第二章

第一話 青い瞳の少年

 現代。

 日本。

 地方都市A市。


 安っぽい合成音のジングルベルが夜の街に鳴り響く。

 街頭では、ミニ丈のサンタ服を身につけた若い女たちが、クリスマスケーキの最後の売り込みに向けて、通行人の足を止めようと手にしたベルを盛んに鳴らしていた。

 大都会に比べればやや寂しいイルミネーションを、手をつないだカップルたちが、笑顔を浮かべて見上げている。

 定期的に駅から吐き出されてくるスーツ姿のサラリーマン達は、大きな包みを抱えて家路を急いでいた。


 そんなそれぞれのイヴを過ごす人々で賑わう駅前の広場を、白い息を吐きながら一人の少年が行き過ぎていった。


「ちょっと、やだ。今の人、かっこよくない?」


 すれ違いざま、制服姿に長いマフラーを巻いた少女が顔を赤らめて振り返った。

 彼女と並んで歩いていたもう一人の少女も立ち止まり、友人が熱い視線を送る少年の後ろ姿を目で追った。


「ああ。あの人には関わらないほうがいいよ」


「え? なんで?」


 名残惜しそうに、少年の方を何度も振り返る少女の袖を引きながら、友人は「行くよ」と促した。


「彼には今まで何人も泣かされてんの。最低なんだよ。アイツ」





 イヴに浮かれる人々の群れの間を縫うように、少年は広場を見下ろす大型ビジョンに向かっていた。

 最近では珍しい黒い詰襟の制服は、この町では誰もが知る進学校のものだ。

 くせのない漆黒の髪は、襟足は短めだが、前髪はやや長く、目元に影を落としている。

 髪で目を隠されているせいか、高く通った鼻筋と、無駄のないシャープな顎のラインが一層際立って見えた。

 とりわけ背が高いわけではないが、すらりと伸びた長い足が行き過ぎる人々の目を引き、振り返った者は前髪の隙間から覗く瞳の色を見て、今度は思わず足を止める。


「カラコン? それともハーフ?」


 立ち止まった者達は皆、驚きに満ちた顔をしてそう呟き、首を傾げる。

 周りの者全てを敵にまわしているかのような、鋭い光を放つ彼の瞳は、グレーがかったブルーだった。




しゅん!」


 少年が大型ビジョンのそばへ近付くと、人の群れの中から一人の少女が飛び出してきて、勢いよく彼の腕に抱きついた。


「遅かったじゃん! 無茶苦茶寒かったんだから!」


 髪を茶色に染め、ハーフコートの下にミニ丈の制服を着た少女は、そう言って頬を膨らませた。

 だが、隼と呼ばれた少年は悪びれた様子もなく、そんな少女を冷めた瞳で見下ろしていた。


「クリスマスイブの夜、皆様いかがお過ごしでしょうか。6時のニュースをお届けします」


 その時、大型ビジョンに映った女性キャスターの澄んだ声が、冷え切った夜空に響き渡った。


「本日はまず、世界からイヴの様子をお届けします」


 キャスターがそう口にした直後、画面が切り替わり、大勢の子ども達に囲まれて笑顔を見せる、金髪の美しい女の姿が映った。


「ハリウッド女優のリズ・テナーさんは、今年もアメリカ各地の孤児施設を訪問し、子ども達にクリスマスプレゼントを配っています」


「あ、あれ、隼のお母さんだよね?」


 少年の腕に抱きついたまま、少女は画面を指差して目を輝かせた。


「テナーさんはプライベートでも、身寄りのない少年を養子に迎えて育てていらっしゃるんですよ。なかなか真似の出来ることではありませんね」


 画面が再びスタジオに切り替わり、コメンテーターとして席を並べる中年の女流作家が、得意げに解説を始めた。


「ご主人は、古代生物学の研究で知られる矢沢博士ですよね。お二人の養子である少年は、現在博士の母国である日本に留学中だそうですし、何かと我々日本人にも馴染みのある女優さんですね」


 女流作家はこの日のために情報を仕入れてきたらしく、淀むことなくペラペラと話を続けた。


「あ、隼のことも言ってるよ」


 ドヤ顔で口を動かしている和服姿の女を指差して、少女は嬉しそうに何度も組んだ腕を弾ませた。


「お父さんも有名な学者さんなんでしょ? この前特番に出てるの見たよ」


 その瞬間、隼は少女の腕を払いのけて、小さく舌を鳴らした。


「オカルト好きの、ただのヒモだよ」


 吐き捨てるようにそう言い残し、少女に背を向けた少年は、もと来た道を歩き始めた。


「ちょっと! 待ってよ! 何怒ってんの?」


 人波をかき分け、慌てて彼の後を追った少女は、少年の腕を強く掴んだ。


「別に怒ってねえよ。くだらねえおしゃべりしてねえで、さっさとヤらせろってんだよ」


 少女に背を向けたまま、隼は冷たく言い放った。


「何それ? イヴなのに、デートも無しにいきなりそれ?」


 怒りに顔を赤く染めた少女は、少年の正面に回り込み、詰襟の胸元にこぶしを叩きつけた。


「イヴだろうが関係ねえよ。溜まってたところにお前から連絡があったから出てきてやったんだ。その気がねえなら、もう帰るよ」


 見下すように言う少年を見上げて、少女の手はふるふると震え、瞳から涙が溢れ出した。


 パアーン!


