第二話 白い石
「なんなんだよ。あの女」
隼は、ぶつぶつと呟きながら、人気のない裏通りを歩いていた。
駅前の通りから一歩路地に入ると、クリスマスの賑わいは一気に遠去かり、さびれたシャッター街が続く。
「むかつく」
苛立ちをぶつけるように、風が転がしてきた空き缶を思いきり踏み潰す。
白い息を吐きながら、古びたビルの合間から夜空を見上げると、ぼんやりとした月が浮かんでいた。
『矢沢くん』
その時、覚えのある女の声がどこからともなく聞こえてきた。
慌てて周囲を見回してみたが、彼以外に通りを歩いている人間は、誰一人見当たらなかった。
『驚くことないじゃない。あなたにもこの能力があるんでしょ?』
その声は、先ほど水里保と共に喫茶店にいた、
だが、少女の姿はどこにも見当たらない。
どうやら彼女は、彼の中に直接語りかけてきているようだ。
『まだ何か話足りなかったことでもあるのかよ』
隼は小さく舌打ちをして、仕方なく彼女と同じ心の声を使って問い返した。
『そうね。今、駅で保くんと別れたから、これからそっちへ行くわ』
『お前、何が目的なんだよ』
遠回しにそこで待ってろと言う梨香に、隼の苛立ちはますます大きくなった。
どうもこの少女相手だと、向こうのペースに乗せられている気がして面白くない。
『私たちと一緒にいたネフィリムのこと、あなた何か知らない?』
『ネフィリム?』
彼女の口から出てきた言葉を耳にした瞬間、隼は思わずその場に立ち止まった。
『雪山で赤ん坊が見つかったからって、わざわざアメリカからチベットの奥地まで行く? 矢沢博士は、伝説の巨人ネフィリムが実在したと唱えている学者でしょ? ネフィリムが連れていた赤ん坊がいるとの噂を聞きつけて、彼ははるばる現地まで赴いたのよ』
『……』
『そしてその時、私の養父も博士に同行したの』
彼女の話を聞いて、隼はようやく珠仙という名について思い出した。
アメリカの実家にある義父の書斎の本棚に、著者として背表紙にその名が記された書籍があったのだ。
珠仙氏は確か、日本の大学で教鞭をとる教授のはずだ。
同時に矢沢氏同様、伝説上の生き物、
「博士と
ふと、直接耳に響いてきた声に、隼は背後をかえりみた。
するとそこには、紺色のコートを着て、ピンクのマフラーに口元を
「なるほど。あんたは、
隼はそう言って鼻で笑い、上目遣いに少女を睨みつけた。
「残念ながら、俺は八つの時から
「……」
「つまりさ、あんたと俺の
忌々しげに眉をひそめて語る彼の話を、莉香は黙って聞いていた。
そんな彼女を見つめる瞳に、隼はさらに力を込めて話を続けた。
「ネフィリムなんて、幽霊や宇宙人と同じ。オカルト番組でネタにされるだけの、くだらねえ研究なんだよ。とどのつまり、俺たちは単に雪山に捨てられた捨て子だった。
捲したてるようにそう言い放つと、隼は莉香に背を向けて、早足で歩き始めた。
「待って!」
大通りに向かっていく隼の背中に、莉香の叫ぶような声が響いた。
その声を無視してなおも歩き続ける彼の背中を、彼女は追いかけて腕にしがみついた。
「これに見覚えはない?」
隼が驚いて立ち止まると、莉香は素早く彼の正面に回り込み、すかさずコートのポケットからリング状の金属を取り出して見せた。
直径が十センチ程度の銀色に光るリングは、輝く太陽を
その大きさから、一見アンティークの腕輪かとも思ったが、正面に白い石が埋め込まれており、形状としては巨大な指輪のようだった。
「
莉香は真剣な眼差しでそう言い、隼の目の前にリングを突きつけた。
水晶の原石のような、六角柱の白い石は、よく見ると透明の石の中に白い
一度はまじまじとその石を見つめた隼だったが、しばらくして大きなため息をつくと、肩に手をかけて彼女を後方へ押しのけた。
「指輪風にデザインされた腕輪かオブジェじゃねえの? 見たところまだ新しそうだし。大昔に絶滅したと言われているネフィリムの指輪と言うには無理があるよ」
面倒くさそうにそう言って歩き出した彼の前に、再び莉香が立ち塞がった。
「この指輪には、羊毛と思われる繊維が付いていたの。そのDNAを調べたら、現存する羊のどの型にも一致しなかったのよ」
「いい加減にしろよ!」
次の瞬間、隼は怒鳴り声を上げて少女を壁ぎわへ追い込み、彼女の顔の左右に両手をついた。
「
苛立ちに任せて声を荒げる少年を、莉香は恐怖にこわばらせた顔で見上げていた。
隼は少女の足の間に膝を強引にねじ込み、顔を近付けて怯える瞳を凝視した。
「俺とあんたが双子だなんて、今この場で証明するものなんて何もない。これ以上つきまとうってんなら、このまま襲っちまってもいいんだぜ」
間近に迫る少年から逃れようと、莉香は素早く顔を背けた。
それにより露わになった彼女の首筋に、今度は荒々しい息がかかった。
「いや!!」
叫ぶような声をあげて、莉香はリングを握った手を隼の胸に当てて、力一杯押し返した。
「!?」
銀色のリングが胸に触れた瞬間、隼の目に映る景色が一変した。
