第三話 秘めた想い

 その後も、コールとダリアンは言葉を交わすことのないまま、賑やかな夜の町を歩き続けていた。

 心の優しい皇子は、孤独な巨人の思いを知って、自分がしてやれることは何なのかと思いを巡らせているに違いない。

 そう思ってダリアンも、彼の隣に並んで静かに見守ることにしたのだ。

 やがて、王宮への道半ばの街中にあるダリアンの家まで帰ってきた二人は、玄関の前で立ち止まり、向き合った。


「では、また」


 頭を下げてドアノブに手をかけたダリアンの肩を、コールの手が軽く掴んだ。


「ダリアン、これから王宮で一緒に飲まないか?」


「今から……ですか?」


 突然の誘いに戸惑いを見せるダリアンの前で、コールは少し顔を赤らめて頭を掻いた。


「明日は神学校も休みだし、今夜はゆっくりして行けよ。レムリアも喜ぶ」


「……」


 レムリアの名を聞いて、ダリアンは一瞬表情を曇らせた。

 彼女とは、しばらくは顔を合わせたくないと思っていた。

 今会えば、ようやく塞がりかけてきた傷口がまた開く。

 そんな恐れが、彼の中にはあった。


 だが、一呼吸をついて思い直した彼は、皇子に同行することにした。

 ギルトのことが頭から離れない彼は、今夜は一人で帰りたくない気分なのだろう。

 コールの妻であるレムリアは、とても勘がいい。

 努めて明るく振舞っていても、心に何か気にかかることがあれば、いつもすぐに見破られる。

 けれど、友人を連れて賑やかに帰れば、身重の妻に心配をかけることもない。

 おそらく彼は、そう考えたのだろうと思ったのだ。


「わかりました。お付き合いしますよ」


 ダリアンは本心を笑顔で隠し、先を促すように皇子の背中に手を添えて歩き始めた。

 

 