 次の瞬間、イルミネーションが輝く夜空に、乾いた音が響き渡った。


「さいってい!!」


 少年の頬を叩いた手を掲げたまま、少女は震える声でそう言い捨てると、素早く身を翻して駆け出した。

 何事かと周囲の大人たちが振り返る中、隼は無表情のまま、人ごみにまみれていく少女の後ろ姿を見送った。


「めんどくせ」


 少女の姿が見えなくなると、少年は軽く舌を鳴らし、再び広場に背を向けて夜の町を歩き始めた。




 つまらなそうに口元を歪めながら、隼は交差点で立ち止まった。

 そんな彼の横顔を、歩道で信号待ちをする人々が、またチラチラと盗み見してくる。

 この町のどこを歩いていても、彼の容姿と青い瞳に、人々の好奇に満ちた視線が注がれてくる。

 まるで異物を見るような彼らの視線に、彼はいい加減飽き飽きしていた。

 そしてそんな視線を跳ね返すかのように、睨むような目で、夜空に赤く滲む灯火を見上げた。


 その時、上着のポケットの中で携帯電話が震え、着信を知らせた。

 日頃、彼の携帯が鳴ることはほとんど無い。

 あるとすれば、適当に欲望を満たし合える女たちからのものだけだ。

 新しい相手が見つかったかと、一瞬期待した彼だったが、液晶画面に表示された名前を見て思わず眉をひそめた。


 水里 たもつ


 信号が青に変わり、周りの人々が一斉に歩き始めても、隼は立ち止まったまま、黒い画面に浮かび上がる白い文字をじっと見つめていた。





「隼! 久しぶりだね」


 指定された喫茶店へ赴くと、ブレザー姿の人の良さそうな少年が、奥の窓際にある席で立ち上がり、彼に大きく手を振った。

 紺地の襟に緑の縁取りがある制服は、全国的にもトップクラスの偏差値を誇る、隣町の私立高校のものだ。


 田舎町にありがちな、昔ながらの喫茶店。

 使い込まれた飴色のインテリアが、黄色く光るランプの下で、年季の入った木目を浮き上がらせていた。

 店内はイヴを共に過ごすため、ここを待ち合わせ場所にしているらしいカップル達で賑わっていた。

 木の床に靴音を響かせながら、隼は黙って店の奥まで歩みを進め、少年と向かい合う席に腰を下ろした。


「珈琲」


 水を運んできたウェイトレスに、間髪入れずにそう伝えた彼は、背もたれに深く背中を預けて足を組んだ。

 トレーを胸に抱いた若いウエイトレスは、そんな彼の方を何度も振り返り、顔を赤くしながら去っていった。


「中学卒業以来だから、もう半年以上経つね。元気にしてた? 高校は楽しい?」


 彼が席に落ち着くのを待っていたかのように、気の弱そうな細身の少年、水里保は矢継ぎ早に近況を訊ねてきた。


「学校は、今日やめた」


 面白くなさそうにそう吐き捨てながら、隼は保の隣に彼と同じ高校の制服を着た少女が座っていることに気がついた。


「やめた? なんで?」


「もともと学力も伴わないのに、あの義母おばさんが金を積んで無理やり入れたんだ。学校むこうは有名人の息子が通ってるってことで宣伝に使いたかったみたいだけど、馬鹿らしいからやめた」


「だからって、高校やめて、これからどうするんだよ?」


 将来を案じて声を荒げる保の隣で、少女はただ静かに隼の顔を見つめていた。

 磁器のように白く滑らかな肌に、薄紅色に染まる艶やかな唇。

 緩やかに波打つ漆黒の長い髪は、抑えられた照明のもとで妖艶に輝いていた。

 この辺りでは稀に見る美少女には違いないが、それ以前に隼の視線は、彼女の瞳から逃れられなくなっていた。

 長い睫毛に縁取られた少女の大きな瞳は、純度の高いエメラルドのように、どこまでも澄んだグリーンだったのだ。


「女?」


 ウエイトレスがカップを置く音に我に返った隼は、上目遣いに保を見つめて言った。

 すると保は、慌てて手にしていたカップを皿に戻し、胸の前で広げた手のひらを激しく振って否定した。


「ち……違うよ! 彼女は、クラスメイトの珠仙しゅぜん莉香りかちゃん。君の話をしたら、会ってみたいって言うから連れてきたんだ」


(珠仙……?)


