緋色(あけいろ)のスフェラ

長緒 鬼無里

序章

プロローグ

 男は、猛烈に雪が吹きすさぶ高原を黙々と歩いていた。

 雲が空を覆いだしたことに気がついた時には、もう引き返せない場所まで来ていた。

 膝下程度しかなかった雪が、腰を覆うほどに降り積もるまでは、まさにあっという間だった。

 今朝、狩りに向かうため自宅を後にした時には青空が広がり、こんな悪天候に見舞われるとは思ってもいなかった。

 山の天気は変わりやすい。

 この地で生まれ育った男は、そのことを熟知していたはずなのに、妻の出産が近いと知り、浮き足立つ心が判断を鈍らせた。

 久々に新鮮な兎の肉を妻に食わせて、生まれてくる赤ん坊にたっぷりと乳を飲ませてやりたい。

 そんな思いに気をとられ、山の向こうに見える空のわずかな異変を、不覚にも見落としたのだ。


(もうしばらく歩けば、風雪を凌げる洞窟があるはずだ)


 すでに毛皮でできた長靴の中にまで冷たい雪が滲み、氷の上を歩いているように足が痛む。

 狩りの相棒である大鷹も、彼の肩で身を小さくして、必死に寒さに耐えているようだった。




(なんだ?)


 ふと、男ははるか前方に広がる雪原に、横たわる何かに気がついた。

 吹雪に視界を遮られながらも目をこらしてみると、どうやらそれは人のようだった。

 右肩を地面に付け、胎児のように背を丸めたその人物は、すでに体の大部分を雪に覆われていた。


「おい! 大丈夫か?」


 男は慌てて雪をかき分けながら、その人物のそばへ近づいていった。

 あの雪の積もり具合ならば、以前からそこに倒れていたのではなく、雪が降り始めてからこの場所に来て倒れたのだと判断したのだ。

 つまり、まだ生きている可能性が高い。

 同じ山に生きる仲間かもしれない人間を、見殺しにすることはできなかった。




「え?」


 足の痛みも忘れ、夢中で前進していた男の動きがぴたりと止まった。


「なんなんだ。こいつは……」


 雪の中で立ち止まった男は、そう言って毛皮の帽子の下から、目の前に横たわる人らしきものを見上げた。

 そう、見上げた。


「ば……化け物だ……」


 それは、確かに姿形は人だった。

 だが、人と呼ぶにはあまりに巨大な体をしていたのだ。

 肩幅だけでも男の身長を優に超え、そこから推測するに、普通の人間の4倍は背丈がありそうだ。

 雪に半分覆われた顔の肌の色は抜けるように白く、短く刈られた巻き毛は金色だった。

 閉じられた巨大な目元には、髪と同じ金色の長い睫毛が生え揃い、眉間から高い鼻がまっすぐ伸びている。

 それらの特徴は、黄味がかった肌と黒い髪を持つ男たちの民族とは、明らかに異なるものだった。

 端正な顔立ちをしているが、骨格から察するに、おそらくは男性なのだろう。

 この極寒の中をこの巨大な男は、麻で作られたと思われる薄い衣だけを身に纏っていた。


 あまりの驚きに、その場に固まっていた男だったが、次の瞬間、どこからか聞こえてくる微かな声に気がついた。

 くぐもって良く聞こえなかったが、どうやらそれは人の子の泣き声のようだった。

 声のする方へ目を向けると、腹のあたりで組まれた巨人の手に至った。

 確かにその声は、丸みをもって重ねられた巨人の手の中から聞こえていた。

 しかも、その泣き声はひとつではなかった。


「その中に赤ん坊がいるのか?」


 思わず叫んだ男の声に、巨人の目がゆっくりと開いた。

 その瞳の色は、深い湖の底のように澄んだブルーだった。


「お前、生きているのか?」


 恐怖も忘れて男がそう問いかけると、巨人は再び目を閉じて力なく微笑んで見せた。

 そして、わずかに指の間に隙間を作った手を、震わせながら男に近づけてきた。

 男が隙間から覗いてみると、そこには生まれたばかりらしい赤ん坊が二人、血の付いた毛布に包まれて泣き声をあげていた。

 一瞬、巨大な赤ん坊を想像したが、見る限りその大きさは通常と変わらないようだった。


「お前、この子達を守って……」


 そう言った直後、男の周囲が黒い影に覆われた。

 ゆっくりと身を起こした巨人が、丸めた背中を空に向け、赤ん坊を包んだ手を腹に抱えたまま、頭と膝を地面に付けたのだ。

 そうして巨体が屋根となり、男が風雪にさらされることはなくなった。


「俺のことも守ってくれるのか?」


 男がそう尋ねると、巨人はふうっとため息のような声を漏らした。

 それを男は、「そうだ」と言っているのだと受け止めた。


「俺に生きて、この子達を救えと言うんだな」


 すると巨人はもう一度、ふうっと息を漏らした。


「わかった。吹雪が止んだら、この子達を村に連れて帰るよ」


 男が力強くそう言うと、巨人は今度は長い息を吐き出した。

 それ以降はもう二度と、巨人が返事をすることはなかった。


 その後も巨大な背中に、いつまでも雪は降り積もっていった。

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