第八話 父との別れ
「……コール」
突然の知らせに狼狽えている二人の背後から、弱々しい女の声が聞こえてきた。
「コール様、レムリア様がお呼びです……」
再び別の女の声がして振り返ると、天幕の前に侍女とおぼしき少女が、おずおずとした様子で立っていた。
「レムリアが?」
妻が自分を呼んでいると聞き、コールは辞儀をする彼女の前を通り過ぎて天幕に手をかけた。
分厚い布の隙間から皇子が中へ入っていくと、緊張から解放されたのか、少女はほっと息をついて顔を持ち上げた。
「……あ……」
そこでダリアンと目が合った少女は、小さな叫び声をあげて、両手で口元を覆った。
「?」
どこかで会ったことがあったかと首を傾げるダリアンに、彼女は勢いよく頭を下げると、逃げるようにイアトロス(医師)のもとへ去って行った。
しばらく記憶を辿ってみたが、何も思い当たらなかったダリアンは、再び天幕の方へ向き直った。
コールが中へ入ると、幕に四方を囲まれたベッドの上で、レムリアが仰向けに横たわっていた。
長時間に渡る陣痛により額には汗が滲み、疲労の色は感じられたが、その清らかな美しさに陰りはなかった。
「神殿へ行くのね」
枕元に腰を下ろす夫に、レムリアは不安気にそうたずねた。
一瞬息をのんだコールだったが、ため息をひとつつくと、優しく微笑んで妻の頬をなでた。
「ああ、大切な用事でラ・ムーに呼ばれているんだ」
相変わらず勘のいい妻に隠し事はできないと、観念してコールは正直に答えた。
するとレムリアはそっと瞳を閉じ、肌の感触を心に刻むように彼の手に頬を擦りつけた。
「コール、私、今度生まれ変わっても、きっとまた、あなたを愛するわ」
そう言ってレムリアは、エメラルドグリーンの大きな瞳で、夫の顔を見つめた。
その瞳は涙に潤み、唇は小さく震えていた。
「何を今生の別れみたいなことを言うんだよ。用事が済めばすぐに戻ってくる。
妻の不安を取り除こうと、コールは努めて明るい口調でそう言い、白く華奢な手を力強く握りしめた。
それでもレムリアは、まだ何か言いたげな表情で夫の顔をじっと見つめ続けていた。
困り果てたコールは、もう一度大きなため息をつくと、ベッドに身を乗り出して震える唇にそっと口付けた。
「私も、何度生まれ変わっても、必ず君を探し出して、またプロポーズするよ」
小声でそう言い、立ちあがったコールは天幕へ向き直り、妻に背を向けて軽く右手を振った。
「待たせたね、ダリアン。神殿へ急ごう」
レムリアのもとから戻ってきたコールは、赤くなった顔を悟られないように、うつむいたままダリアンの背を押した。
天幕越しに二人の会話を聞いていたダリアンは、胸に痛みを感じながらも、一刻も早く皇子を妻のもとへ帰らせてやりたいと思った。
「はい」
足早に医室を出て行くコールの背を追いながら、ダリアンは松明の炎に照らし出される青い天幕をもう一度振り返って見た。
『どうか、無事に出産を終えて、皇子の帰りを待っていてくれ』
対策室へ戻ったコールは、部屋の奥にある鍵付きのクローゼットを開けて、中から大ぶりの剣を三本取り出し、そのうちの二本をダリアンとトトに投げ渡した。
「念のために持っておいてくれ」
残りの一本を自分の腰に挿しながら、コールは真剣な面持ちでそう言った。
神学校で護身のための武術を習ったことがあるとはいえ、真剣を初めて手にしたダリアンは、その重みに戸惑いながらもなんとか腰紐に装着した。
何気にトトの方を見ると、意外にも彼は慣れた手つきで、素早く剣を脇に携えていた。
「トト、お前はここに残り、レムリアの身に危険が迫ったら彼女を守ってくれないか。念のため、ステラにはお前の指示に従うように言い聞かせておくよ」
「御意」
コールの言葉に、トトは漁師らしからぬ緊張感のある所作で、みぞおちに手を添えて頭を下げた。
「コール様、トトはいったい?」
宮殿の入り口へ続く廊下を早足で歩きながら、ダリアンは前を行くコールにたずねかけた。
その問いに、足を動かし続けたままコールは背中越しに答えた。
「ああ、彼は諜報員として特別に訓練された軍人なんだよ。治安維持のために、身分を隠して港に潜入させていたんだ」
コールの返答に、ダリアンはすべての合点がいった。
諜報員なら、報告業務のため、同調の能力が開発されていても不思議ではない。
「ああ見えて、彼はかなり有能な軍人なんだよ。高いところは少し苦手だったみたいだけどね」
