第一章

第一話 黒髪の皇子(おうじ)

 そこは、美しい場所だった。

 果てしなく広がる大地を、覆い尽くす濃い緑。

 平原に点在する大小の湖の水面には、青い空と白い雲が映し出され、それらはさざ波に乗って、静かに流れてゆく。

 原色の花々が咲き乱れる原始の森を背景に、巨大動物の群れが悠然と移動し、空の上からは小鳥達がさえずりながら彼らを見送っていた。


 平野部に目を移すと、碁盤の目のように走る石畳の道と、その端に垂直に立ち並ぶ石造りの家が見える。

 隣家と密接して建つ家々の窓辺には季節の花が飾られており、通りを挟んで向き合う窓の間にはロープが張られ、そこに干された洗濯物が気持ちよさそうに風にはためいていた。

 広い道路沿いには幌をかけた商店が並び、世界各地から運ばれてきた珍しい食材や、織物などが所狭しと並んでいる。

 品定めをする人々の波で道はごった返し、客の足を止めようとする商人の呼び声も相まって、町は活気にあふれていた。

 そんな町の中央部には、小高い丘があり、その頂には大理石で作られた白亜の神殿がある。

 神殿の隣には天にも届きそうな尖塔が、町に暮らす人々の日々の営みを見守るようにそびえ建っていた。



 男達は二つ折りにした布の中央部に空けられた穴から頭を通し、腰で革のベルトを巻いている者もあれば、下半身に軽く布を巻いただけで、上半身が裸の者もいる。

 多くの者は軽装だが、位の高い者や知識人と思しき者たちは、肩から羽織った布を、ドレープをつけて体に巻きつけていた。

 男たちの多くは髪を短く切り揃え、足元はコルク底に革ひもを編み上げたサンダル。

 裸足の者も少なくなかった。

 知識人たちは町のあちこちで熱く議論を交わし、作業をする者たちは常に笑顔で、労働でさえも楽しんでいるようだ。

 女達も男と同様、多くの者は裾の長い貫頭衣を身に着けているが、町を練り歩く者たちは、ゆったりと体に巻きつけた布を、両肩に持ち上げてブローチで止め、豪華な刺繍が施された帯を腰で結んでいる。

