第十一話 魂の輝き

 午後の眩しい光が降り注ぐ空を、隼はプテラの背に乗って飛行していた。

 背後には彼にしがみつくようにして、学友のテトも乗っている。

 固く目を閉じ、恐怖に震えている少年を見て、悪戯心いたずらが出た隼は、ニヤリと笑って右側の手綱を反対方向へ思い切り引き下ろした。


「わ、わ、わああああ!!」


 プテラの体が水平軸に回転し、逆さになった瞬間、テトが大きな叫び声をあげた。

 その後、恐る恐る彼が片目を開けてみると、間近に民家の屋根が迫っていた。


「早く! 早く! 元に戻してくれよ!」


 涙目で懇願するテトに、隼は声をあげて笑った。

 ダリアンからプテラを譲り受けて以来、彼は時間を見つけては、飛行訓練を行っていた。

 前世からの付き合いの名残なごりなのか、プテラとは不思議なほど息が合い、じきに自由に乗りこなせるようになった。

 だが、ダリアンからは無闇に飛ばすなと釘を刺されていたので、周囲には訓練と称して空中散歩を楽しんでいたのだ。

 自分たちがいた世界に比べて娯楽の少ないこの国で、こうして空を飛んでいると、日頃の生活の不自由さや未来へ対する不安も一気に吹き飛んだ。

 この日は、講義の終了後に声をかけてきたテトを、空から町を見てみないかと誘ったのだ。

 好奇心から喜んでついてきたテトだったが、おそらく今は、誘ってきた相手が悪かったと激しく後悔していることだろう。

 笑いながら態勢を水平に戻すと、視線の先にテトの父アチャが管理する国営の農場が見えてきた。


「お前の親父のところに行こうぜ」


 そう言って隼は、思い切り手綱を手前に引いた。

 すると翼竜は、今度は空中を立ち泳ぎするように、垂直方向に急上昇し始めた。


「うわああああああ!」


 けたたましいまでの悲鳴をあげて、テトは隼の背中に全身の力を込めてしがみついてきた。

 激しく打ち付けてくる向かい風に目を細めながら、隼はこれまで感じたことのない爽快感を味わっていた。

 間も無く、ムーの町全体が見渡せる高みへと達した彼は、手綱を緩めて再び体勢を立て直した。


「行け! プテラ!」


「クアー!」


 隼の掛け声に雄叫びをあげて応えたプテラは、目的地に向かって全速力で飛び始めた。





「大神官様の結婚相手?」


 真っ赤に熟したトマトを差し出しながら、アチャは細い目を見開いた。


「ああ、いや、あいつ若く見えるけど、結構もういい年齢としじゃん? なんで結婚とかしねえのかなと思って。あいつの親父も大神官だったってことは、立場上、禁じられてるわけでもなさそうだし……」


 隼はそう言って、受け取ったトマトにかぶりついた。

 畑を見渡せる小高い場所に植えられたオリーブの木陰が、アチャのいつもの休憩場所だ。

 アチャと隼が並んで座り、隼の隣には恐怖の空中散歩を体験し、憔悴しきったテトが横たわっていた。

 大口を開けてトマトにかぶりついたアチャは、口元に滴る汁を手の甲で無造作に拭って空を見上げた。


「う〜ん。なんでかなあ。噂では将来、大神官の職も甥に譲ると言ってるらしいし、どうも本人はこの先も、身を固めるつもりはなさそうだなあ」


「ふ……ん」


 隼はつまらなそうに鼻を鳴らし、手元のトマトをじっと見つめた。

 ここへ来てから三ヶ月あまり。

 ムーの言葉もある程度話せるようになり、アチャのように同調を持たない者とも、少しずつ意思疎通ができるようになってきた。

 神官たちに対しては未だ警戒を解ききれない彼だが、いい意味で単純そうなこの男には気安さを感じ、時折こうして会いに来ては、他の者には聞きづらいことを尋ねたりしているのだ。

