第十話 心の蓋

「大丈夫だよ。スフェラさえ手に入れば、僕たちはこの国をどうこうするつもりはないよ」


 青年の言葉に、莉香はホッと息をついた。


「ただし、君には一緒に来てもらうよ」


「……え」


 先ほどまで柔和だった青年の顏が、一転して鋭いものに変わった。


「スフェラの力を維持するためには、君達王族の血が必要なんだろ?」


「……」


 続けて放たれた言葉に、今度は莉香の顔が一瞬で青ざめた。


「本当は王子様の方を招待しようと思ってたんだけど、一緒に帰るなら可愛い女の子との方が僕も楽しいしね」


 愉快そうに笑って話す青年の顔を、莉香は唇を震わせて見ていた。

 刹那、青年の隙を見て背を向けた莉香は、森の出口に向かって駆け出した。

 木々の隙間から届く月明かりだけを頼りに、黒々とした草木が生い茂る森の道を走り抜ける。


「あ!!」


 だが、地面から浮き出た木の根に足を取られた彼女は、前のめりに転んだ。

 擦りむいて血が滲む膝に手を当てて、痛みをこらえる莉香の目の前に、ジーンズに白いスニーカーを履いた足が現れた。

 恐る恐る顔を上げると、先ほどの青年が彼女を冷ややかな目で見下ろしていた。

 恐怖に震える莉香の前に青年は跪き、彼女の頬にそっと触れた。


「怖がらないで。乱暴なことはしないよ。たまにちょっと、君の血をくれたらいいんだ」


 ザザザー!!


 その時、枝葉がかき分けられる音と共に、黒い影が空から降ってきた。

 莉香に背を向けて降り立ったその影は、剣を構えて彼女と青年の間に立ち塞がった。


「カスコ!?」


 莉香は大きく目を見開いて、突然現れた赤髪の男を見上げた。

 鎧姿のカスコは彼女に背を向けたまま、顔だけ振り返ってニヤリと笑った。


「こんな独占欲の強そうな男と付き合うのは、やめておいたほうがいいですよ」


 そう言って、カスコは正面に向き直り、獣のような鋭い目で青年を見据えた。


「心外だな。僕は自他共に認めるフェミニストだよ」


 剣先を突きつけられても、青年は相変わらず飄々とした様子で、薄ら笑いを浮かべていた。

 意外ことに、この時彼が口にしたのは、ムーの言葉だった。


「経験上、こういうヘラヘラしたやつは、信用ならねえんだよ!」


 怒鳴り声を上げながら、カスコは剣を振り上げて青年に飛びかかって行った。

 身をそらして大男の攻撃をかわした青年は、ヒューと口笛を吹いた。


「おじさん、年の割にいい動きをするね」


「誰がおじさんだ!!」


 体勢を立て直したカスコが、突進しようと再び地面を蹴った瞬間、青年の体が後転しながら宙を舞った。


 ズギューン!!


