第十九話 大神官ダリアン

 神学校の制服を身につけた青年は、下唇をきつく噛み締めて、木刀を握る手に力を込めた。

 青年のこめかみからは、じっとりとした汗が流れ落ち、唾を飲むとゴクリと大きく喉が鳴った。


 ここは神学校の講堂前にある広場。

 青年の見据える先には、銀髪の男が静かに佇んでいる。

 銀色に輝く杖を手にした壮年の男は、裾の長い純白の神官服を身に纏い、長く伸ばした銀髪を首元で一つに束ねている。

 少しつりあがったオリーブ色の瞳は、冷ややかな光をたたえ、距離をおいて立つ青年にまっすぐ向けられていた。

 緊迫した空気が漂う中、他の学徒たちは少し離れた場所から、そんな二人の様子を固唾をのんで見守っていた。


「とやー!!」


 静寂を破り、青年が雄叫びをあげて駆け出した瞬間、男の瞳が鋭く光った。


「!!」


 青年が気付いた時にはすでに遅く、杖の柄がみぞおちに深くめり込み、彼の手から離れた木刀が、乾いた音を立てて地面を転がっていった。


「ぐふぉ!」


 腰から崩れ落ちた青年は、そのまま背中で地面を滑るようにして、後方に飛ばされていった。

 それと同時に砂埃が周囲を覆い、学徒たちの眼前から二人の姿が消えた。

 しばらくして視界が開けると、そこには腹を抱えて悶える青年と、そんな彼を冷めた目で見下ろす男の姿があった。


「まだまだですね。次回までに、もっと腕を磨いておいてください」


 無表情のまま青年にそう言い残し、男は今度は顔を青ざめさせている学徒達の方へ近付いていった。


「次は誰が相手です?」


 男の呼びかけに、学徒たちは身を震わせ、左右にいる者の肘を小突いては、「先に行け」と目で促し合った。

 学友が一撃で倒される様を見て、自ら名乗り出てくるような勇気のある者はそこにはいなかった。


「では、こちらから指名しましょうか」


 微かに苛立ちを滲ませて、男がそう言った直後、広場を見下ろすように立つ尖塔の鐘が、大音響を響かせ始めた。

 授業の終了を知らせる鐘の音に、学徒たちは一斉に安堵し、男は少し不満そうに緋色の空を見上げてため息をついた。


「では、今日はここまで。各自しっかり鍛錬しておくように」






「全く、大神官様は手加減てものを知らないよな」


「だいたい、俺たちは兵士になるわけじゃないんだからさ、体を鍛える必要なんてないんだよ」


 授業を終え、講堂を後にした学徒たちは口々に師への不満を漏らしながら、神殿前の広場を歩いていた。


「親父の話では、昔、軍部のクーデターがあった時、親友だったコールガーシャ皇子を守れなかったみたいでさ。今でもそれを悔いているらしいよ」


「そんな。今は軍部も大神官様直轄の機関なんだし、もう関係ねえじゃん」


 その時、口を尖らせている青年たちのそばを、一人の少女が通り過ぎて行った。


「あ、ニーメ!」


 直後、学徒の一人が慌てて振り返り、少女に向かって大きく手を振った。

 ニーメと呼ばれた少女はびくりとして立ち止まり、おずおずとした様子で振り返ると、青年に向かって小さく頭を下げた。

 腰まで伸びたブロンドの髪はどこまでもまっすぐで、長いまつげに縁取られた大きな瞳は澄んだブルーだ。

 肩を出した白いキトンの上には、淡いグリーンのヒマティオンを羽織り、細い腰には濃紺の帯が巻かれている。

 目を見張るような華やかさはないが、よく見れば年齢不相応な落ち着きと艶っぽさが感じられる美少女だった。


「ねえ、今度一緒に町に行こうよ。最近流行りのうまい菓子を出す店があるんだ」


 茶色い巻き毛を弾ませて、青年は愛想のいい笑顔を振り撒きながら、少女のそばへ近付いていった。

 ニーメは胸の前で拳を固め、怯える瞳でそんな彼の顔を見上げていた。


「なあ、いいだろ?」


 青年が細い腕を掴もうと手を伸ばした瞬間、ニーメは大きく後ずさりして、勢いよく頭を下げた。

 そして、驚く青年の前で姿勢を戻した少女は、素早く彼に背を向けると、逃げるようにその場から走り去っていった。


「彼女を誘ってもムダムダ」


 手を伸ばしたまま、呆然と立ち尽くす青年の隣で、学友が手のひらを左右にひらひらと振ってみせた。


「巫女に恋愛はご法度だからな」


 首をうなだれて落ち込む青年の肩を、別の学友が軽く叩いて慰めた。


「それに彼女は、あの大神官様の養女だしな。下手に手を出したら、殺されるよ」





 その後、神殿内に駆け戻ったニーメは、息つく間もなく壇上のラーに向かって指を組み、目を閉じて祈りを捧げた。

 こうして祭壇に向かっていると、不思議と彼女の乱れた心はいつも安らいだ。

 元来人付き合いがあまり得意でない彼女だが、特に若い男は苦手だった。

 彼女が暮らすこの神殿内には神官が多く仕え、中には年の近い若者もいる。

 だが、神官らが彼女に対して、先ほどの青年のように軽薄な態度で接してくることはない。

 神学校は神殿に隣接しているため、外を歩いていると、時折あのように声をかけてくる学徒がいるが、そんな時いつも彼女は、恐怖が先立って何も言えなくなってしまうのだ。


 バサバサバサ!