 だが、ダリアンのことを古くから知るこの男にも、今回の問いの答えは見当たらないらしかった。


「あ……そういえば昔、冗談半分に、いい女はいねえのかと問いただしたことがあったなあ」


 アチャはふと思い出したようにそう言って、残りのトマトを全部口の中に放り込んだ。

 男の口の中がカラになるのを待って、隼は目で話の続きを促した。


「どうも、十六年前の大災害で、好きだった女が死んじまったみたいなんだなあ。もしかしたら、その女のことが今も忘れらんねえのかもしれねえな」


「ふ……ん」


 隼はもう一度、艶やかに輝くトマトをじっと見つめた。


(死んだヤツが相手じゃかなわねえな。あいつら二人とも失恋じゃん)


 一瞬、莉香とニーメに同情している自分に気がついた隼だったが、すぐさまそれを否定するように、頭を左右に大きく振った。

 と同時に、彼のことを冷めた目で見つめる、いつものダリアンの顔が瞼に浮かんできた。


(……十六年前からとか。見かけによらず、どんだけ一途なんだよ)






 それから数日後、神学校から帰った隼が宮殿前の広場を歩いていると、一人でムーの町を見下ろしている莉香の背中が見えた。


「珍しく今日は一人かよ」


 周囲を見回しながら背後から声をかけると、莉香は驚いたように目を見開いて振り返った。

 だが、声の主が隼であることを知ると、彼女はほっと息をついて、再び街並みに視線を移した。


「ニーメちゃんは、神官に用事で呼ばれて行っちゃった」


 第三者がいる時は常に明るく振る舞っている彼女だが、隼と二人きりの時には、たまにこのような寂しげな表情を見せることがある。

 そのことが、隼は以前から気にかかっていた。


「お前、もしかして無理してねえ?」


「何を?」


 何気なく口から出た言葉に対して聞き返され、隼は一瞬狼狽うろたえた。


「いや、ほら、こんなとこにいきなり飛ばされてきてさ。俺はあっちの世界に未練なんかねえけど、お前は多分そうじゃなかっただろうし……」


 首の後ろを掻き、しどろもどろに話す隼を見て、莉香はふふっと笑った。


「矢沢くん、やっぱり優しい。保くんが言っていた通りだわ」


 彼女の言葉を耳にした瞬間、隼の顔が赤く染まった。


「お前、保とは本当にただのクラスメイトだったのかよ?」


 顔を隠すように彼女に背を向けて、隼は照れ隠しにわざと強い口調で言った。


「どういう意味?」


「……」


 再び言葉に詰まった隼の背中を、じっと見ていた莉香だったが、しばらくしてふっとため息をついた。


「ただのクラスメイト……ではないかもね。私、彼に告白されたの」


 思わず振り返った隼の前に、切なげに微笑む莉香がいた。


「私には好きな人がいるからって、お断りしたけどね」


 喫茶店に呼び出されたあの日、保が彼女に好意を持っていることは感じ取っていた。

 だから、彼が告白したと聞いても、大きな驚きはなかった。

 だが……。


「好きな奴がいるからって保を振ったのに、ここに来てすぐ心変わりしたのかよ。お前、案外節操ねえな」


「……」


 日頃、おとなしく控えめな性格の保が、思い切って告白したということは、かなり本気だったんだろう。

 なのに、さっさと他の男に心変わりする程度の気持ちを理由に、その想いが踏みにじられたのだと思うと、隼の中に怒りに近い感情が込み上げてきた。


「残念ながら、ダリアンあいつがお前を相手にすることはねえよ」


 これ以上は言うなと心の声が止めようとしたが、一度口からあふれ始めた言葉は、もう止まらなかった。


「あいつには、忘れられない女がいるみたいだからさ」


 そう言い放った直後、隼の中に激しい後悔が押し寄せてきた。

