第三話 点と線

「記憶が残っていたと言っても、生まれた時から何もかもわかっていたわけじゃないの」


 言葉を失う隼から、部屋の天井の隅に視線を移して、莉香は囁くような小さな声で語り始めた。


「物心がつくまでの私は、いたって普通の子どもだったみたい。でも、言葉を覚え始めた頃から、徐々に不思議なことを口にするようになっていったらしいの」


「不思議なこと?」


 眉をひそめる隼に視線を戻して、莉香はこくりと頷いた。


「そう。『神殿はどこ?』、『ここの空にはなぜ、竜が飛んでないの?』って」


「……」


「始めは育ての両親も、テレビか絵本で見たものと現実を混同しているのだろうと思ったみたい。でも、成長していくにつれて、私の話す内容はどんどん具体的になっていって……。いつしか義父ちちも、これは前世の記憶ではないかと疑い始めたのね」




 幼い頃から、莉香は何度も同じ夢を見た。

 白い大理石が敷き詰められた広場を、素焼きの水瓶を抱えて彼女は早足で歩いている。

 ふと、何者かとすれ違い、足を止めた彼女は、振り返ってその後ろ姿を目で追う。

 彼女の視線の先には、楽しげに言葉を交わしながら歩く、制服姿の神学徒たちがいた。

 その中の、珍しい髪色をした青年たちに、彼女は目を奪われたのだ。

 一人は、皇帝ラ・ムーと同じ黒い髪を持つ青年。

 そしてもう一人は、おどけたような表情を見せては、仲間たちを笑わせている銀髪の青年……。

 彼と同じ色の髪を持つ人物を、彼女はこの国で一人だけ知っている。

 それは皇帝ラ・ムーの側近であり、彼女ら巫女や神官を統括している大神官アルデオだ。


 いつしか、風になびく銀色の髪を見かけるたびに、彼女の中で不思議な感情が湧き上がってくるようになっていた。

 嬉しいような、恥ずかしいような、それでいて、なんだか胸がぎゅっと押しつぶされそうになる気持ち。

 莉香がその感情を恋と呼ぶのだと知ったのは、ずっと後、中学生になってからのことだった。


 幼い頃には断片的だった記憶が、成長していくうちに点と点が繋がって線となり、やがて輪郭を描いていくように、より具体的に、より鮮明に変化していった。

 前世、彼女はムーの神殿に身を置き、修行を続ける巫女だった。

 神殿の隣には神学校があり、彼女は日課の水汲みに向かう途中、広場で神学徒たちとよくすれ違った。

 そんな学徒たちの中で、ひときわ目を引く二人の青年がいる。

 漆黒に輝く髪を持つコールガーシャ皇子と、陽の光に溶け込みそうな銀色の髪をした、大神官の嫡男ダリアン。

 巫女仲間の噂話から二人が何者かを知った彼女は、その後、彼らの姿を見かけるたびに、自然と目で追うようになっていった。

 そして気がつけば、彼女の視線は銀髪の青年の姿だけを追っていた。


 その日も談笑する学徒たちとすれ違った彼女は、ふと、あることに気がついて足を止めた。

 楽しそうに笑っているダリアンの心が、なぜか固い蓋に塞がれていたのだ。

 気のおけない仲間とリラックスしている時、普通なら人は心を解放しているものなのだ。


(あんなに楽しそうなのに、なぜ……?)


 疑問は好奇心に代わり、真実を確かめたくなった彼女は、彼がひとりきりになる機会を待つことにした。

 そうして幾日か経ったある日、偶然一人で歩く彼を見かけた彼女は、遠くからそっと心の中を覗いてみた。

 案の定、一人きりになった彼の心は無防備で、容易に覗き見ることができた。


(……あ……)


 ようやく見ることができた彼の心の中には、金色の波打つ髪をした、美しい少女が微笑んでいた。





「保を振った時に言っていた、お前が好きなやつって……」


 戸惑いがちに尋ねてくる隼に、莉香は今にも泣きだしそうな顔をして頷いた。


「最初から期待はしていなかった。私はラーに誓いを立てた巫女だし、遠くから見ているだけでいいんだって、自分に言い聞かせてた」


 そう口にした直後、エメラルド色の瞳から大粒の涙がいくつもこぼれ落ち、毛布に染みを作った。


「でもね。あの大災害の日、私、初めて間近で彼に会ってしまったの」





 あの日彼女は、宮殿の医室でコールガーシャ皇子の妻レムリアに付き添っていた。

 修行を終え、一人前の巫女になった彼女は、レムリアの世話係を任じられたのだ。

 歳が近い彼女は、宮殿内に友人がいない妃にとって、数少ない心を許せる存在にもなっていた。


 すでに半日近く続いている陣痛により、レムリアは著しく体力を消耗していた。

 周期的に襲ってくる痛みに必死に堪える妃の手を、彼女は強く握り、励まし続けていた。

 陣痛が収まると、レムリアは気を失ったように一時ひととき眠りにつくが、間も無くまた激しい痛みに襲われ目を覚ます。

 時には激しい揺れが建物をきしませ、妃の安息を妨げることもあった。


(よりにもよって、こんな日に天変地異が起きるなんて……)


