第十一話 テオス
「ダリアンさんって、絶対に私と目を合わせないよね」
そうつぶやく悲しげな莉香の顔が、瞼に浮かんできた。
『私ね。あなたのことが好き』
あの日、幻影の姿で現れた彼女は、秘めていた想いを口にした。
『
『あなたの目に映る私が、レムリアの幻でもいいの』
いつも明るく笑っている印象が強い彼女なのに、なぜかダリアンの前で見せる顔は淋しげで、今にも泣き出しそうなものばかりだった。
『幻影でのキスだから、許してね』
ダンッ!!
机を両手の拳で思い切り叩きつけて、ダリアンは書類が散らばる卓上を見つめた。
ハア……ハア……
目を閉じて、荒い息を吐く彼の肩から、白い煙のようなものが立ち上り始める。
それは徐々に濃度を増しながら人型を成してゆき、やがて、もう一人のダリアンが現れた。
体が透け、淡い光を放つ幻影のダリアンは、机の前に座る己の実体に指先で軽く触れた。
その瞬間、実体は力が抜けたように、机の上へ突っ伏した。
「彼女を探しに行くのですか?」
ふと、背後から声がして振り返ると、腕組みをしたカスコが、戸口に寄りかかって彼を見つめていた。
『……』
幻影のダリアンは言葉には出さなかったが、意志のこもった瞳がカスコの問いを肯定していた。
「ダリアン様、あまり遠くに行き過ぎると、実体に戻れなくなります。どうか、無理をなさらずに……」
カスコの陰から顔を出してきたトトが、不安げにそう言うと、ダリアンはゆっくりと頷いてみせた。
そして、トトの傍らに立つ隼に気がついた彼は、少年の顔をまっすぐ見つめた。
『私の留守中、この国をお願いします』
思いがけない言葉に、一瞬戸惑いを見せた隼だったが、間も無く心を決めて大きく頷いた。
ダリアンはそれを見届けると、表情を固めて窓の外の空を見上げた。
彼が両手を広げると、閉じていた窓が開き、外から強い風が吹き込んできた。
吹き荒れる風を腕で防ぎ、薄く開けた隼の目に、風に逆らって窓の外に飛び出していくダリアンの幻影が見えた。
しばらくして風がおさまり、隼が窓辺に駆け寄って空を見上げると、光の玉となったダリアンは天に向かって上昇してゆき、やがて雲の
「あーあ、キレちまったなあ」
窓辺に手をかけて空を見上げる隼の背後で、カスコがため息まじりに言った。
「ええ、キレちゃいましたね」
大男の言葉に何度も頷きながら、トトもそう言って大きなため息をついた。
「キレ……た?」
眉をひそめて振り返る隼の前で、二人は顔を見合わせて苦笑した。
「もう、ああなったら、誰にもあの方を止められません。無茶するなって言っても、絶対にします」
ため息まじりにそう言うカスコに同調して、トトも再びウンウンと頷いた。
「いざという時には、あなたが責任を持って止めてくださいよ、メシア」
「ええ? 俺が?」
目を見開く隼に、トトが真顔に戻って言った。
「コール様の生まれ変わりであるあなたの言葉なら、聞く耳を持つかもしれませんから」
『莉香!』
ダリアンは、同調で少女の名を呼びながら海上を飛行していた。
微かに残る莉香の気配を頼りに、もう何時間も飛び続けてきた彼だったが、少し前から意識が遠退き始めていることに気がついていた。
幻影とは、意識を視覚化したものだ。
つまり、その元は実体にある。
そのため、実体から離れるほどに意識は薄れ、限界を過ぎて途絶えてしまえば、元の体に戻れなくなるのだ。
『そろそろ限界か……』
ダリアンは悔しそうに唇を噛み締めて、眼下に広がる海原を見渡した。
『莉香!!』
せめてあと少し……と、途切れそうになる意識をなんとか繋ぎとめながら、さらに距離を伸ばす。
だがやはり、彼の呼びかけに莉香が答えることはなかった。
