第九話 幻影のキス

 カチャカチャと、食器がぶつかり合う音が、広い食堂に響く。

 残りのパンを無理やり口に放り込んだ隼は、銀のゴブレットを手にとり、水とともに一気に喉に流し込んだ。

 そんな彼のことなど気にもとめていない様子で、ダリアンはちぎったパンを黙って口に運んでいる。

 彼の隣に座るニーメは、何か考え事をしているのだろうか。

 スプーンを手に、テーブルに置かれたスープ皿をじっと見つめたまま、もう長い時間、口にしていなかった。


「ごっそさん」


 乱暴にゴブレットをテーブルに置き、椅子から立ちあがった隼は、他の者たちに背を向けて、戸口の方へ歩き出した。


「矢沢くん、今日は神学校はお休みでしょ? これからどうするの?」


 咄嗟に振り返った莉香は、少年を呼び止めようと声をかけた。


「プテラとその辺を飛んでくる」


 だが隼は振り向きもせずに、吐き捨てるようにそう言い残すと、食堂から去って行った。


「……」


 隼の姿が見えなくなると、莉香はため息をついてテーブルに向き直り、正面に座るニーメに視線を移した。

 だが、彼女は相変わらず何か思いつめた様子で、すっかり冷め切ったスープを見つめていた。






「ニーメちゃん」


 自分を呼ぶ声に、ニーメは手を止めて振り返った。


「私も手伝うよ」


 ニーメの隣に並んだ莉香は、朝食後のテーブルに残された食器に手を伸ばした。


「莉香様にそんなこと……」


 戸惑うニーメに、莉香は「いいの、いいの」と言いながら、ガチャガチャと音をたてて雑に皿を片付け始めた。

 一瞬、困ったように眉を寄せたニーメだったが、やがて諦めたのか、ため息をひとつついて作業を再開した。




「ニーメちゃん、矢沢くんとなにかあった?」


「……」


 汚れた皿を重ねながら、口にした莉香の問いに、ニーメの手が再び止まった。


「い……いえ、何も……」


 否定しながらも、明らかに動揺している様子で、ニーメはテーブルを拭き始めた。

 そんな彼女の背中を、莉香は静かに見つめていた。




「実は私ね、矢沢くんのことが好きなの」


「え?」


 不意に発せられた莉香の言葉に、ニーメは卓上に向けていた顔を思わず持ち上げた。


「でも、メシアとあなたは……」


 目を見開くニーメの隣で、莉香は手元の皿に視線を戻し、彼女らしからぬ低い声で話を続けた。


「十六年間、他人として別々の場所で育ってきたんだもの。恋愛感情を持ったとしても不思議じゃないでしょ?」


「……」


 ニーメは手にした布巾を胸元で握りしめて、顔を青ざめさせた。


「……そう……ですか……」


 震える声に莉香が顔を上げると、ブルーの瞳が潤んで揺れていた。




「……ね。ビックリした?」


 突然、莉香はいつもの明るい声色に戻って言った。


「?」


「今のは嘘。あんな無神経で鈍感な単細胞、こっちから願い下げだわ」


「……」


 唖然としているニーメに、莉香はにっこりと微笑んで見せると、積み上げた食器を「よいしょ」と持ち上げた。


「私が好きなのはダリアンさん。大人のひとが好みなの」


 そう言ってウインクをすると、莉香は食器を抱えて、戸口の方へ歩き始めた。

 そんな彼女の背中を見つめながら、ニーメは無意識にホッとため息をついた。

 直後、足を止めた莉香は、振り返って小さく笑った。


「今、ニーメちゃん、ホッとしたでしょ?」


「え?」


 莉香から指摘され、ニーメの顔が一瞬で真っ赤に染まった。