 そんな彼女らの髪は、頭頂部で扇のように結い上げられ、宝石が埋め込まれた簪で飾られていた。


 町にはくまなく水道橋が廻らされ、至る所に設けられた水場には、大理石の彫像からいつでも清潔な水が溢れ出ている。

 そこに集まった女達は、楽し気に井戸端会議をしながら、手だけは洗濯物に勤しんでいた。

 彼女らのまわりでは、子ども達が互いにじゃれ合いながら、明るい笑い声を上げている。

 子ねずみのようにすばしっこく、路地裏を走りまわる子ども達を、町ゆく人々も微笑まし気に見守っていた。


 水場から広場に目を移すと、楽奏隊が奏でる軽やかなメロディーにのって、若い男女が手を取り合って踊っている。

 そんな光景を見渡せるベンチには、老人達が腰を降ろし、昔話に花を咲かせながら日光浴を楽しんでいた。


 港では今、各地から産物を買い付けてきた船が帰還したようだ。

 日に焼けた男達が、夕暮れまでに積み荷を降ろそうと、忙しく動き回っていた。

 出迎えた家族や友人もその作業を手伝っているが、子ども達は土産話をせがむばかりで、逆に作業を手こずらせている。

 だが、誰一人それを咎めることはなく、男達の顔は皆、久々に家族のもとに戻れた喜びと笑顔に溢れていた。





「ご機嫌うるわしゅう。コールガーシャ様」


 頬を赤らめた町娘達が、道をゆく青年に声を掛けた。

 その声に立ち止まった青年は、微笑を彼女達に送り、軽く右手を振って見せると、再び進行方向へ向き直った。

 人通りの多い町のメインストリートを、人々の間をかき分けるようにして、彼は急ぎ足で丘に向かっていた。

 すれ違い、彼が何者であるかを認識した者は、皆その場に立ち止まり、頭を下げて見送った。


 年の頃は20歳前後。

 赤や茶、ブロンドの髪が目立つこの町で、彼は誰もが目を見張る漆黒の髪をしていた。

 癖のないまっすぐ肩先まで伸ばされた髪は、動きに合わせて軽やかに揺れ、艶やかに光を放った。

 グレーがかったブルーの瞳は知的に輝き、鼻筋の通った相貌は何も語らずともその体に高貴な血が流れていることを感じさせた。

 背は他の男達と比べても平均的で、一見細身だがひ弱な印象はない。

 丈の短めの衣装からのぞくふくらはぎは、程よくついた筋肉の曲線が美しかった。

 右手には皮の表紙が巻かれた分厚い教本を持ち、襟と裾を鮮やかなブルーで縁取られた衣装を身につけていることから、神学校の学徒であることがわかる。

 また、額に巻かれた濃紺のスカーフは、最高学位であることを示していた。


 今から約12000年前、大西洋の北半球に、大小の島々が点在し、それぞれが国を成す地域があった。

 中でも際立った高度な文明を持ち、周辺諸国を統括していたのが、南東の島パラディソスにある大帝国ムーであった。

 ムーでは代々、皇家の嫡男が帝位を引き継ぎ、ラ・ムーという称号を与えられていた。

 漆黒の髪をしたこの青年コールガーシャは、現ラ・ムーの唯一の皇子おうじ、つまり次期帝位継承者であった。




「コール様!」


 再び背後から自分を呼び止める声に、コールは立ち止まって体ごと振り返った。


「ダリアン」


 ダリアンと呼ばれた青年は、急ぐ様子も無く、立ち止まる皇子のもとへゆっくりと歩み寄って来た。


「聞きましたよ。レムリア様は、いよいよだそうですね」


「ああ」


 コールと年格好の近い青年は、親し気に話しかけながら横に並び、それと同時に二人は丘の方へ向き直って再び歩き始めた。

 ダリアンが身につけているものもコールと同じもので、額に巻いたスカーフの色も同じだった。

 年の近い学友を前に、コールはさっきまでより少しリラックスした様子で笑顔を見せた。


「コール様も、もう父親かあ。俺にもいいがいないかなぁ」


 ダリアンはプラチナブロンドの髪をかきあげ、ため息をつきながら嘆くように言った。

 このあたりでは、彼の銀髪もかなり珍しい。

 この髪の色は、代々帝国の大神官をつとめる彼の家系の特徴でもあった。

 体格はコールよりも細身だが、背は若干高い。

 そして、一重の少し吊り上がったオリーブ色の瞳は、鋭くもありながら、どこか愛嬌があった。


「君は理想が高すぎるんだよ」


「うーむ」


 吹き出しながらそう言うコールの言葉に、ダリアンは納得しきれないらしく、複雑そうな表情を浮かべてうなり声をあげた。


 レムリアとはコールガーシャの妻の名で、彼女は初めての出産を間近に控えていた。


「無事に生まれてくれればいいが……」


「ただでさえ難産が予想される双子のお子様ですからね」


 ダリアンの言葉に、コールが不安そうな表情を浮かべた瞬間、尖塔の鐘が高らかに響き渡った。


「コール様! まずい! 授業に遅れます!」


「そうだった! だから急いでいたのに!」


 我に返り、慌てて駆け出そうとするコールの肩を、ダリアンの手が掴んで引き留めた。


「?」


「今から走ってもとても間に合いません。ですから……」


 振り返ると、含みのある笑みを浮かべるダリアンがいた。


「ね?」


 少し背を屈めて、上目遣いに見つめてくる学友を前に、コールはため息まじりに苦笑した。


「まったく君というやつは。もう今回きりだぞ。あとで私が大臣たちに小言を言われるのだから」

 

 そう言うと、コールは額に拳を当てて目を閉じ、何かを念じるような仕草を見せた。



 間もなく、バサバサと大きな幕がはためくような音が遠くに聞こえ始め、それはどんどん大きくなりながら近づいてきた。

 やがて、巨大な黒い影が頭上から彼らを覆い、地面から吹き返す風が砂埃を舞い上げた。

 通行人たちが驚きの声をあげて四方に散らばる中、二人の青年は笑みを浮かべて影の主を見上げた。


 砂埃に閉ざされた視界が開けると、二人の正面に、翼を広げた巨大な生物が二本足で降り立っていた。

 後ろ足は体に対して短めだが、地面に付けた尾と、広げた翼でバランスを取っているようだ。

 前足には3本の短い指があり、異様に伸びた4本目の指から脇の辺りにかけて広がる膜状の皮膚が、翼の役目を果たしている。

 長く伸びた首の先には口先の尖った頭があり、その後頭部はトサカのように突起していた。

 