コールがそう言い終えた時、前方に宮殿の入り口が見えてきた。
二人が出口に向かって駆け出すと、開け放たれた扉から注ぎ込んでくる光の中に、巨大な翼竜の影が浮かび上がった。
プテラの背に乗ったコールとダリアンは、猛スピードで神殿を目指していた。
「ムーの町が……」
上空から変わり果てた町の様子を目の当たりにしたコールは、思わず言葉を詰まらせた。
あんなに美しく平和だった町は、相次ぐ地震によって無残に破壊され、かつての面影はどこにも残されていなかった。
「あ!」
刹那、遠くに見える火山に目を向けたダリアンが、叫び声をあげた。
「コール様、火山が!」
ダリアンが指差す方向へ視線を移して、コールも絶句した。
火山の頂上からうっすらと煙がたなびき、山肌を赤く光るものが流れ始めていたのだ。
「噴火が近い……」
おそらく、あの赤く見えているものは、火口から溢れ出た溶岩だ。
今、あの山の中では煮えたぎったマグマが、吹き出す瞬間を待ち構えているに違いない。
「コール様! あちらも!」
再び大声でそう叫び、ダリアンは今度は海の方角を指差した。
見ると、水平線に張り付くように、白い筋のようなものが横たわっているのが見えた。
「津波……!?」
その白い筋は、迫り来る白波だった。
一旦沖へ引き戻され限界に達した海流が、エネルギーを何百倍にも増幅させて、こちらに向かい始めているのだ。
あの様子では、帯状の弾丸と化した大波がムーの町へ到達するまで、時間はさほど残されていないだろう。
「プテラ! もっと早く! 急げ!」
コールの声に空を切り裂くような雄叫びをあげ、プテラは翼を大きく振り下ろした。
プテラが着地するのを待たずに、地面に飛び降りた二人は、神殿の入り口に向かって全速力で駆け出した。
この丘にも、津波から逃れようと避難してきた人々が溢れ、神殿前の広場は老若男女でごった返していた。
そんな人々の波をかき分け、二人は開け放たれた入り口から建物内へ飛び込んでいった。
勢いを保ったまま、円柱が立ち並ぶ回廊を駆け抜けると、巨大な祭壇がある広間が見えてきた。
そこでは、神官たちが中央に道を開けて左右に立ち並び、神妙な面持ちで彼らを見つめていた。
そんな男達の先にある祭壇の前では、白装束に身を包んだラ・ムーとアルデオが二人を待ち構えていた。
男たちの間を通り抜け、コールたちが祭壇の前までやってくると、ラ・ムーは黄金の杖を掲げて居並ぶ神官たちを見下ろした。
「本来であれば、きちんと段階を踏むべきなのだが、もう時間がない。これより、コールガーシャ皇子にラ・ムーの称号を譲り渡す」
そう言って、ラ・ムーは、手にしていた杖をコールに向かって差し出した。
戸惑いを見せる息子に、父は鋭い視線を向けて、強い口調で言った。
「私はこれより復活の間へ入り、最後の務めを果たす。今後はお前がこの国を守るのだ」
その言葉に、コールはゴクリと唾を飲み込んだ。
そのまましばらく固まっていたコールだったが、覚悟を決めて父の前に膝間付き、震える両手を差し出した。
「ダリアン、お前も今から大神官を引き継ぐのだ」
皇子が杖を手にする様子を呆然と見守っていたダリアンの前に、アルデオがそう言って、銀色に光る自分の杖を差し出してきた。
「……」
『この方を信じてついていくと言うのなら、その道をつらぬけば良い』
同時に心の中に響いてきた父の声に驚き、ダリアンは目を見開いた。
どうやら、先日宣言した言葉は、父にも届いていたようだった。
『お前の信じた道が正しければ、ムーはこの危機を乗り越えられるだろう』
意外な言葉に立ち尽くすダリアンの手に、アルデオは少し苛立った様子で無理やり杖を握らせた。
『我々が復活の間に入れば、その杖を使って、お前が鍵をかけるのだ』
「鍵を……」
復活の間に入ることが、父の死を意味することをダリアンは知っていた。
あの部屋の入り口に鍵をかけるということは、父にとってのこの世への帰路をこの手で断つということだった。
これまで忌々しいとばかり思っていた父であったが、その死に直面して、ダリアンの中に今まで感じたことのない想いが湧き上がり、気がつけば頬を熱いものが伝い落ちていた。
『母さんたちを頼んだぞ』
息子に背を向けた父の背中から、一瞬そんな声が聞こえたような気がした。
「神官たちよ。たった今、ここにいる二人に、ラ・ムーと大神官の称号を譲り渡した。そなたらがその証人だ」