「ああ見えて、あの子一途よ。これまでは、本当の恋を知らなかっただけ」


「……」


「不器用でどうしようもないヤツだけど、今の矢沢くんにはあなたしか見えていない。だから、ニーメちゃんも、自分の気持ちに素直になって」


「……私の……気持ち……?」


 赤い顔をして立ち尽くすニーメに向き直り、莉香は真剣な表情で彼女を見つめた。


「彼のことが、好きだっていう気持ちよ」






 朝食を終えたダリアンは、神殿の祭壇の前に跪き、目を閉じてラーに祈りを捧げていた。

 神学徒たちの指導もしている彼は、日頃忙殺されて処理しきれない雑事を、神学校の休日に片付けることにしている。

 だが政務室に入る前に、ここで一旦ラーに向かい、心を落ち着かせるのが、いつもの決まりごとだった。


 ふと何者かの気配を感じたダリアンは、ゆっくり目を開けて背後を振り返った。


「莉香様……」


 そこには、いつからいたのか、莉香が静かに立っていた。

 陶器の様に滑らかな白い肌と、エメラルド色にきらめく瞳。

 髪の色こそ違ったが、その姿は彼が昔愛したひとに生き写しだった。

 しばらくは懐かしい少女の姿に見入っていたダリアンだったが、ふと、彼女の体が透けていることに気がついた。


「驚きましたね。あなたは幻影も使えるのですか」


 苦笑するダリアンの前で、莉香はふふふと小さく笑った。


『私、ダリアンさんに会うためなら、どんな姿にでもなるよ』


「……」


『私ね。あなたのことが好き』


「……」


 突然の告白に驚くダリアンに、幻影の莉香はゆっくりと近付いてゆき、彼の目の前で腰を下ろした。


前世まえは、それが言えなくて後悔したから、今度はちゃんと伝えたかったの』


「……」


 澄んだ湖の底のような、深いグリーンの瞳に見つめられ、ダリアンの思考は停止した。


『あなたの目に映る私が、レムリアの幻でもいいの』


 そう言って、莉香はダリアンの唇に自分のそれを重ねた。

 だが間も無く、何の感触も残さないまま、少女の影は彼から離れていった。


『幻影でのキスだから、許してね』


 そう言って寂しげに微笑むと、莉香の姿は霧のように薄れ始め、やがて消えた。


「莉香……?!」


 叫ぶように彼女の名を呼んで立ちあがったダリアンは、さっきまで少女がいた場所を見つめた。

 だがそこにはもう、朝日を浴びて白く輝く石柱が並んでいるだけで、彼女の姿はどこにもなかった。


「……」


 無意識のうちに、口元に手を寄せたダリアンは、自分の唇を指でなぞった。

 唇が触れた感触はなかったが、すぐそばに感じた彼女の息遣いは、その後もなぜか耳にこびりついて離れなかった。






 その日の深夜、自室のベッドで目を開けた莉香は、ゆっくりと上半身を起こした。

 床に両足を下ろして立ちあがり、静かに戸口へ近付いて行く。


 ギギギ……


 なるべく大きな音を立てないように、気を遣いながら頭一つ分ドアを開けて、外を見回す。

 周囲に誰もいないことを確認した彼女は、隙間を広げて廊下に滑り出た。

 後手にドアを閉め、注意深くもう一度あたりを見回すと、莉香は意を決したように大きく頷いて歩き出した。

 角かどには見張りの兵が立っているが、体勢を低くして死角になった闇に身を隠し、息を殺して彼らの前を通り過ぎて行った。

 そうして広間までたどり着くと、ようやく彼女は安堵のため息をつき、姿勢を戻して歩き始めた。

 深夜はここに見張りが配備されていないことは、事前に調べてわかっている。


(どうやって入り口にいる兵士の目をごまかそう……)