 たとえ叶わないとわかっていても、幼い片想いくらい、暖かく見守ってやればよかったのだ。

 自己嫌悪に苛まれながら、恐る恐る顔を上げた彼は、そこに見た光景に息をのんだ。


「……わかってるよ。そんなこと……」


 唇を噛み締め、震える莉香の瞳が涙に濡れていた。


「ずっと昔から……!」


 突然、莉香は隼の前をすり抜け、宮殿に向かって走り出した。


「珠仙?!」


「メシア!!」


 咄嗟に莉香を呼び止めようとした隼の背後から、野太い男の声が響いてきた。

 振り返ると、鎧姿のカスコが青ざめた顔をして走り寄って来た。


「なんだよ。慌てて」


 小さくなっていく莉香の後ろ姿と、赤髪の男を交互に見比べて、隼は眉をひそめた。


「りゅ……竜舎へすぐに来てください……。翼竜たちが……!」


 カスコは激しく肩で息をしながら、途絶えがちに用件を述べた。


「翼竜が……?」


 ただ事ではない男の様子に、隼の顔色も変わった。





 カスコとともに竜舎へ駆けつけた隼は、そこに広がっていた光景に言葉を失った。

 神殿と同じ丘に建つこの施設では、翼竜隊が操る竜が大切に管理されている。

 だが、三十頭あまりいる全ての竜が、床にぐったりと横たわり、うめき声をあげていたのだ。


「最近少し元気がないとは思っていましたが、突然ばたばたと倒れだして……」


 竜たちの様子を見ながら歩く隼の後ろから、カスコが状況を説明した。


「プテラも……?」


「はい。どうぞこちらへ」


 不安気に尋ねる隼にカスコは頷き、奥に向かって歩き始めた。

 隼はゴクリと喉を鳴らして、男の後を追って行った。

 やがて薄暗い竜舎の片隅で、体を丸めて長い首をぐったりと床に横たえている、見覚えのある竜の姿が見えてきた。


「プテラ!」


 隼が駆け寄って手で触れると、プテラは微かに頭を持ち上げて「グフウ」と力なく鳴いた。


「これは……」


 症状の原因が掴めないかと、竜の全身を見渡していた隼の目が、銀色の首輪で止まった。

 そこに埋め込まれた石が、いつもと違う色をしていたのだ。


「スフェラの色が変わっている」


 隼の呟きに、カスコは弾かれたように彼の背後から顔を突き出して、竜の首輪に目を向けた。

 確かに、これまでは鮮やかな緋色だった石が、茶褐色に変化していた。


「そうか。ムー全体がスフェラの光に包まれている間は枯れることがなかったが……。以前は王家の方々が血を注ぐことで、スフェラの色と力を維持していたんです」


「血を……?」


 それを聞いて隼は、ここへ飛ばされてきた日のことを思い出した。

 隼自身は記憶が曖昧だが、巨人ギルトの指輪に、彼が血を滴らしていたと莉香が言っていた。


『スフェラをここに』


 また同じあの時、夢か幻か定かではないが、自分は巨大な何かに向かって、石を差し出すように語りかけていた気がする。

 そう、血を注ぐために……。


「メシア、翼竜たちに血を分けてやってください!」


 翼竜が弱っている原因がわかり、カスコを始めとする翼竜隊の隊員たちは、一斉に隼の顔を見つめて懇願した。

 苦しげに息を吐くプテラの姿をもう一度見て、隼も人差し指の背に歯を立てた。


『あの女の血に触れると、スフェラは色も力も完全に失う』


 ふとその時、頭の中にそう言う男の声が響いてきて、隼は動きを止めた。

 あれは確か、ダリアンから送られてきた同調の中で、前の大神官アルデオが口にしていた言葉だ。


『あの女の腹にいる子どもたちは、この血を引き継いでいる』


 隼の母であるレムリアの血には、スフェラの力を消滅させる作用があったという。

 もしかしたら自分は、その血を引き継いでいるかもしれないのだ。

 そうであれば、血をスフェラに注ぐことで、逆に竜たちを死なせてしまうかもしれない。