ラ・ムーがそう呼びかけると、神官たちは一斉にその場にひれ伏し、祈るように王の名を唱えた。
「ラ・ムー」
「ラ・ムー」
繰り返し唱え続ける神官たちに背を向けて、ラ・ムーは祭壇の後方へ向かって歩みだした。
そのあとに黄金の杖を手にしたコールが続き、アルデオに促されてダリアンも彼らのあとを追った。
地下室への入り口のそばで一行が立ち止まると、アルデオは床を指差しながら、息子に「開けろ」と目で命じた。
ダリアンは、先日ここへ来た時の父の行動を思い起こし、床に開けられた小さな穴に杖の先を差し込んで半回転させた。
カチリという音がして杖を持ち上げると、その先に貼り付いたように軽々と床石が持ち上がり、地中へ続く階段が姿を現した。
「ではコール、時がきたら祭壇にその杖を突き立てるのだ」
階段に足を踏み入れながら、ラ・ムーがそう言うと、コールは杖を両手で握りしめて力強く頷いた。
「心残りがあるとすれば、孫たちをこの手に抱けなかったことだな」
ぽつりとそう言う父に、堪りかねたコールは思わず抱きついた。
「この国を頼んだぞ」
父の首筋に顔を埋めて、コールは泣きながら何度も頷いた。
そんな息子の胸を手で押し返し、王は暗闇に続く階段をゆっくりと降りて行った。
王のあとに続いたアルデオは、全身が地中へ隠れる直前、ダリアンの顔をもう一度見上げた。
「早く閉めろ」
ダリアンは涙を流しながら、石板を床に降ろして蓋をすると、杖の先をさっきとは反対の方向へ半回転させた。
カチリ。
その瞬間、悲しく冷たい音が、彼の全身に響いた。
『いったい、あの中で何が行われるのだろう』
「アルデオが父の心臓を剣で突き、その血をスフェラに注ぐんだよ」
自分の中だけでつぶやいたつもりだった言葉に、コールが返答してきてダリアンは焦った。
だが彼は、それ以上にコールが口にした言葉に衝撃を受けていた。
「父が……ラ・ムーを……」
驚愕と恐怖に唇を震わせるダリアンに、コールは悲しげに微笑んで見せた。
「それが彼にあたえられた、最後の使命だからね」
王と父も、コールとダリアンのように、幼い頃から共に学び、親しくしてきたと聞いている。
仮に自分がコールの命を絶つ役目を担うことになったら……。
そう考えただけで、ダリアンの全身に耐え難い恐怖と嫌悪感が駆け巡った。
そんな覚悟を秘めていたのかと思うと、父が最後に見せた顔が頭にこびりついて離れなくなった。
「これまで枯れていたあの部屋のスフェラが、ラ・ムーの血を吸って息を吹き返す。それにより、ムーは危機から救われるとの言い伝えがあるんだ」
ムーが滅びし時
スフェラは王の血を求め……
あの言葉の意味は、これだったのか。
ダリアンは、復活の間で見た、褐色のスフェラを思い出していた。
確かに、あの部屋にあったスフェラは、みな血が枯れた状態で、力なく赤黒い光を放っていた。
「血を吸ったスフェラの力は、王の杖を通して外に放出されると言われている。だから、この杖を復活の間の真上にある祭壇に突き立てる必要があるんだよ」
「それにより、何が起きるのですか?」
ギルトやプテラが身につけているスフェラはごく小さなもので、力を維持するために与える血も数ヶ月にほんの数滴程度だ。
もし、あの無数のスフェラに、大量の血が注がれれば、いったいどのようなことが起きるのか、ダリアンには想像もつかなかった。
「それは我々にもわからない。あとはラーにこの国の運命を委ねるだけだよ」
そう言った直後、コールの顔から血の気が一瞬で引いた。
怪訝そうに見つめるダリアンの前で、皇子の目は大きく見開かれ、手に持った杖がカタカタと小さな音を立て始めた。
「父が……死んだ……」
「……え……」
言葉を失うダリアンに背を向け、コールはおぼつかない足取りで、祭壇の前方へ向かって歩き始めた。
「杖を……祭壇に立てなくては……」
皇子の目は焦点が合っておらず、まるで心を置き去りにして、使命を果たすために体だけが動いているようだった。
そんなコールのあとを、ダリアンも慌てて追った。
祭壇の前に周ろうとしたその時、二人の前に突如軍服姿の男たちが立ち塞がった。
「コールガーシャ皇子。いえ、ラ・ムー。お命を頂戴いたします」
居並ぶ軍人たちの最前列では、ガゼロ将軍が剣を構えて、不敵な笑みを浮かべていた。
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