 神殿が立つ丘を東に臨む位置に、ラ・ムーの一族が暮らす王宮はある。

 そこも小高い丘になっており、ムーの町を見下ろすように白亜の宮殿は建っていた。

 町の喧騒を背中に聞きながら石造りの階段を上っていくと、円柱が周囲に巡らされた巨大な建物が見えてきた。

 そびえ立つ柱の間を通り抜けた先には、天井まで届く鉄の扉が入り口を塞いでいた。

 扉の傍に立つ衛兵が、皇子の顔を見るなり手にした大斧の柄で地面を叩き、それを合図に分厚い扉がきしむような音を立ててゆっくりと開き始めた。


「じゃあ、行こうか」


 扉が完全に開いたところで、コールがそう言って先に建物の中へ入っていった。

 彼の後を追ってダリアンも中に入ると、地響きを立てて扉が閉じられた。

 最初に足を踏み入れた場所は大広間になっていて、ドーム状の高い天井を、松明の炎が揺らめきながらぼんやりと照らし出していた。

 左右には等間隔に神々をかたどった石像が置かれ、目の前を通り過ぎていく青年達を、氷のような冷ややかな目で見下ろしていた。

 ダリアンがここを訪れたのは初めてではなかったが、夜の王宮は昼間の荘厳な印象とは異なり、重苦しいまでの不気味さを漂わせていた。

 大広間や会議の間など、政務に使用される公の部屋が続き、それらを通り過ぎた先に、王家の一族が暮らす居住区がある。

 そこをさらに進んで行った一番奥に、皇太子夫妻の部屋はあった。

 木製のドアに手をかけ、コールが押し開くと、暗く冷たい石の廊下に暖かい光がこぼれてきた。


「おかえりなさい、コール。今日はずいぶん遅かったのね」


 室内から聞き覚えのある優しい女の声が聞こえてきた瞬間、ダリアンの胸はドクリと大きな音をたてた。

 戸口に立ったまま、声の主と親しげに話し始めたコールの背後で、彼は自分の存在を隠すように、じっと息を殺していた。


「港で座礁した船があってね、ダリアンと一緒に助けに行ってたんだよ」


「まあ、ダリアンと? 船に乗っていた人たちは無事だったの?」


 コールの話に、女は少し不安げな声色で尋ねてきた。

 同時に、覚えのある甘い香油の香りも漂ってきた。


「ああ、ギルトが活躍してくれてね。おかげで皆無事だった。なあ、ダリアン」


 香りに意識を奪われていたダリアンは、突然話を振られて、びくりと背筋を伸ばした。


「あら、ダリアンも一緒なの?」


 今度は弾むような女の声が聞こえてきた。

 するとコールは、身を固くするダリアンの背を押して室内に入り、後手にドアを静かに閉めた。


「まあ、ダリアン。久しぶりね」


「こ……こんばんは。レムリア様」


 コールに前へ押し出されたダリアンは、努めて平静を装い、胸に手を当てて深く礼をした。

 姿勢を戻し、目線を上げると、そこには若く美しい女が微笑みをたたえて立っていた。

 抜けるように白くなめらかな肌と、果実のようにみずみずしく赤い唇。

 エメラルドグリーンの瞳はどこまでも深く澄んだ色をしていて、目を合わせていると心まで吸い込まれそうだった。

 自然のままに下ろされた優雅に波打つ金色の髪は、松明の炎に背後から照らされて一層輝きを放ち、その姿はまるで後光に包まれる女神のようだった。

 眩しさから逃れるように視線を下げた先には、胸元で結んだ帯の下で大きく膨らむ腹部があり、それは、彼女が母になる日が近いことを物語っていた。

 そんな彼女を前にして、ダリアンは必死に最初に口にするべき言葉を探した。


「おめでとうございます」


 やっとの思いで一言絞り出し、ダリアンはもう一度軽く頭を下げた。


「ありがとう、ダリアン。でも、私たちだけの時には、昔みたいに気さくに話してくれていいのよ」


 そう言ってレムリアは、天使のように無垢な微笑みを浮かべた。

 ダリアンはその顔を直視することができず、再び彼女から目を逸らして唇を噛み締めた。




 彼女、レムリアと最初に出会ったのは、コールではなくダリアンだった。

 数年前、町でならず者達に絡まれている彼女を助けたのが始まりだった。

 これほどの美貌の娘を男達が放っておくはずがなく、彼が裏通りを通りかかった時、彼女は柄の悪い連中に言い寄られていた。

 怯えている彼女を放っておけず、夢中で群れの中に飛び込んでいった彼だったが、喧嘩馴れした男達を相手に最初はかなり苦戦した。

 だが、騒ぎを聞きつけて加勢してくれる者もあり、なんとか彼女を救い出すことができたのだった。


 町はずれで暮らす彼女は、少し前に両親を失い、食料を得るため、自分で紡いだ糸を売りに来ているのだと言った。

 生きるためには町に出るしかないという彼女を、彼は母親に紹介し、彼らの家の前で糸を売るように勧めたのだ。

 父親が大神官を務める彼の家は、町の皆から一目置かれており、面倒見のいい母は特に主婦層からの人望が厚い。

 何かと言えば女達が集まって談笑している彼の家の前でなら、安全で、糸を買う客にも事欠かないだろうと考えたのだ。

 彼の思惑通り、レムリアが紡ぐ糸からは手触りの良い布ができると女たちの間で評判になり、たびたび家の前で過ごす彼女は、いつしか彼の家の一員のようになっていった。


「いっそ、嫁さんにしちゃいなよ」


 大真面目にそう言ってくる、おせっかいな母の友人もいた。

 それをいつも苦笑してかわしていたダリアンだったが、その頃には彼女に惹かれていることを自覚していた。

 だが結局最後まで、その想いを打ち明けることはできなかった。

 いずれコールガーシャ皇子がラ・ムーを引き継ぐ日がくれば、自分も大神官となって彼に仕えることになる。

 大神官は側近としてラ・ムーと行動を共にし、主に王宮か神殿で過ごすことになるため、滅多に家族とも会えない。

 彼の父も、その職に就いて以来、自宅に帰ることはほとんど無かった。

 大神官にとっての結婚とは、後継者を為すためだけのものであり、愛する者と共に生きることを目的としていないのだ。

 不自由のない生活を保障されていても、母が一人きりで子供達を育て、家を守る姿を幼い頃から見てきた。

 彼女にも、そのような寂しい思いをさせることになるのだと思うと、どうしても一緒になって欲しいとは言い出せなかった。


 そんなある日、神学校の帰りに彼の家に立ち寄った皇子が、糸を売る彼女と出会い、その瞬間二人は恋に落ちた。





「本当に夢みたい。一度に二人も子どもを授かるなんて」


 長椅子に腰掛けたレムリアは、幸せそうに隣に寄り添うコールと顔を見合わせた。

 そんな光景を目にしていると、ダリアンの心臓はまた、チクチクと針が刺さるような痛みを覚えた。


 仕方がないじゃないか、相手はコールガーシャ皇子だぞ。

 次期ラ・ムーとなられる尊い方であり、仮にそのことを差し引いたとしても、知性も勇気も慈悲も備えたこれ以上はない素晴らしい方だ。

 そして何より、この方ならずっと彼女のそばにいてやれる。


 何度もそう己に言い聞かせてきたが、どこかにいつも煮えきれない自分がいた。

 だが、皇子の子を宿した彼女の姿を目の当たりにして、今度こそ本当に諦めろと強く自分に言い聞かせた。


「お医者様には、もういつ産まれてもおかしくないと言われているの。この子達に会える日が楽しみだわ」


 大きく膨らんだ下腹を愛しげに撫でながら、レムリアはコールの胸に身を寄せた。





 その後、葡萄酒の誘惑とコールに引きとめられ、ダリアンは夫婦の部屋ですっかり長居をしてしまった。

 はじめのうちは仲睦まじい二人を前に、居心地の悪さを感じていた彼だったが、酔いに任せて彼らとの会話を楽しむことに徹することにしたのだ。

 そうして、酒に弱いコールがうとうととし始めて、「そろそろ」と腰を上げた時には、すっかり夜が更けていた。


「どうぞ、元気なお子様方を」


 戸口まで来て見送るレムリアに深く礼をすると、彼女は穏やかな笑みを浮かべて小さく手を振った。

 おそらく、次に会う時には、彼女は母になっているのだろう。

 改めてそう思った瞬間、一気に酔いがさめた気がした。


「ダリアン」


 乱れ始めた心を隠すように素早く身を翻した彼を、思いがけずレムリアが呼び止めた。

 彼女はちらりと一瞬、部屋の奥の長椅子で眠っている夫を見て、ダリアンに小声で言った。


「今夜はありがとう。コールが悩んでいる時は、これからも力になってあげてね」


 目を見開いて驚くダリアンに向かって、レムリアはもう一度笑顔を浮かべた。


「今の幸せがあるのも、みんなあなたのおかげよ。本当にありがとう」


 瞳を潤ませながらそう言って、彼女は静かに扉を閉めた。

 ダリアンは閉じたドアの前で呆然と立ち尽くし、そのまましばらく動けなくなってしまった。


「やはり、お見通しですよ。コール様」


 ふと我に返ったダリアンは、苦笑してそう呟き、頭を掻きながら宮殿の出口に向かって歩き始めた。





 幼い頃から、神学校で神職に就くための教育や訓練を受けてきたコールとダリアンには、「同調」と呼ばれる能力がある。

 それは、他人が持つ知識や感情を自分のことのように感じとることができる能力だ。

 今日、ギルトの思いがわかったのも、言葉として理解したのではなく、正確には同調して彼の心を感じたのだ。

 同調は、勝手に耳から入ってくる言葉とは異なり、意識して相手の心に入ろうとしなくては感じることはできない。

 また、相手も有能者の場合、心に蓋をされていれば無理やり入ることはできないのだ。

 一見、特殊な能力のように思われるが、太古には誰もが持っていた力だとも言われていて、言葉をもって伝達することを覚え、それに依存しすぎたために、多くの人間はこの能力を失ってしまったらしい。

 当然、普通に育ってきたレムリアにその能力はないはずだが、時に有能者ではないか思わせるほど、彼女は鋭かった。

 だがそれも、愛する夫にのみ発揮される、同調とは異なる能力なのだろう。

 その証拠に、コールがいくら隠そうとしても見破られるし、逆にダリアンが抱(いだ)いている密かな想いなど、彼女は全く気付いていない。


「はあ〜あ」


 深いため息を吐き出し、落ち込むダリアンの前に、突然初老の男が立ち塞がった。




 銀色の長い髪を背中に垂らし、額に濃紺に金の縁取りが施された帯を巻いた男は、忌々しげに彼の顔を見つめていた。

 ドレープをたっぷり作った純白の裾の長い衣装と、輝く太陽を模した背丈以上もある銀の杖を手にしていることから、一目見て神に仕える者であることがわかる。


「こんな時間に、このようなところで何をしておるのだ」


 つり目気味の、あご髭を生やした男は、眉間に深い皺を寄せてそう言った。


「コールガーシャ皇子のお部屋にお邪魔しておりました」


 不愉快極まりないという表情をあらわにして、ダリアンはわざと無機質な口調で答えた。


「ふん。あの女も一緒か」


 面白くなさそうに鼻を鳴らした男は、ダリアンが大切に想う者を見下す物言いをした。

 その瞬間、ダリアンは拳を固く握りしめて目の前の男を睨み付けた。


「皇太子妃殿下に向かって、あんまりな言い方ではありませんか。父上」


「ラ・ムーが許されても、わしはあの女のことを認めてはおらん。貴様が皇子に引き合わせたばかりに……」


 奥歯をギリギリと噛み締め、大神官アルデオは忌々しげに顔を歪めて息子を睨み返した。


『久しぶりに会った息子に、こんな話しかできないのかよ』


 ダリアンは心の中でそう呟いて、年に数回しか顔を合わすことのない父親の顔を、冷めた目で見つめた。

 そうして無言のまま、小さな松明だけが灯る薄暗い廊下で、親子の睨み合いは続いた。


「よいか。あの女はいつかこの国を滅ぼす。いずれお前も、身をもって知ることになるであろう」


 やがてそう言い残して背を向けた父は、回廊の闇へ静かに消えていった。

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