「メシア! お願いします!」


「メシア!」


 レムリアの血の秘密を知らない隊員たちは、必死に隼に詰め寄ってくる。

 翼竜たちを救ってやりたいという思いは、隼も同じだ。

 でも、もしもの時のことを想像すると、なかなか決心がつかなかった。


「あなたの血は翼竜たちを救えますよ」


 その時、背後から張りのある声がして、入り口の方へ目を向けると、逆光の中に白装束の男が立っていた。


「この子たちを、救ってやってください」


 ダリアンはそう言って、そばに横たわる翼竜の頭を優しく撫でた。


「大丈夫。私を信じて」


 竜に触れたまま、ダリアンは力のこもった瞳で隼を見つめた。

 そんな彼の強い視線に背中を押されるように、隼は再びプテラの方へ向き直り、口元に指を近付けて皮膚を噛み切った。


「プテラ、スフェラをこちらに向けてくれ」


 隼がそう声をかけると、プテラは力を振り絞り、石が彼からよく見える位置に首を動かした。


「いい子だ」


 プテラの額を優しく撫でて、隼は指から滴る血をスフェラの真上から垂らした。

 直後、赤い閃光が溢れ出し、周りの景色も赤一色に染めた。

 やがてその光が収まると、石は元の緋色に戻り、虚ろだったプテラの瞳に光が戻った。

 もたげていた頭を持ち上げ、甘えるようにすり寄ってくるプテラに、隼も安堵の表情を浮かべて頬を寄せた。


「コール様だ」


「本当にあの方は、王家の血を引くメシアなんだ」


 かつてのコールガーシャを知る者たちは懐かしそうに、また、若者たちは初めて見る光景に驚きを隠せない様子で、隼の姿を見つめていた。


「もう、大丈夫だ」


 その後も男たちが見守る中、隼は一頭一頭に声をかけながら、スフェラに血を注いでいった。

 そんな彼の姿に、カスコは在りし日の皇子の姿を重ねて見ていた。

 遠いあの日も、皇子はこうやって竜たちに優しく声をかけて、血を与えていた。

 それはカスコが、この少年の中に初めて皇子の魂を感じた瞬間だった。






「傷口は痛みませんか?」


 竜たちに血を与え終えた隼が、竜舎から出て夕空を見つめていると、ダリアンが背後から声をかけてきた。


「大丈夫だよ。これくらい」


 傷を隠すように手を後ろに回して、隼は緋色に染まる空を見上げた。


「次回からは、ちゃんと専用の針を用意しますから」


 隣に並んだダリアンは、夕日に照らされた隼の横顔を見て、ある異変に気がついた。

 いつになく少年の表情が、沈んでいるように見えたのだ。


「気分がすぐれませんか?」


 わずかずつとはいえ、すべての翼竜に与えた血を合わせれば、それなりの量になる。

 それにより、体調を崩したのではないかと、ダリアンは不安げに隼の顔を覗き込んだ。


「いや……」


 夕日を見つめたまま小さく呟いて、隼は唇をきつく噛み締めた。

 そのまま黙りこんだ彼だったが、しばらくしてゆっくりと重い口を開いた。


「プテラたちを救えたことは嬉しいんだ」


「……」


「でも、スフェラの力で無理やり生かされて、あいつらは本当に幸せなんだろうか……って、ちょっと思ってさ」


『この先、一人きりで生かされて、あの者は本当に幸せなんだろうか』


 その瞬間、ダリアンの目に、亡き友人と目の前の少年の姿が重なって見えた。

 あの時もコールガーシャは、その優しさゆえに、ギルトを生きながらえさせることに疑問を抱き、悩んでいた。


(あなたの魂の輝きは、今も変わっていない……)


 いつしか、自分の目に熱いものが滲んでいることに気がついたダリアンは、それを隠すように彼に背を向けて、神殿に向かって歩き始めた。

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