第十四話 決意の時
「早く逃げろ!」
鎖が切れると、アチャは東の方向を指差して、ガゼロに向かって大声で言った。
「ヴッ……」
だが、立ち上がろうとした次の瞬間、彼はうめき声をあげて、その場にうずくまった。
「ガゼロ……てめえ……」
上目遣いに老人を睨みつけるアチャの足元に、塊になった鮮血がボタボタと落ちた。
額に脂汗を滲ませる大男の震える手は、深く胸に刺さったハサミを握りしめていた。
鎖が切れて自由になった瞬間、ガゼロは忍ばせていた作業用のハサミを、アチャの心臓めがけて突き刺したのだ。
「人がいいのは命取りになる。よく覚えておけ。もっとも、今頃わかっても手遅れだろうがな」
「くうっ!!」
もう立つことさえできなくなったアチャは、どさりという音をたてて、うつ伏せに倒れた。
腰に下げていた籠から、摘みたてのトマトが転がり、そのひとつが彼の目の前で止まった。
直後、愛情を込めて育てあげたその実が無残に踏み潰され、飛び散った赤い汁がアチャの顔を汚した。
「じゃあな。自由にしてくれてありがとよ」
薄ら笑いを浮かべてそう言い残すと、ガゼロは老人とは思えない脚力で走り出した。
すると、それまで二人の様子を静観するかのように上空で停滞していた巨大鱏が、再びゆっくりと動き始めた。
「くそ! せっかく自由の身になれたのに、捕まってたまるか!」
背後に迫る銀色の物体を見上げて、ガゼロは舌打ちをした。
時折つまづき、よろめきながら走る老人の後を、巨大鱏は静かに追って行った。
「くそ!!」
音もなく迫り来る謎の飛行体に、ガゼロは不気味さを感じて足を速めた。
「?」
ふと足元まで巨大な影が伸びていることに気付き、空を見上げた瞬間、老人の視界は眩しい光に包まれた。
「うわああああああ!!」
巨大鱏の腹のあたりから垂直方向に放たれた白い光は、ガゼロの全身を一瞬で飲み込むと、再び飛行体の中へ吸い込まれていった。
その後、巨大鱏の群れは高みへ一気に上昇したかと思うと、東に向かって高速で進み始め、やがて青い空に消え去った。
その光景を見届けた直後、アチャは力尽きたように地面に突っ伏した。
「アチャ!!」
遠くに自分の名を呼ぶ仲間の声が聞こえてきたが、重くなったまぶたが彼の視界を閉ざし、いつしか意識も薄れていった。
隼はテトとともにプテラの背に乗って、農場を目指していた。
テトの父であり、農場の管理を任されているアチャが、重傷を負ったとの知らせを聞いたからだ。
プテラが完全に着地するのを待たずに竜の背から飛び降りた二人は、一目散に医務室がある管理棟へ駆けて行った。
平屋造りの建物の中は意外に広く、廊下の左右にはいくつものドアが並んでいて、どこが医務室なのかわからない。
だが隼は、人だかりができた一つのドアに目標を定めると、そこに向かって迷わずに走って行った。
「アチャ!!」
人波をかき分けて、室内に足を踏み入れた瞬間、隼の足がぴたりと止まった。
彼はそこに漂う空気の、異様な重苦しさを感じたのだ。
広い室内には、木製のベッドがいくつか並べられ、その一つに初老の男が寝かされていた。
その傍らには銀髪の男が跪き、手にした何かを横たわる男の胸に必死に押し当てていた。
「ダリアン様……もう……」
トトがそう言って、ダリアンの肩にそっと手を置いた。
それでもダリアンは、何かに取り憑かれたかのように手を動かし続けていた。
「スフェラには、怪我を治すことはできても、死人を生き返らせることはできません……」
「……」
トトの言葉を耳にした瞬間、我を取り戻したダリアンは、赤い石を握りしめた拳を額に押し付けて、ベッドの上に突っ伏した。
その悲痛な姿を、隼は立ち尽くしたまま、呆然と見つめていた。
しばらくしてダリアンをアチャのもとに残し、トトが戸口に近付いてきた。
そこで隼の存在に気付いた彼は、右手を戸口の方へ伸ばし、彼を外へと
「ダリアン様が駆け付けた時には、アチャはすでに息を引き取った後で、もう、手の
「スフェラには、怪我を治す力もあるのか?」
先ほどトトがダリアンに言っていた言葉を思い出し、隼は問いかけた。
「はい。正確にはスフェラが触れた部分の時間を早めて、治癒を早めるということらしいです。ですから、欠損した身体の一部がもとに戻ったり、時間では治せない怪我が治ることはありませんし、ましてや、死んだ人間を生き返らせることはできません」
そこまで言うと、トトは隼の背後に立つテトの顔を力のこもった目で見つめた。
「テト。君の父さんはここの責任者として、罪人の命まで救おうとしたんだよ。父を誇りに思いなさい」
目を赤くして話すトトに向かい、テトは腕で涙を拭いながら何度も頷いた。
「なのに、ガゼロのやつ。そんなアチャの命を……」
一転して奥歯を噛み締め、苦々し気な表情を浮かべたトトは、固く握った両手の拳を震わせた。
農場担当の諜報員仲間から報告を受けてここへ来た彼は、突然謎の飛行物体が現れ、その混乱の