諦めて引き返そうとしたその時、覚えのある気配が背後から近付いてくるのを感じた。
『ダリアンさん!!』
聞き覚えのある同調の声に、ダリアンははっと振り返った。
すると、莉香の幻影が海上を滑るように飛んでくるのが見えた。
『莉香!?』
両手をいっぱいに広げて、莉香はダリアンの胸に勢いよく飛び込んできた。
『ダリアンさん、もしかして私を探しに来てくれたの?』
莉香はダリアンの首に両腕を巻きつけて、声をあげて泣いた。
『あなたが呼ぶ声が聞こえたから、飛んで来ちゃった』
しがみついて泣きじゃくる彼女の体を、ダリアンも強く抱き返した。
『莉香……』
震える黒髪に顔を埋めて、ダリアンは彼女へ対する自分の想いを改めて思い知った。
この胸に広がる愛しさは、親友の娘へ対するものでも、昔愛した人の面影へ対するものでもなく、紛れもなく彼女自身へ向けられたものだった。
そしてそのまま、彼らは果てしなく広がる海原の上空で、強く抱きしめあった。
『莉香、あなたは今どこにいるのです?』
しばらくして、莉香の肩を掴んで体を離したダリアンは、彼女の顔を覗き込むようにして尋ねた。
莉香はしゃくりあげながらも、涙を手の甲で拭いて、ダリアンの顔を見上げた。
『わからない。どこかの地下の窓もない、真っ白な小さな部屋に閉じ込められているの』
彼女の身の上を案じて表情を曇らせるダリアンに、莉香は微笑んで見せた。
『でも大丈夫。相手は私の血が必要なんだから、殺しはしないはずよ』
そう言うと、莉香はダリアンの胸に頬を寄せて、彼の背中に腕を回した。
『あなたをさらって行った男は何者なんですか?』
怒りに震える心を押し殺してダリアンが再び尋ねると、莉香は小さく首を左右に振った。
『わからない。突然、ムーの人々を救いたいならスフェラを持ってくるようにと、頭の中に直接話しかけてきて……。名前を聞いたら、テオスと呼べって言われたけど……』
『テオス……』
奥歯を噛みしめて、ダリアンは彼女をさらっていった男の名を反復した。
莉香は、そんな彼の背中に回した手にそっと力を込めた。
『私とスフェラさえあれば、テオスはムーに用はないと言ってるの。矢沢くんが予想していたとおり、今いるこの世界はあなたたちがいた時代のはるか後世みたい。まともに戦ってもかなう相手ではないから、私のことはもう探さないで』
『莉……!』
ダリアンの口から出かけた言葉を、莉香が手でそっと遮った。
『私は、あなたがここまで来てくれただけで十分幸せ。ありがとう』
涙をこぼしながら無理に笑う莉香を、ダリアンは強く抱き寄せた。
一瞬驚いて硬直した莉香だったが、間も無く全身の力を抜いて彼に身を委ねた。
そのまま二人は、言葉には出さずに互いの想いを確かめあった。
『必ず、あなたを助け出す』
再び体を離したダリアンは、真剣な目で莉香を見つめて言った。
そんな彼に、少女は悲しげに小さく笑っただけで、何も答えなかった。
『もう、行かなきゃ。実体から意識が抜けていることがわかったら、テオスが怪しむわ』
少しの間をおいて、ダリアンの胸を押し返した莉香は、そう言って彼に背を向けた。
『莉香!!』
咄嗟に伸ばしたダリアンの指先で、莉香の幻影は煙のように消えた。
深夜、隼とトトはベッドに横たわるダリアンの実体を見つめていた。
「遅いですね……」
トトはゆっくりと立ち上がると、窓辺へ移動して不安げに夜空を見上げた。
そんな、彼の呟きには答えずに、隼は死んだように動かないダリアンの横顔を見つめ続けていた。
今朝、幻影になって莉香を探しに行ったダリアンは、深夜になった今もまだ戻っていなかった。
「あ」
小さく叫ぶトトの声に、隼が窓の方へ振り返った瞬間、光に包まれた物体が部屋の中へ飛び込んできた。