 一瞬、その名に聞き覚えがあるような気がしたが、心当たりには至らず、隼は諦めてカップを口に運んだ。

 ふと、カップ越しに保の方へ目を向けると、彼は顔を真っ赤にして、コップの水を一気に飲み干していた。

 今にも火を噴き出しそうな少年の顔を見て、隼は思わず鼻でくすりと笑った。

 一目見ただけで、保がこの少女に好意を抱いていることが明らかだったからだ。


「会ってみたい? ちょうどさっき女と別れてきたから、今ならフリーだぜ」


 にわかに、中学時代の同級生をからかってみたいという衝動にかられた彼は、テーブルに身を乗り出して莉香に迫っていった。


「ちょ! 隼!」


「ホテルに行くか? それとも俺一人暮らしだし、部屋に来ても構わねえよ」


 焦りと怒りで顔を真っ赤にしている保を横目に、隼は莉香の耳元に口元を寄せて囁いた。

 そんな彼の吐息交じりの言葉を、莉香は無表情のまま、微動だにせずに聞いていた。


(ふん。澄ました顔をしていても、腹の中は……)


 他の女たちとは異なる彼女の反応に、若干戸惑いを感じながらも、隼は眉間に意識を集中させた。


(……え?)


 いつもであれば、これで相手の心の中を読み取ることができるはずだった。

 言葉や態度で拒んでいても、たいていの女は、心の中では彼との進展を期待しているものなのだ。

 だが、目の前にいるこの少女の心は、いくら覗こうとしても硬い蓋で閉じられているかのように、全く彼の意識を寄せ付けなかった。


(何なんだ。こいつ……)


 初めての経験に隼は焦りを覚え、青ざめた顔で少女を見つめた。


「矢沢くん。あなたって最低ね」


 緑色の瞳をした少女は、軽蔑の眼差しで間近に迫る少年の顔を見つめた。


「こんな人が唯一の肉親だなんて、がっかりだわ」


「……肉親?」


 少女の口から出てきた思いがけない言葉に、隼は目を見張った。

 怪訝げに眉をひそめる彼の前で、莉香はアールグレイの満たされたカップを持ち上げ、軽く縁に唇を押し当てた。

 そうして小さく喉を鳴らし、一息ついた少女は、再び隼の顔を真顔で見つめた。


「十六年前、チベットの高地に暮らす少数民族の男が、雪山で赤ん坊を保護した」


「……」


「噂を聞きつけた矢沢博士は現地に赴き、その赤ん坊を自宅のあるアメリカに連れ帰り養子とした。その赤ん坊があなたね?」


 彼女の口から語られたことは事実だった。

 だが、彼が矢沢氏の養子であることは公然にされていても、そこまでの経緯いきさつを知る者は、ほとんどいないはずだった。


「けれど、その時保護された赤ん坊は、実はあなた一人ではなかったのよ」


 再びカップを口元に近付けながら、少女は瞳を閉じて淡々と話を続けた。

 その口ぶりや表情は、同年代の少女とは思えないほど大人びていた。


「双子と思われる男女の赤ん坊の、片割れが私ってわけ」


「……へえ」


 隼は驚きを隠すように鼻から息を吐き出し、少女の顔を青い三白眼で凝視した。

 二人の間に流れるただならぬ空気を感じて、保が恐る恐る話に入ってきた。


「以前、君は冗談めかしてだけど、雪山で保護されたって言ってたし、彼女の話が作り話だとも思えなくてね」


「それで今日、生き別れになっていた双子の、感動的なご対面となったわけだ」


 再び鼻で笑った隼は腕を組み、背もたれに仰け反るようにもたれかかった。

 横柄さが感じられる彼の態度に、莉香も呆れたように大きくため息をついた。


「それに関しては正直、感動より落胆の方が大きかったわね。唯一の肉親が、まさかこんなひねくれ者だなんて……」


 彼女が最後まで話し終わるのを待たずに、隼は椅子から立ち上がり、テーブルに千円札を叩きつけた。


「目的を果たせたなら、もう帰るよ。嘘だとしても、血が繋がっていると聞いたら萎えちまったし」


「え? あ、隼!」


 背を向けて戸口へ歩いていく少年を、保は慌てて立ち上がり、追いかけようとした。

 だが、莉香をここに一人で置いて行けないと思い直した彼は、落ち着かない様子で再び椅子に腰を下ろした。





「その……これで良かったのかな?」


 店から出て行く隼の姿を見届けると、空になったティーカップを見つめて黙り込んでいる少女に向き直り、保は遠慮がちに尋ねた。

 彼女の希望を叶えてやりたいと旧友を呼び出した彼だったが、予想外の結末に後味の悪さを感じていた。

 不安げに表情を曇らせている少年に、少女は思い直したように顔を持ち上げて笑顔を見せた。


「ありがとう。保くん。彼に会えてよかったわ」


 莉香はそう言って、傍らの窓に視線を移した。

 彼女が見つめるガラスの向こうには、乱反射するイルミネーションの中、肩で風を切り、人波にまみれていく少年の後ろ姿があった。

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