 神々をかたどった石像が立ち並ぶ暗い広間を、莉香は最後の難関を突破する方法を模索しながら歩いていた。


「こんな時間に、どちらへお出かけで?」


 その時、低い男の声が広間に響き、莉香はびくりと肩をすぼめた。

 恐る恐る声のした方を振り返ると、石像の台座の陰から、鎧姿の大男が姿を現した。


「カスコ将軍……」


 固まっている莉香のそばへ、赤髪の男はゆっくりと近づいてきた。


「年頃のお嬢さんが、深夜に隠れてお出かけとは、感心しませんな」


 眼前で足を止めた中年の男は、やわらかな声色とは裏腹に、鋭い視線で少女を見おろしていた。


「お願い。何も聞かずに、このまま行かせて」


 莉香はおびえたような目で大男を見上げて、震える声で言った。


「人に言えない理由となると、逢い引きですかな?」


 口元だけで笑い、カスコがそう尋ねると、莉香は目を伏せて口を固く結んだ。


「……お願い。行かせて……」


 再び顔を上げた莉香は、すがるような目でカスコを見つめてきた。

 その潤んだ瞳に、一瞬心を奪われかけたカスコは、「まいったなあ」と小さくつぶやいて頭をかいた。




「そのヒマティオンを貸してください」


 しばらくして、大男は莉香が肩から掛けている薄紅色のヒマティオンを指差して言った。

 戸惑う莉香に、カスコは顎をあげて「早く」と促した。

 莉香は首を傾げながらも、薄い布を肩から下ろして男の前に差し出した。


「きゃ!」


 布を手にした瞬間、カスコは莉香の頭にすっぽりとそれを被せた。

 状況が理解できず、布の隙間から不安そうに見つめる少女に背を向けて、カスコは戸口に向かって歩き始めた。


「顔を隠して、黙って私についてきてください」




「将軍。その女は何者ですか?」


 宮殿から出ようとした時、見張りの兵がカスコに声をかけてきた。

 兵士は将軍の後を歩く、布で顔を隠した女に目を止めたのだ。


「ああ。俺の……その……コレだ」


 カスコは苦笑いを浮かべて、兵士に小指を立てて見せた。

 それが既婚者であるカスコの、愛人を意味すると悟った若い兵士は、顔を真っ赤にして背筋を伸ばした。


「このことは、くれぐれも内密に……な?」


「はっ!」


 バツが悪そうに顔を歪めて言うカスコに、兵士は固く口を結んで敬礼をした。


「じゃあ、行こうか」


 カスコは女の肩を親しげに抱いて、赤い顔をして固まっている、兵士の前を通り過ぎて行った。





「どうして……?」


 宮殿の外まで来ると、莉香は頭を覆っていた布を外して大男の顔を見つめた。


「何も聞かないで行かせて欲しいと言われたのは、あなたですよ?」


「……」


 おどけたように言う大男に、莉香は思わず吹き出した。

 だがその直後、一転して大男は真剣な眼差しを少女に向けてきた。


「ただ、一つだけ確認させてください。朝までには、戻られるんでしょうな」


「……」


 一瞬目を大きく見開いた莉香は、直後、彼から視線をそらした。

 そんな彼女の様子から、カスコは彼女の答えを悟った。


「矢沢くんとダリアンさんを、これからもお願いね」


 そう言って莉香は、手にしていたヒマティオンをカスコに手渡し、彼に背を向けて宮殿が建つ丘を下っていった。

 しばらく闇の中に小さくなっていく白い影を見ていた大男は、その姿が見えなくなると、目を閉じて眉間に意識を集中し始めた。

 間も無く、神殿の方向から羽音と共に、巨大な翼竜が彼の頭上に現れた。

 軽い身のこなしで背に跨り、手綱を強く引くと、竜は一気に高みへと舞い上がった。


「どう見ても、恋人に逢いに行くって雰囲気じゃねえよな」


 深夜の町の大通りを、早足で歩く少女の姿を見つけたカスコは、翼竜に語りかけるようにそう呟くと、空から彼女の後を追って行った。




 町外れにある森にたどり着いた莉香は、荒い息を吐きながら、枝葉が生い茂る空を見上げた。

 黒々とした木々の隙間からは、青白い三日月が彼女を見下ろしていた。


「約束通り、一人で来たわよ。姿を現しなさい」


 周囲を見回しながら声をかけると、後方の茂みからガサガサという音がした。

 その音に振り返った彼女の前に、二十代半ばくらいかと思われる白人の青年が立っていた。

 一見細身だが、胸板の厚みから、意外に筋肉質なことが見て取れる。

 目尻が少し下がったブラウンの瞳はどこか懐かしく、一瞬ダリアンと同じプラチナブロンドかと思われた髪は、よく見れば月の色に似た淡いレモンイエローだった。


「例のものは持ってきてる?」


 青年は人懐っこい笑顔を浮かべて、莉香に近づきながら、日本語で尋ねてきた。


「ちゃんと持ってきてるわ。ほら」


 莉香はそう言って、袖の中に隠すように腕につけていたリングを外し、顔の前で掲げて見せた。

 月明かりを浴びて輝く銀のリングには、乳白色に鈍く光る石が埋め込まれていた。


「それが……スフェラ?」


 青年が石に触れようと手を伸ばした瞬間、莉香は彼の前からリングを遠ざけて、再び自分の腕に通した。

 リングをはめた左腕を背中に隠して、莉香は青年の顔を睨むような目で見つめた。


「その前にもう一度約束して。これをあげるかわりに、ムーの人たちに危害は加えないと」

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