暗い路地裏にいたはずの彼は、気がつけば太陽が眩しく照りつける、白い石畳の上に立っていた。
驚いて目を見開き、立ち尽くす彼の周囲を、様々な情景が走馬灯のように駆け巡り始めた。
古代ギリシャの神殿を思わせる、大理石の円柱に取り囲まれた白亜の建物。
街の隅々にまで行き渡る、二層のアーチが美しい水道橋。
やがてそれは、次第に視覚だけでなく、耳からも感じられるようになっていった。
尖塔の鐘が鳴り響き、それと同時にドーム状の建物から、制服らしき揃いの衣を身に纏った青年たちが溢れ出てくる。
彼らと同じように建物を後にすると、背後から一人の青年が近付き、軽く肩を叩いてきた。
彼の顔はぼやけてよく見えないが、銀色に輝くその髪には覚えがあるような気がした。
手を合わせて何かを必死に懇願する青年を前に、呆れながらも額に手を当てて何かを呼び寄せる。
二人で青い空を見上げていると、間もなく翼を持った竜が現れ、彼らの足元に巨大な影を落とした。
青年と共に背に跨ると、翼竜は翼を大きく振り下ろし、大空へ一気に舞い上がった。
背後から青年が楽しげに話しかけてくるが、何を言っているかは聞き取れない。
だが、彼と過ごすこの時間を、自分が心から楽しんでいることだけはわかった。
空から見下ろす町並みは、古代ローマのそれのように道路が整備されていて、彫刻が施された石造りの建物はどれも美しい。
翼竜に乗った二人に気がついた街の人々は、大人も子供も、男も女も、皆笑顔を浮かべて空を仰ぎ、手を振ったり、頭を下げて彼らを見送っている。
そう。
この街と、ここに暮らす人々のことが、自分は大好きで、そして何より大切だった。
そのまま飛行を続ける彼らの前方に、小高い丘が見えてきた。
丘の
金色に波打つ髪を風にそよがせ、眩しい笑顔を浮かべている彼女は、何か語りかけているようだ。
『お か え り な さ い』
銀髪の青年同様、彼女の顔も不鮮明でよくわからないが、愛らしい唇がそう動いたような気がした。
そして、なぜか彼女のことを思うと、切なさが痛みを伴って胸にこみ上げてきた。
女の隣に視線を移すと、そこには建物の屋根にも届きそうな、巨大な生き物が立っていた。
金色の巻き毛をした巨大な少年は、嬉しそうに手のひらを差し出し、聞こえない声でここへ来いと言っている。
その呼びかけに大きく頷いた彼は、竜の背から巨大な手に降り立ち、少年の顔を見上げて言った。
『×××、スフェラをここに』
「スフェラ……」
「矢沢くん?」
突如、頭を抱えてうずくまった少年の肩に、莉香は恐る恐る手で触れた。
「きゃ!」
その瞬間、隼は銀色のリングを莉香の腕ごと掴み上げた。
身を硬くする少女の前で、隼はリングに埋め込まれた白い石を取り憑かれたような目で見つめていた。
「矢沢……くん?」
莉香のことなど目に入っていない様子で、隼は片手で彼女の腕を掴んだまま、空いた方の手を口元に近付けると、いきなり人差し指の背を歯で掻っ切った。
「ちょ! 矢沢くん?!」
顔を青ざめさせる莉香の腕を強引に引き寄せて、隼は指から滴る赤い血を白い石の上から垂らした。
ポタリ……
指から落ちた血はみるみる石に吸い込まれ、白かったそれは次の瞬間、燃えるような緋色に変化した。
「矢沢くん!」
莉香が腕を掴んで強く揺さぶると、初めて我を取り戻したかのように隼はハッと息をのみ、呆然と見開いた目で彼女を見下ろした。
「お……れ?」
直後、莉香の手の中のリングが赤い閃光を放ち始めた。
「なに?」
突然光り始めた石に恐怖を感じ、莉香は思わずリングから手を離した。
カラーン
アスファルトの地面に落ちた銀のリングは、軽い音を立てて跳ね上がると、さらに強烈な光を放った。
薄闇に包まれていた路地裏は瞬く間に赤く染まり、二人の足元からは突風も吹き始めた。
「キャー!!」
とぐろを巻くように吹き上げる風に、莉香の長い黒髪が空に向かって舞い上がり、彼女は思わず隼の胸にしがみついた。
身を縮めて強風に耐える彼女の体を、隼も風に煽られながら、無意識のうちに庇うように強く抱き締めていた。
天に向かって勢いよく巻き上がる風は、赤い光を巻き込み、二人の体を足元から徐々に包み込んでいった。
激しく渦巻く光と風の中で、二人は目を開けることもできず、互いに固く抱き締め合った。
二人を飲み込んだ赤い光は、光量を強めながら白く変化していき、眩しく輝く光の玉になった。
その後大きく膨らみ始めた白い玉は、ある大きさまで達すると、今度は徐々に小さくなり始めた。
閃光を自身の中へ取り込むように縮小していった光の玉は、やがて小さな白い点となり、間もなく路地裏の闇に消え去った。
そして、薄暗い路地裏は、何事もなかったかのように元の静けさを取り戻した。
大通りでは相変わらず賑やかなクリスマスキャロルが流れ、彼らが路地裏の闇に消えたことに気付いた者は誰一人いなかった。
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