 直後、耳をつんざく人工音が闇に響き、枝の上で羽根を休めていた鳥たちが一斉に飛び立った。


「カスコ!!」


 膝から崩れるように倒れたカスコのそばへ、莉香は慌てて駆け寄った。

 抱き起こして男の肩に目を向けると、頑強な鉄製の鎧に穴が開き、そこから真っ赤な血が溢れ出ていた。


「カスコ! カスコ!」


 莉香は泣きながら自分のキトンの裾を切り裂くと、震える手で血が噴き出す男の肩に巻きつけた。


「急所は外したから、命に別条はないよ」


 細く煙が立ち上る銃らしきものを構えたまま、青年は二人に近付いてきた。


「お願い。この人を殺さないで……」


 カスコの体に覆い被さった莉香は、少しずつ距離を縮めてくる青年を肩越しに見上げた。


「君がおとなしく僕についてきてくれるなら、殺さないよ」


 抑揚のない声でそう言うと、青年は冷ややかな視線と銃口をカスコに向けた。


「ダメだ! 姫様! 行っちゃならねえ!」


 痛みをこらえて身を起こそうとするカスコの胸を、莉香の手が押しとどめた。

 そして向き直った彼女は、覚悟を決めた強い目で青年の顔を見た。


「わかったわ。あなたの言うとおりにする……」


「ダメだ!」


 再び身を起こそうとする男の肩を、青年の足が蹴りつけた。


「ゔあ!!」


 先ほど負ったばかりの傷口を蹴られたカスコは、背中を丸めて痛みに悶えた。


「カスコ!!」


 そんな彼に向かって伸ばした莉香の腕を、青年の手が掴んだ。

 そのまま体ごと持ち上げられた莉香は、憎しみをこめた目で青年を見つめた。


「いいね。その顏。そそられるよ」


 にやりと口元だけで笑って、青年は軽く口笛を吹いた。


「じゃあ、行こうか」


 そう言って莉香に向けられた青年の顔は、つい先ほど人を撃ったとは思えないほど、柔和なものに戻っていた。

 だが彼女の腕を掴む手には、有無を言わさぬ強い力が込められていた。





 自室で眠りについていた隼は、異様な外の騒がしさに目を覚ました。

 ベッドから起き上がり、寝衣のまま部屋から飛び出した彼は、暗い廊下を一気に走り抜けて、宮殿前の広場へ出た。

 見上げるとまだ星が瞬いていたが、東の空はうっすらと白み出している。

 ふと、声がする方向へ目を向けた彼は、広場の一角に兵士が集まっていることに気が付いた。

 兵士らの肩を押しのけて輪の中心に向かっていくと、一頭の翼竜が立っており、その足元には血まみれの男が倒れていた。


「カスコ?」


 男が何者かを悟り、慌てて駆け寄ろうとする隼の前に、ダリアンが現れた。

 彼は無言で頷き、目で自分についてくるよう促した。


「カスコ!」


 隼が声を掛けると、カスコは苦しげに顔を歪ませて薄目を開けた。


「メシア……姫様が……」


 そう言ってカスコは、自分の肩に巻かれた布に震える手で触れた。

 おびただしい血で赤く染まっているが、それは見覚えがある莉香のキトンの生地だった。


「珠仙は……?」


 嫌な予感がして、続きを聞こうとした瞬間、カスコは身をよじって激しく咳き込んだ。


「怪しい男に……連れ去られました……」


 しばらくして咳がおさまると、ぜいぜいと喉を鳴らしながら、大男は悔しそうに唇を噛み締めた。


「怪しい男……?」


 さらに詳しく聞き出そうと、前のめりになる隼の体を、ダリアンの腕が制した。


「まずは、治療をさせてください」


 静かにそう言うと、ダリアンは胸に下げていたものを、懐から引き出した。

 それは、彼がいつも肌身離さず身につけているコールガーシャ皇子のスフェラだった。

 戸惑いながらも隼が身を引くと、ダリアンはカスコのそばに跪き、肩を覆う鎧を外してキトンの襟元を引き裂いた。

 露わになった男の肩には、直径3センチほどの穴が開き、その周りの皮膚は黒く焦げていた。

 ダリアンはスフェラをカスコの傷口に当て、目を閉じて意識を集中し始めた。

 すると、スフェラは赤い光を放ち始め、やがてそれは、カスコの全身だけでなく、ダリアンの体をも包み込み、いつしか二人の姿は隼たちから完全に見えなくなった。