 無情な神に対し、彼女は恨み事を言いたい気分だった。



 再び穏やかな波が訪れて妃が眠りにつくと、彼女は溜息をついて乱れた毛布を整えた。

 ふと彼女は、天幕の外から聞こえてくる複数の男女の話し声に気がついた。

 レムリアの脈を見ていたイアトロス(医師)も異変を感じたらしく、彼女らは互いに顔を見合わせて首を傾げた。


「何事かしら」


 イアトロスはそう言って立ち上がり、天幕をかき分けて外へ出て行った。


「どうぞ、早く、中へ!」


 間も無く、珍しく慌てた様子のイアトロスの声が響き、同時に慌ただしく動き回る靴音が複数聞こえた。

 ただ事ではない空気を感じた彼女は、そんな外の様子に耳をそばだてていた。


「うう!!」


 その時、再び激痛に襲われたレムリアが、唸り声を上げて目を見開いた。


「お妃様!」


 慌てて彼女は、妃の手をとり、苦痛に歪む顔を見つめた。


「ねえ……お願い……外の人達に伝えて欲しいことが……あるの……」


 痛みをこらえながら、レムリアは彼女の顔を見上げて、天幕の外を弱々しく指差した。


「……コールを……ここに呼んで……」




「コール様……」


 天幕を細く開けて外に出た彼女は、黒髪の青年の背中に向かって恐る恐る声をかけた。

 複数の男女と深刻そうに話していた皇子は、その声に振り返った。


「レムリア様がお呼びです……」


「レムリアが?」


 すぐさま皇子は、分厚い天幕をかき分け、隙間から身を滑らせていった。

 無事、皇子への伝言を終え、緊張が解けた彼女は大きなため息をついた。


「……あ……!」


 顔を上げた瞬間、意外な人物と目が合った彼女は、思わず口から飛び出しかけた声を手で抑えた。

 そこには、血と泥で神学徒の制服を汚したダリアンが立っていた。

 遠くから見つめているだけだった想い人を、突然目の前にした彼女は、激しく動揺してその場から動けなくなってしまった。

 そんな彼女を、ダリアンは不思議そうに見つめて、心当たりがないかと記憶を探っているようだった。

 ふと我に返り、心を読まれることを恐れた彼女は、慌てて踵を返すと、急患らしき女性を診ているイアトロスの元へ駆けて行った。

 それでもなお、しばらくは彼女の後姿を見つめていたダリアンだったが、やがて諦めて背中を向けた。




「皇子たちが神殿に向かった後、それまでにない大きな揺れによって宮殿が崩れ、私は倒れてきた壁の下敷きになったの」


「……」


 毛布の上で握られた莉香の拳が震え、赤く染まった頬を涙が伝い落ちた。


「命が尽きる間際にね、私、ラーに願ってしまったの。今度は、もっとあの人の近くに生まれてこれますようにって……」


 思わず隼は手を伸ばし、細い肩を引き寄せた。


「だからって……まさか……レムリアの娘として生まれてくるなんてね……」


 そう言って莉香は、うな垂れた首を隼の胸に預けて、嗚咽を漏らし始めた。

 震える肩を支えながら、隼の中でいくつもの疑問が解けていった。

 突然見知らぬ地に飛ばされてきたにも関わらず、彼女がすぐにこの世界に順応できたのも、ムーの言葉を早々に使いこなせたのも、前世の記憶が残っていたと言うのなら納得がいく。