彼が来るよりも先に、ダリアンもいち早く駆けつけたらしいが、その時すでにアチャは息を引き取った後だったようだ。
「……で、ガゼロは?」
隼の問いに、トトは目を伏せて顔を左右に振った。
「目撃者によると、その飛行物体に吸い込まれて、どこかへ連れ去られたようです」
「……」
トトの話を聞いて、隼は先日、莉香と見た飛行機らしき光の群れを思い出していた。
目撃者の証言を総合すると、今回ここに現れた物体も、ムーが存在したと言われる時代には、似つかわしくないものだったようだ。
「スフェラが触れた部分の、時が過ぎる速さが変わるということは……」
頭の中を整理しようと、考えを巡らせていた隼が、ふと顎に手を当てて呟いた。
「スフェラの光の中に包まれている間、もしかすると、ここでの時間は外界と違う速さで進んでいた……?」
隼の言っていることが理解できず、トトとテトは顔を見合わせて首を傾げあった。
「ここでの十六年が、外の世界での何千年にも値していたとしたら……」
隼は自分の想像に恐怖を感じ、喉をゴクリと鳴らした。
「今、俺たちがいるこの世界は、現代か、もしくはもっと……?」
数日後、国をあげてアチャの葬儀が執り行われ、遺体は農場の一角に葬られた。
その日、午後の講義を終えた隼は、テトと彼の父の墓参りに訪れていた。
すでに夕刻を迎え、農場で働く人々は、後片付けに取り掛かり始めていた。
そんな中、小高い丘に植えられたオリーブの樹のもとを訪れた二人は、その根元に埋められた石板の上に、真っ赤に熟したトマトを置いた。
ここはアチャが生前、作業の合間にいつも休憩していた場所だ。
農場が見渡せるお気に入りだったこの場所に、アチャの亡骸は埋められたのだ。
隼は目を閉じ、手を合わせてアチャの冥福を心から祈った。
数ヶ月間の付き合いではあったが、気さくで飾り気のない大男は、彼にとって友人であり、なんでも受け止めてくれる父親のような存在だった。
「メシア、俺、神官になるのはやめるよ」
ふと、そう呟いたテトの声に、隼は目を開いて背後を振り返った。
「俺、六人兄弟の末っ子でさ、三人いる兄貴は、みんな親父と同じ兵士になったんだ」
「……」
「でも俺は、親父の話にいつも出てくる大神官様に憧れてさ、十五になったばかりの頃、神官になりたいって言ったんだ」
「……」
「そしたら親父のやつ、すげー喜んでさ。あの方の支えになれるような立派な神官になれって、背中を押してくれたんだ」
隼の隣で膝を落としたテトは、石板に刻まれた父親の名前を、指先でそっとなぞった。
「その時親父が言ったんだ。あの方の意志は固すぎる。しなりのない枝は、限界がくればポキっと折れちまう。もっと気持ちを楽に持つか、もしくは周りの人間が束になって支えてやらなくちゃならねえって」
「……」
「だから、お前はその束の一本にでもなれるように頑張れって」
そう言って石の上で拳を固めたテトは、やがて声を殺して肩を震わせ始めた。
そんな学友を慰めるように、隼はそっと肩に手を触れた。
「でも、その時最後に親父が呟くように言ったんだ。コールガーシャ皇子さえ生きていれば、あの方はあんなに強くならなくて済んだのに……って。任務だったとはいえ、皇子の最期に携わったことを、親父はずっと悔いていたんだ」
突然、身を起こしたテトは、隼の肩を掴んで顔を近づけてきた。
涙に濡れたその瞳は、隼をまっすぐ見つめていた。
「なあ、あんたはコールガーシャ皇子の生まれ変わりなんだろ? それなら、これからはあんたが大神官様の支えになってくれよ」
「……」
戸惑いの表情を見せる隼の顔を、テトは一層目に力を込めて見つめてきた。
「俺は、親父の意志を引き継いで、この農場を守るからさ」
「……」
「もちろん、神学校はちゃんと卒業する。気象学や天文学は農業にも役立つし、神通力が使えれば、神官や軍部との連携も取りやすいだろうから」
いつしかテトの顔には、先ほどまでの悲しみの色だけでなく、将来への希望が滲みだしていた。
その顔を見てほっと息をついた隼は、心の中を浄化するように深く空気を吸い、それを一気に吐き出した。
「わかった」
隼の言葉に、テトは彼の肩を掴む手を緩めた。
「あいつから見れば、俺なんかまだまだガキだしさ、支えになるなんて言ったら鼻で笑われそうだけど。いつかそうなれるように頑張るよ」
「……」
「だから、お前もアチャの息子として恥じないように、立派にこの農場を守れる男になれ」
力強く言う隼の言葉に、テトは腕で何度も目元をこすって嗚咽を漏らし始めた。
そんなテトの隣で、隼は石板に両手をつき、そこに刻まれた文字をじっと見つめた。
(アチャ、この国と俺たちの未来を、そこから見守っていてくれ)
やがてゆっくりと立ちあがった隼は、背中を照りつけている夕日へと向き直った。
するとそこには、いつもと変わらぬ様子で、オレンジ色の光を放ちながら西へ沈みゆくラーが、彼らを静かに見下ろしていた。
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