「すまないね、プテラ。我々を学校まで送ってくれないか」


 プテラと呼ばれた翼竜は、返事をする代わりに長い首を丸めて、くちばしをコールの体にすり寄せてきた。

 その首には、緋色の石が埋め込まれた銀の首輪が巻かれていた。

 彼が優しく眉間を撫でると、プテラは黒目しかない目を閉じ、「グフゥ」と甘えたような声をあげて身を伏せた。


「じゃあ、行こうか」


 首から登って、竜の背に跨ったコールは、そう言ってダリアンに手招きをした。


「いつもありがとうな。プテラ」


 皇子の後を追い、彼の後ろに腰を下ろしたダリアンが、硬い皮膚に覆われた背中を撫でると、プテラはゆっくりと身を起こして翼を大きく羽ためかせ始めた。


「行け!」


 コールが命じた瞬間、巨体が宙に浮かび上がり、強い風が再び地面を叩きつけた。

 同時に巻き起こった砂埃に、人々は思わず目を閉じ、女たちは着物の裾を慌てて手で押さえた。

 そして、次に人々が目を開けた時、すでに翼竜と青年たちの姿はそこにはなく、大きな羽音だけが丘の方向へ遠ざかって行った。





「その昔、夜空に月はありませんでした。その頃、地上では竜が群れをなし、翼竜が悠々と宙を舞っておりました。そして人類の祖先は、現在の我々より数倍も巨大な体を持ち、寿命は数百年にも及んでいたと言われています。彼らの生き残りが後にネフレムと呼ばれる巨人族ですね」


 手にした書物を眺め、学徒たちの間をゆっくりと歩きながら、白髪を背中に垂らした教授ロギオスは淡々とこの国の歴史を語っていた。

 天井がドーム状になった白亜の講堂の中には、石造りの長机が円を描くように幾重にも設置され、神学徒の制服を身にまとった青年たちが等間隔を空けて座っていた。


「一方、我々の祖先ははじめ、異形として生まれました。体が異様に小さく、寿命も百年足らずであった我々のことを、ネフレムは小さき人と呼んで蔑んでおりました。竜の餌食になることを恐れ、ネフレムの迫害から逃れるために、我々の祖先はやむなく高い山の上に村を作って暮らすようになっていったのです」


 その時、一人の学徒が退屈さに耐えかねて、大きなあくびをした。

 書物に目を向けながらも、ロギオスはそれを見逃さなかった。


「ではダリアン、その頃、海はどのような状態でしたか?」


 突然、鋭い視線と手のひらを差し向けられたダリアンは、慌てて大きく開いた口を手で覆った。


「地上の殆どは大地に覆われ、海が占める割合は今よりもはるかに少なく、湖のような状態でした」


 一呼吸をつくと、ダリアンは老人の問いに対し、意外にもすらすらと返答した。

 不意をついたつもりが即答され、ロギオスは面白くなさそうに鼻を鳴らして彼に背を向けた。


「その通りです。しかしダリアン、あなたはいずれ、ラ・ムーを支える神官となるのですから、もう少し真剣に学問に取り組んではいかがですか?」


 最大級の嫌味を言われたダリアンは、顔をしかめて老人の背中に向かって舌を出した。

 そんな彼を見て、隣の席に座る黒髪の青年がクスクスと声を殺して肩を震わせ始めた。

 笑いをこらえる青年に気がついたロギオスは、今度はそちらに不機嫌そうな顔を向けてきた。


「コール様からも何とか言ってやってください。いずれはあなた様の片腕となる者なのですから」


 思いがけず矛先が自分の方へ向けられ、コールはバツが悪そうに肩をすぼめた。


「そういえば、今朝も始業時間ぎりぎりに、その者とともに翼竜に乗って登校されたそうですね。貴重な竜をそのようなことに使っていると、大臣たちが知ったらなんと言うか。だいたいあなた様は、もうすぐ父親となられるというのに……」


 くどくどと始まったロギオスのお説教から逃れるように、コールはダリアンの方へ顔を向けた。

 そこで目が合った二人は、同時に吹き出し、それにつられて他の学徒たちもクスクスと笑い始めた。

 やがて、笑いがさらに笑いを誘い、講堂の内部は割れんばかりの騒ぎになっていった。


「はいはい。みなさん、お静かに!」


 怒りで顔を真っ赤にして声を荒げる老人の前で、学徒たちの笑いは収まるどころかますます大きくなる一方だった。

 その時尖塔の鐘が、授業の終了時間を告げた。


「ロギオス、為になるお話をありがとうございました!」


 鐘が鳴り終わるのを待たずに、ダリアンは教本を脇に抱え、老人に向かって勢いよく頭を下げると、講堂から飛び出して行った。

 呆然と立ち尽くすロギオスに、コールもぺこりと頭を下げると、素早く身を翻させてその場を後にした。

 すると、静止する間もなく、他の学徒たちも次々と彼らの後に続いて出ていった。

 



「まったく。この国はこの先、いったいどうなることやら」


 数秒後には、壇上でそう呟き、一人頭を抱える老人がいた。

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