 彼女にとってここは、見知らぬ地どころか、故郷ふるさとのようなものだったのだ。

 最初から同調が使えたり、心に蓋ができたのも、巫女であった前世に身につけた能力なのだろう。


「お前……。もしかして、ダリアンあいつに会うために、ここにきたのかよ……」


 隼の言葉に、莉香の嗚咽が一瞬止まった。


「ごめん……矢沢くん、ごめん。ここに来る手がかりが掴めるんじゃないかと思って、あの日、あなたに会いに行ったの……」


 次の瞬間、そう言って莉香は、隼の胸にしがみついて泣いた。

 泣きじゃくる少女の頭を頬に寄せて、隼はきつく目を閉じた。


「馬鹿じゃね……お前」







「そう、莉香はね、前世の記憶を持ったまま、生まれてきたんだよ」


「前世の……?」


 珠仙博士の話を真に受けるべきか迷い、保は怪訝そうに眉間を寄せた。


「ふふ。にわかには信じられなくて当然だ。私も始めはあの子が、夢か妄想を語っているのかと思ったよ」


「……」


 ソファーに深く身を沈めた老人は、杖の柄を握る皺だらけの手にもう片方の手を重ねて鼻で笑った。

 ここは、緑がまぶしい庭に建つガラス張りの研究室ラボの中。

 燦々と差し込む陽の光の中、大きなステンレスの台の上で、磨きこまれた実験器具がまぶしく光を放っている。

 その奥の少し開けた空間に目を向けると、二台の白いソファーが向かい合わせに置かれている。

 そこに対面する形で腰を下ろした二人の男は、心の奥を探り合うような目で互いの顔を見ていた。


「だがね、年を重ねるごとにあの子の話は、信憑性を増していったんだよ。ムーで使われていたという生活器具の構造から、社会の仕組み、宗教観など、とても幼い子供が想像によって語れるものではなく、細かい部分まで訊ねてみても、そこに矛盾はなかった」


 保はソファーに浅く掛け直し、少し身を乗り出した体勢で膝の上で指を組んだ。

 そんな彼を一瞥すると、博士は内ポケットを探り、一枚の写真を取り出してきた。


「これを見てくれたまえ」


 テーブル越しに写真を受け取り、保は眼鏡を掛け直して目を凝らした。

 少し色褪せて見えるその写真には、雪の上に横たわる少年の姿が写っていた。

 短く刈られた金色の巻き髪と、抜けるように白い肌。

 そして、眉間からまっすぐ伸びた鼻筋と、閉じられた目元を縁取る長い睫毛。

 雪に埋もれかけている端正な横顔は、ギリシャ神話に出てくる神々の像を彷彿とさせた。

 だが、不可解なことになぜか彼は、雪の中にありながら、手足がむき出しになった薄い生地の衣服を身に纏っていた。


「美しい少年ですね。彼が何か?」


 そう言って保が写真を返そうとすると、博士は手のひらでそれを押し戻した。


「彼の頭のあたりをよく見てごらん」


 首を傾げながらも、保は眼鏡を持ち上げて、さらに写真に顔を近づけた。


「……え……」


 目を凝らしてよく見ると、少年の金色の髪のそばに、手袋をはめた人の手らしきものが写っている。

 だが、少年の頭の大きさと比較して見ると、その手は異様に小さかった。

 保は混乱する頭で、この状況を説明できる理由を探った。


(子供の手か? いや、それにしては形に丸みがないし、比率もおかしい……)


 唇を指の背でなぞり、眉をひそめている保を見て、博士はふっと笑った。


「その手は私のものだよ」


「え?」


 思わず顔を上げた保は、見開いた目で博士を見た。


「そう。そいつは巨人ネフィリムだ」


「ネフィリム……?」


 その時、ガラス戸が開いて、トレーを手にした美しい女が入ってきた。


「あなた、お茶を」


「……あ、ああ。ありがとう、ローズ」


 保は慌てて平静を装い、笑顔を浮かべて妻の顔を見上げた。


「やあ、ローズ、久しぶり。相変わらず綺麗だね」


「ふふ、博士こそ、相変わらずお上手なんですから」


 老人の世辞を軽くあしらいながら、ローズはバラが描かれたティーカップをガラステーブルに並べ始めた。


「リアムも、もうずいぶん大きくなっただろう」


「ええ、いたずら盛りで困ります」


 茶器を並び終えたローズは、保の顔を見上げて幸せそうに笑った。


「では、ごゆっくり」


「ああ、ありがとう。また、大学の研究室にも顔を出してくれ」


「はい。ぜひ」


 軽く頭を下げると、柔らかな微笑みと薔薇の香りを残して、ローズは戸口から出て行った。

 珠仙博士は、おもむろにカップを持ち上げ、立ち上る湯気に鼻を近付けると、大きく息を吸い込んだ。


「あれから彼女の調子はどうだね?」


 ひとしきり茶葉の香りを楽しむと、博士はカップ越しに保の顔を見つめた。

 穏やかな言葉の調子とは裏腹に、その目は真実を見極める研究者の鋭さをたたえていた。


「……え、ええ。何も問題ありません。息子も普通に甘えています」


「そうか。それは良かった」


 保の言葉を聞いて、満足そうに目を細めた博士は、再びカップを傾けて赤い液体を喉に流し込んだ。


「日常生活を送っていると、つい私も忘れそうになります」


 呟くようにそう言って、保はガラスの向こうで花の手入れをしている妻の姿に視線を移した。


「彼女が、人間ではないということを……」

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