 しばらくすると、赤い光は今度は一点に吸い込まれていくように収縮してゆき、間も無く周囲に元の闇が戻った。

 だが、光が収まっても、目を閉じたまま微動だにしないカスコに、兵士らは不安そうに顔を見合わせていた。


「気を失っているだけです。しばらく安静にしていれば大丈夫でしょう」


 そう言って立ち上がったダリアンは、そばにいた兵士にカスコの身を委ねた。





 その後、隼はいつもの朝食時間に食堂に呼ばれた。

 莉香のことが気になり、食事どころではなかったが、今後のことをダリアンと話す必要があると思い直し、足を運ぶことにした。


「召し上がらないのですか?」


 何もなかったかのように、静かにパンをちぎりながら、ダリアンが尋ねてきた。

 ここへ来てからずっと、隼は何も口に運ばずに、落ち着かない様子で指先でテーブルを叩いていたのだ。


「あんたは珠仙のことが気にならないのかよ? 今こうしている間にもあいつ……」


 責めるような口調で言う隼に、ダリアンは大きなため息をついた。


「とにかく今は、カスコが目を覚ますのを待ちましょう。事情もわからずに闇雲に探しても、兵士らを疲弊させるだけです」


 軍部の長として兵士の命を預かるダリアンの判断は、隼にも理解できた。

 だが、平然とした彼の態度が気に入らなかった。


「大神官としての立場ではなく、あんた個人としての意見はどうなんだよ」


 隼はふつふつと湧き上がってくる苛立ちを必死に抑えて、正面に座るダリアンの顔を睨みつけた。

 ダリアンの隣では、ニーメがハラハラとしながら、二人の様子を見守っていた。


「もちろん、コール様から預かった大切な姫君ですから、身を案じています」


「そうじゃなくて!!」


 苛立ちが頂点に達した隼は、立ち上がりざま、テーブルを両手で叩きつけた。

 その声にニーメは驚き、びくりと肩を震わせた。


「あいつに対して、保護者として以上の感情を持ってねえのかって聞いてんだよ!」


 怒鳴り声をあげる隼の顔を、ダリアンは冷めた目で見ていた。


「それは今、必要な情報ですか?」


「なんだと!!」


「やめてください!!」


 テーブル越しにダリアンに掴みかかろうとする隼を、ニーメが制した。

 涙をためて訴えかけてくる青い瞳に、隼は舌打ちをして、椅子にどかりと座り直した。

 その時、食堂の戸口に、赤髪の大男が現れた。


「カスコ将軍!」


 ニーメの声に、隼も振り返り、戸口に立つ男の姿を見た。


「もう、体は大丈夫なのですか?」


 ダリアンの問いに、大男は「はい」と短く答えて深々と頭を下げた。


「申し訳ありません。私が姫さまをあの時止めていれば、このようなことには……」


 絞り出すような声でそう言うと、カスコは一層深くうなだれた。






「姫様はギルトの指輪を持ち出していました。それを渡す為に、森で男と落ち合ったようです」


「ギルトの……」


 一瞬驚いたように目を見開いたダリアンは、そばにいた兵士に、指輪の有無を確認してくるように命じた。


「男は、スフェラの力を維持する為に、王家の方の血が必要なことも知っていました。だから、姫様も連れて行ったのです」


「その男とは、ムーの者か?」


 兵士から向き直ったダリアンは、カスコに席に着くよう目線で促して言った。

 カスコはまだ違和感が残っているのか、傷を負った肩を手で押さえながら隼の隣に座った。


「いえ。身につけていたものから察するに、ムーの者ではありませんでした。どちらかといえば、メシアがここへ来られた時着られていたような衣装を身につけていました」


 カスコは一旦記憶を探るように天井を見上げてから、隼の顔に視線を滑らせた。


「そういえば、私が姿を見せるまでは、姫様とその男はムーのものとは異なる言葉を交わしていました。それも、メシアが当初、話されていたものと同じ言葉です」


「日本語を? もしかしてそいつは、中年の男じゃなかったか?」


 ふと何か思いついた隼は、カスコの顔を覗き込むようにして尋ねた。