まぶしさに思わず目を閉じた隼だったが、間も無くして光がおさまり、ゆっくり目を開けてみると、床の上にダリアンの幻影が倒れていた。
「ダリアン!」
慌てて抱き起こそうとした隼だったが、その手は何の手応えも感じないまま、ダリアンの体を通り抜けた。
「メシア、幻影には触れられませんよ」
そう言ってトトは、実体のダリアンの枕元に行き、彼の上半身を抱き上げて、隼にも手を貸すように目で促した。
思い出したように頷いた隼は、トトとともにダリアンの実体をベッドから降ろし、幻影の隣に寝かせた。
するとダリアンの幻影は、砂像が崩れるように分散しながら、徐々に実体に吸い込まれていった。
はっとダリアンは目を開いて、周囲を見回した。
そこに見えたのは、見慣れた自分の寝室の天井や壁だった。
「気がついたか」
声がしたほうへ顔を向けると、松明の明かりを背中から浴びる隼の顔があった。
逆光の中で彼は、難しい顔をしてダリアンの顔を見下ろしていた。
「メシア……」
「いったいどこまで行ってたんだよ。そんなに意識をすり減らすほど無茶しやがって」
「……」
その表情と言葉から、彼が心底自分のことを心配していたことを知り、ダリアンは熱くなりかけた目頭を隠すように視線をそらした。
「珠仙には……」
「会えましたよ」
「!!」
息をのむ隼に向き直り、ダリアンは唇をきつく噛み締めた。
「やはり、ムーは未来へ来てしまったようです。幻影の彼女が言っていました」
「幻影……」
彼の言葉から、莉香の実体に会うことは叶わなかったのだと悟り、隼は肩を落とした。
「我々にかなう相手ではないから、自分のことはもう探さないでほしい。彼女はそう言っていました」
「……」
再び隼から視線を外して、ダリアンは窓の外に広がる夜空を見上げた。
「そんなこと、できるわけがないじゃないですか」
「……」
「何としても、必ず助け出します」
力強くそう言うダリアンを、隼も決意をこめた目で見つめていた。
「おかえり」
「!!」
目を開くと、テオスがベッドに横たわる莉香の顔を覗き込んでいた。
「君はいろいろ能力が使えて厄介だな」
恐怖に震える莉香から視線をはずして、テオスは大きなため息をついた。
「……で、好きな
テオスの言葉から、莉香は彼には隠し事が通用しないことを悟った。
「……どうして、私が幻影を使えることを知っていて、自由にさせたの?」
ゆっくりと振り返ったテオスは、柔和な笑みを浮かべて莉香の顔を見た。
「だって、実体がここにある限り、君はどこにも行けないだろ?」
「……」
「できれば心もここにいて、僕だけを見つめてほしいけどね」
ベッドの上に腰掛けて、身を乗り出してくるテオスに、莉香は思わず身を硬くした。
そんな彼女に、テオスはさらに鼻先が触れるほど顔を近づけてきた。
レモンイエローの前髪の下で熱を持つブラウンの瞳を拒絶するように、莉香はシーツを頭から覆った。
「ふふ」
シーツの中で固く目を閉じる莉香の耳に、テオスの笑い声が聞こえた。
「言っただろ? 僕はフェミニストなんだ。心が他の奴のところにある君を、無理やり自分のものにしようとは思わないよ。でもいつか、君が本当に僕のことを好きになってくれたら嬉しいな」
そう言って、テオスはシーツ越しに莉香の額にキスをした。
その後、テオスの気配が遠のいたと感じた莉香は、目元までシーツを下ろして、恐る恐る周囲を見回した。
すると、純白の部屋の中で唯一、シルバー色の扉の前で、テオスが彼女に手招きをしていた。
「さあ。ゴッドが君を呼んでる。行こうか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます