は習っていなかった。彼がベトナム語を聞いたのは、この時が始めてだっただろう。

 利之君が女の子の表情や動作から察するに、女の子は謝罪している。


 利之君は自分の服が緑色になっているので、塾に行く気をすっかり無くしてしまった。

 加えて少女は利之君の服を離そうとはしない。

 利之君からすると彼女とはジェスチャーしか通じない。仕草とママという言葉から考えると、ママの所に行って、着替えを渡すと言っている、と思ったはずだ。


 利之君の友人は塾へと向かう。塾での授業が始まりそうだからだ。


 誰もいない公園に利之君を残すのはどうかとも考えただろうが、相手は少女。

 目がパッチリとした可愛い娘。着ている服も新しく奇麗で、手足も驚くほど細い。

 だから、大丈夫だろうと思った事だろう。


 小学校四年生の男子ともなると、防犯ブザーが壊れていたり、電池が無かったりする。

 だが、利之君はそうではない。

 事前調査で一週間程前に僕が利之君に道を尋ねた。彼は強張った表情をして、防犯ブザーをズボンのポケットから取り出している。


 だが、女の子が流暢にWhat is this?

 と英語で尋ねると、利之君は何の不審も抱かずに防犯ブザーを差し出した。

 そして、彼は先生以外の英会話で頬を紅潮させていた。


 その少女の奇麗な服は、デパートの値札が付いたままになっていた。

 そこには気付かなかったらしい。

 当然、その少女が夜の町でサラリーマン相手に売春をしているなど思いもしなかっただろう。


 彼女が利之君の母親と同じ香水を付けていているのは気付いただろうか?

 誘拐を成功させるのに、一パーセントでも可能性が上がるなら、僕達は努力を惜しまない。

 狩人は、いつだって獲物以上に努力をするものだ。


 門田利之。

 彼はその公園から三十五キロ離れた廃ビルにいる。隅には一昔前の事務机や椅子が置かれている。

 蜘蛛の巣は居たる所に張っていて、床には埃が積もっている。以前にはあったであろう活気は、この部屋にはない。捨てられてしまった。


 門田の家の連絡先は調べてある。彼の祖父は僕の父と同じ職場だった。

 以前に僕の父親が帰って来た時に、彼のノートPCから抜き出しておいたデータがある。

「警察に言ったら殺す」


 ノートPCから作成された合成音声が音声通話に出力される。

「わ、わかりました。五千万ですね。五千万を用意したらいいですね」

「イエス。受け渡し場所は後で連絡する」

「あの」

「何だ」

「少しでいいので、息子の声を聞かせてくれますか?」

「待て」


 音声通話をスマホに切り替え、利之君の口元に持ってゆく。彼は突然の環境の変化についていけず、頭が回らないらしい。

 僕の口を開くジェスチャーと、受話器から聞こえる母親の声で、彼はせきを切ったように喋りだした。

「ママ? ママ。ママ! 助けて。助けて。僕怖いよ! 助けてよ!」

 利之君の激情で床にあった埃が飛び去る。彼から吐き出される感情は廃ビルの中を埋め尽くされた。

 僕は黙って通話を切る。


 このスマホはトバシと言われるものだ。

 ダークウェブを経由して買い取った。名義は誰になっているのやらわかったものじゃない。


 王と胡。

 彼ら二人は震えている。背景に崩れかけている壁が見えた。

 子供の助けを求める声に、同情しているのだろう。


 利之君が泣き出す。最近の子供は感情を露にしないと、何かで聞いたことがあった。

 だが、彼を見ている限り、そうでもないらしい事がわかる。

 大粒の涙が彼の頬を伝わっていた。


「や、やっぱり、止めようか?」

 絞り出すかのように胡が言った。表情が苦渋に満ちている。

 どうやら怖じ気づいたらしい。王も僕の様子を見ている。

 僕が利之君を解放してやれと言うと、彼らは諸手を挙げて賛成するだろう。


 覚醒剤の取引では感じる罪悪感は少しで済む。

 モノを販売しているだけだと思えば、気もまぎれる。日常生活の延長だ。


 しかし、誘拐は違う。泣き叫ぶ子供を目の前にして交渉をしなくてはならない。

 自分の子供の姿を人質の上に重ねて、心を痛める奴もいる。


 これからのビジネス展開にあたって、彼らには決意と覚悟が必要だ。

 既に船は港から離れた事を自覚させなくてはならない。

 この壊れかけた廃ビルの中、僕はそう思った。


「なあ、ウノ。助けてやろう。やっぱり子供を攫うのは良くないよ。こんなに泣き叫んでいる子供を見るのは忍びない」

 胡が堪え兼ねて、喋り出した。

 脂汗が額に浮いている。王の方を見れば、何かに耐えるような顔をしながら、沈黙を守っている。

 手は固く結ばれ、肩を震わせ耐えていていた。


「そうか。まあ待てよ。劉からの連絡を待とうじゃないか。彼にも意見を聞かなくちゃならないだろう?」

「そりゃそうだ。劉の連絡を待とう」

 王と胡は決意が先延ばしにされて安堵する。


 劉は門田家から一キロほど離れたマンションの空き部屋だ。そこで望遠鏡をのぞいている。

 門田家に動きがあれば、即座に僕達に連絡を入れてくる。


 夜の十時半。


 父親が帰って来たようだ。着信音に王と胡は身を縮める。

 着信。

 発信。

 繰り返される通話。


 王と胡は近づきつつある結末にわなないている。

 彼らの後ろにある崩れかけた壁。ヒビも深まっていそうだ。

 二人は怯えてしまって、何を話しているのかさえ、理解できていない。

 そして、劉から複数の車が門田家の前に到着したと報告が入った。


 劉の報告によると、人間と機材を降ろした後に立ち去った。

 報告する劉の声は上ずっていた。

 緊張の糸が張りつめており、少しの刺激で切れてしまいそうだ。


「劉。わかった。報告ご苦労。そこに待機しておいてくれ。後ほど連絡をいれる。そこからは僕の指示があるまで、絶対に動くな。いいな。絶対だ」


 通話を切る。スマホを口元から外し、僕は王と胡に顔を向ける。

「どうやら警察が動いたみたいだ。親が警察に連絡したらしい」

「本当か?」

「本当だ。どうだ、怖いか?」

「ああ、ああ。怖い。ウノ。俺は怖い」


 胡の唇が痙攣していた。何かの病に感染しているかのようだ。

「そうか。そうしたら、次の手をどうする? 考えてみろ。いいか。考えろ」

「ウノ。俺にはわからない。頭が真っ白で、何も思いつかないよ」

「僕達の立っている場所をよく思い返してみろ。僕達は誘拐をした。誘拐をしたんだ。知らないかもしれないが、この国では誘拐は重大犯罪だ」


 重大犯罪という言葉を聞いて胡は身体を飛び上がらせた。

 まるでエビが跳ねる姿。彼の心にヒビを入れ、そこをこじ開ける。そうなると崩れる。


「想像していなかったか? 僕達は既に犯罪者だ。この子供を返しても、僕達の罪が無くなる事はない」

「……」

「どれぐらいの罪と思う ?どれぐらい刑罰を食らうと思う? 王はどう思う?」

「三年か?」

「いいや違う。胡はどう思う?」

「五年?」

「いいや違う。そんなもんじゃない」

「十年。十年だ」

「何を言っている。中国では、そんなもので済むのか?」

「中国では死刑だ。でも日本は」


「死刑だ。日本でも死刑だ」

 当然、嘘だ。僕達が行っている誘拐は身の代金目的略取等の罪になる。死刑は有り得ない。


 だが、事実をこいつらに伝える必要はない。彼らはまだ自分が戻られる場所にいると思っている。

 止めれば、いつもの生活に戻れると思っている。


「いいか。この子供を解放したとしても、この国では誘拐罪が適用される。この子供を助けても駄目だ。この子供を攫った時点で、僕達の罪は確定した。わかるか。死刑だ」


 三人は僕の言葉を聞き漏らすまいと、一心不乱になっている。

「僕達の首に縄がかけられる。目隠しをされて。何も見えない中で首にかかる縄の重さを感じる事だろう。真っ暗だ。何も見えない。怖いぞ。それはとっても怖い。思い浮かべろ。君の首の周りに縄の感触がある。それは数秒後に首を締める荒縄だ。想像できるか?」


 二人は口を閉じるのも忘れて、目を見開いている。

 僕は言葉を続ける。

「そして、突然に足下の床が口を開く。君の身体は落下する。思い出せ。君も高い所から飛び降りた事があるだろう。目隠しをして落ちるのは恐怖だぞ」


 胡を指さすと彼は震え上がった。

 恐怖心が僕の糸となり、彼らの身体を縛り上げる。

「そして、君の首は絞まる。息ができなくなる。首吊りが直ぐに命を奪うと思うな。首を吊ると、息ができない。苦しいぞ。辛いぞ。口を開けても空気は入ってこない。肺は空気を欲して焼け付きそうだ」


 そして、僕は王を見る。僕の視線を受け、彼は後ろずさった。

「息はできずに、時間をかけてゆっくりと死んでゆく。もがいてみても縄は緩まない。暴れても何をしてもだ。故郷に家族を残したまま、惨めに死んでいくんだ」

 彼らから発せられる恐怖心が、僕の心の中に染みこんでくる。

 そうして、僕の操り人形になればいい。

 彼らの壁。良心の壁は壊れた。見通しがよくなって何よりだ。


 死刑判決を受けたかのように、王と胡は青い顔をしていた。

 衝撃を受けたのか、頭の中は空っぽだ。開けられた口には何もない。


 思いつくままにデタラメを喋ったが、彼らは疑いもしない。


 そうだ。失望しろ。

 そして絶望しろ。

 その後で覚悟を決めろ。

 自分の立つ場所を覚悟をもって認識し、行動に悩みを出すな。


「わかったよ。ウノ。そうだったな。俺達はもう犯罪者なんだな」


 胡の頬に涙が流れた。自分達は戻れない。

 どうやら彼らは自覚したらしい。

 日常生活への別離べつりの涙。

「俺達は何をすればいいのか。わからないんだ。だから俺達はウノに言われた通りにする」


「王、君はどうすればいいと思う? 君の意見を聞かせてくれ」

「俺もわからない。ウノ。教えてくれ。俺はお前に従うよ。多分、劉の奴も同じだ。俺達の事はお前が決めてくれ。それが一番良いだろう」


 こいつらは本当に素直だ。

 微塵みじんも僕を疑わない。こいつらは僕の奴隷だ。


「こいつをバラす」


 利之君が震え出した。

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