「……いえ。まだ若い男でした。メシアよりは、もう少し年上でしょうか……」


「……じゃあ、違うのか……」


「心当たりでもあるのですか?」


 ため息をついて、背もたれに深く背中をあずける隼に、今度はダリアンが尋ねてきた。


「いや……。もしかしたらその男は、珠仙あいつの育ての親じゃねえかと思ってさ……」


「育ての……親?」


 首を傾げるダリアンを見て、隼は一瞬口ごもった。

 しばらくは、莉香の秘密を話すべきかと考えを巡らせた彼だったが、やがて意を決して、ダリアンの顔をまっすぐ見つめた。


「あいつはさ、前世の……ムーで暮らしていた頃の記憶を残したまま、生まれてきたんだよ。そのことを育ての親は知っている。つまりそいつは、スフェラについても、あいつから聞いているはずなんだ。カスコが負った傷は、銃によるものみたいだし、俺たちと同じ言語を使っていたと聞いて、あいつの義父おやじじゃねえかと思ったんだけど……」


「前世の……?」


 初めて耳にする事実に、ダリアンは思わず息をのんだ。

 そんな彼の顔を見て、隼は唇をきつく噛み締めた。


「そうだよ。あいつは自ら望んでムーここに来たんだよ。あんたに会うためにな!」





 ダリアンは手にしていたペンを机の上に置くと、うつむいて頭を抱え込んだ。

 あの後、隼から聞かされた莉香の秘密は、彼にとって思いもよらないことばかりだった。

 彼女が前世、ムーの巫女であったこと。

 その頃から彼女が自分のことを知っていただけでなく、想いを寄せていたということ。

 そして、あの大災害の日に、彼女も命を落としていたということ。

 今思えば、度々不思議に思うことはあった。

 彼女は最初から同調を使えたし、ムーの言葉を話し始めるのも異様に早かった。

 この国の習慣へ対する抵抗も、隼に比べればほとんどなかったように感じる。

 疑問に思い、彼女の心を覗こうとしたこともある。

 だが、彼女の心はいつも固く蓋をされていて、彼を一切寄せつけなかったのだ。


「違うな」


 ふと、前方から野太い男の声が響いて、ダリアンは頭を持ち上げた。


「あんたの能力でなら、閉じられた心をこじ開けることもできたのに、あの子の本心を見るのが怖かったんだ」


 戸口に背をもたれかけて腕を組み、カスコはダリアンの顔を横目で見つめながら言った。

 いつもは立場上、ダリアンに対しては敬語を使う彼なのだが、なぜか今日は気を許し合える友人に対するような、砕けた口調で話しかけてきた。


「珍しく心の中がだだ漏れだぜ。大神官殿」


 カスコに指摘され、ダリアンは慌てて心に蓋をした。

 机に肘をつき、バツが悪そうに目をそらしているダリアンのそばへ、カスコはゆっくりと歩み寄って行った。


「薄々は彼女の気持ちに気付いていたんだろ? でも、それを確信して、自分の気持ちを偽れなくなることをあんたは恐れたんだ」


「……ばかばかしい。彼女と私では、いくつ歳が離れていると思っているんだ」


 そう言ってダリアンは、目をそらしたまま、机に両手をついて立ちあがった。

 背中を向けて窓の外を見上げる上司に向かって、カスコは軽く舌打ちをした。


「いい加減保護者ぶるのはよそうぜ。彼女は親友の娘である以前に、一人の女だよ」


「……」


「そして、姿かたちはレムリア妃に似ているが、中身は全くの別人だ」


 カスコの言葉に、ダリアンはゆっくりと振り返った。

 その目は、彼にしては珍しく、驚きと戸惑いに小刻みに揺れていた。

 呆然と立ち尽くしているダリアンの手に、カスコは薄い布を強引に握らせた。

 薄紅色のその布は、莉香のヒマティオンだった。

 その布が何を意味するのかわからず、ダリアンは赤髪の男の顔を不思議そうな目で見つめた。


「俺にこれを渡して、あの子は言ったんだよ。メシアとあんたのことを頼むって」


「……」


「森に行けば、もう戻れないかもしれないって……。彼女は覚悟していたんじゃねえかな」

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