 その時、外から大きな幕が風を叩きつけるような音がして、ニーメは閉じていた瞳を大きく見開いた。

 戸口の方へ向き直った少女は、素早く立ち上がり、勢いよく広間から飛び出して行った。

 頬を赤く染めながら、円柱が並ぶ暗い廊下を走り抜けると、赤い光が差し込む入り口が近付いてくる。

 やがてその光の中に、巨大な黒い影が舞い降りてくるのが見えた。


「おかえりなさいませ。ダリアン様」


 ニーメは肩で息をしながら、輝く瞳で翼竜の背に跨る男を見上げた。

 片手に銀色の杖を携えた男は、純白の衣装を翻し、軽い身のこなしで竜の背から地上へ降り立った。


「プテラ、ご苦労だったね」


 ダリアンがねぎらいの言葉をかけると、プテラは雄叫びをあげて、翼を大きく振り下ろした。

 そうして、神殿のはるか上空まで一気に舞い上がった翼竜は、そこでもう一度雄叫びをあげ、竜舎のある方向へ飛び去っていった。

 翼竜が赤い空に消えていくのを見届けると、ダリアンは神殿の入り口へ向き直り、杖で床を突きながら広間に向かって歩き始めた。

 ニーメはそんな彼の後ろを、遅れをとらないように小走りをしてついていった。





 広間までくると、ダリアンは祭壇の前に跪き、頭上に杖を水平に掲げて瞳を閉じた。

 はるか壇上には、黄金のラーが輝き、その足元には一本の剣が突き刺さっている。

 そして、その剣の隣にはダリアンのものと同様、先端にラーの装飾が施された黄金の杖が立てられていた。

 ダリアンに続いて、隣で膝をついたニーメも、胸の前で指を組んで目を閉じ、ラーへ祈りを捧げた。


 しばらくして、そっと目を開けたニーメは、まだ祈りを続けている男の横顔に視線を移した。

 たっぷりとドレープのかけられた純白の神官服を身に纏い、濃紺に金の縁取りのある帯を額に巻いた彼は、現在実質的にこの国を治めている大神官だ。

 同時に彼は、ニーメにとって命の恩人でもある。

 十六年前、ムーが未曾有の大災害に襲われた時、彼女を身ごもっていた母が、瀕死の状態で倒れているところを彼が救ってくれたのだ。

 母の死後、身寄りのない彼女は漁師の家に引き取られ、八つの時からは巫女となるため神殿に移り住んだ。

 以来、彼女にとって彼は、神学を教わる師であり、父親代わりでもある。

 だがいつしか彼女は、彼に対してそれ以上の感情を抱くようになっていた。


 長い祈りを終え、姿勢を戻してからも、ダリアンは祭壇上の剣を無言で見つめ続けていた。

 こんな時の彼の瞳は、いつも寂しげだ。

 あの剣は、彼の親友でもあったコールガーシャ皇子がこの国を救うため、命懸けで立てたものだと言われている。

 あの剣を見つめている時、彼はここで命を落とした親友と心で語り合っているのかもしれない。




「あの剣は、本当に誰にも抜くことができないのでしょうか」


 寂しそうな横顔を見かねて、ニーメは恐る恐る尋ねかけてみた。

 一瞬、驚いたように目を見開き、彼女の顔を見たダリアンだったが、再度正面へ向き直ると、大きくため息をついた。


「これまで幾人かの不届き者が試みてきたけれど、誰一人、微動だにできなかったよ」


 銀色の前髪の隙間から壇上の剣を見上げて、ダリアンは吐き捨てるように言った。


「あれは、救世主メシアにしか抜けないのだよ。コールガーシャ様の生まれ変わりであるメシアにしか」


 そう言った彼の瞳は、遠い憧れの人に想いを馳せているかのように切なげだった。

 大神官である彼はその名の通り、この国で最も能力の高い神官だ。

 それだけではない。

 軍部を統括するカスコ将軍が一目おくほど、剣の腕も優れているという。

 また、大災害によりほぼ壊滅状態であったこの国を、今日こんにちある姿にまで復興させた彼の手腕を讃え、敬う者も多い。

 そんな彼がここまで敬愛するコールガーシャ皇子とは、どれほどの人物だったのか、ニーメには想像することすらできなかった。


「そんなに素晴らしい方だったのですか? コールガーシャ様は」


 王家が滅んで以来、名実ともに彼を王にと求める声は少なくない。

 だが彼は、一貫してそれを拒み、大神官であり続けてきた。

 彼は今でも、いつの日かラ・ムーがこの地に戻ってくると信じているのだ。


「愚問だな。ニーメ」


 眉をひそめてそう言い、ダリアンは少女を一瞥した。


「……」


 恥ずかしさと悲しさに瞳を潤ませる彼女に背を向けて、ダリアンは無言のまま広間から去っていった。

 祭壇の前で立ち尽くす少女の耳に、銀の杖が石の床を突く音が冷たく響き、やがて戸口の向こうに消えていった。

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