第七話 郎(あきら)
「お父さん、お母さんは?」
玄関から入るなり、重そうなスポーツバッグを床に落として、リアムが尋ねてきた。
「あ、ああ。いつもの検査入院だよ」
デスクから息子の方へ向き直り、保は眼鏡のズレを直しながら答えた。
「ああ、そうか。今日からだっけ」
そう言って冷蔵庫のドアを勢いよく開けたリアムは、取り出したミネラルウォーターのペットボトルに直接口を付けて、ごくごくと喉を鳴らした。
そんな息子の後姿を、保は眩しそうに目を細めて見ていた。
ローズの死から、はや12年。
当時6歳だったリアムも、間も無く18歳になり、この9月からは大学生だ。
進学先も決まり、長い夏休み中の彼は、毎日地元のサッカーチームで汗を流している。
抜けるように白かった肌は真っ黒に日焼けし、背も保のそれを優に越えているが、恥ずかしそうに首を傾げて笑う癖は幼い頃のままだ。
「一週間くらいで帰ってくる?」
「うーん。今回は精密検査があるって言ってたから、二週間くらいかかるかもな」
そう言いながら、保は椅子を再び回転させてリアムに背を向けた。
ローズが病院に入院しているというのは嘘だ。
爆発に巻き込まれて重傷を負った彼女は、後遺症が出る可能性があるため、定期的に検査を受けていると家族には説明している。
だが実際は、珠仙博士の研究室でメンテナンス中なのだ。
そこで彼女は一旦分解され、傷みや老朽化した部品がないか、細かくチェックされる。
通常、部品交換をして組み直すだけなら、一週間程度で戻るのだが、今回は表皮の張り替えも行うので、少し時間がかかる予定だ。
生きていれば、ローズは今年45歳になる。
アンドロイドは当然のことながら、老いることはない。
だが、老化が見られなくては周りの人間に不審がられるため、4年に一度年齢相応の質感を再現した表皮に張り替えていくのだ。
その間に、彼女の頭脳部分のメンテナンスをするのは、保の仕事だった。
例えば、過去の記憶と新しく入ってきた情報に
また、メンテナンス中電源を落とされているローズには、当然その間の記憶はないのだが、起動した時に戸惑わないように、病院に入院していたという偽りの記憶も植え付けなくてはならない。
そんな嘘を少しずつ塗り重ねることで、彼ら家族の幸せはここまで続いてきた。
アンドロイドが一般向けに販売されるにあたって、制定されたアンドロイド法により、戸籍上ローズはすでに死亡していることになっている。
同時に彼女は、アンドロイドのローズとして、国に登録されている。
これは、遺産や年金目当てで死亡した人間とすり替えたり、殺人の隠匿等にアンドロイドが悪用されることがないように定められたものだ。
これらは、戸籍を見れば明記されているが、リアムがそれを目にするとすれば、おそらく彼自身が結婚する時くらいだろう。
だが、その頃には彼も大人になり、冷静に事実を受け止められるはずだと、保は思っていた。
珠仙博士が開発したアンドロイドは、現在世界中に500体以上出荷されている。
それら一体一体が、大切な人を失った人々の心を癒すために役立っている。
世間には彼らの行為を、神へ対する冒涜だと揶揄する者もあるが、愛する人と再会した人々の笑顔を目にすれば迷いも一瞬で吹き飛ぶ。
何より彼自身、ローズのいない人生なんて、もう考えられなかった。
「嫌だわ。最近小じわが目立ってきたみたい」
ローズは洗面台の鏡に顔を近付けて、しきりに目の周りを指でなぞりながら大きなため息をついた。
「そうかな。相変わらず綺麗だよ」
そう言って保が背後から肩を抱くと、ローズは振り返って彼の前髪に手を伸ばしてきた。
「あなたも随分白髪が増えたわね。染めたりしないの?」
「僕は自然のままでいいよ」
前髪をかき上げながらそう言う保を見上げて、ローズはにっこりと微笑んだ。
「そうね。これも、お互いこの年まで、同じ時間を過ごしてきたという歴史だものね」
いつの間にか機嫌を直したローズは、保に軽く口付けをすると、鼻歌を歌いながらキッチンへ去っていった。
昨日、メンテナンスから帰ってきた彼女は、以前より老化したことには気が付いたものの、
「相変わらず単純だな」
くすりと笑って、保も彼女の後を追ってキッチンへ向かおうとしたその時、玄関チャイムが来客を知らせた。
「はーい」
インターホンに向かって、軽やかに応対したローズだったが、液晶画面に映る人物を見て首を傾げた。
「あなた。誰かしらこの人」
ローズに手招きされ、保も彼女の後ろから小さな画面を覗き込んだ。
「……あ……」
そこには、面影に覚えのある老人が、薄汚れたジャケットに身を包んで立っていた。
「彼女は人間じゃないね」
ラボに通された老人は、お茶を出して去って行くローズの後姿を見つめて言った。
「君はアンドロイドが妻で幸せなのかい?」
フレームの歪んだ黒い眼鏡の向こうから、老人は保に鋭い視線を向けてきた。
「ええ。幸せです」
努めて冷静を装い、ティーカップを口に運びながら保が答えると、老人はくくくと肩を震わせて笑った。
「珠仙の開発したアンドロイドは、性交の真似事もできるみたいだからね。まあ、不足はないのだろう」
「今日は何をしに来られたんですか? 矢沢博士」
老人の下品な物言いに、保は嫌悪感を露わにして用件を急かした。
だが彼は内心、この男が金の無心に来たのだろうと確信していた。
随分前にマスコミが騒いでいたので、この男が女優のリズ・テナーと離婚したことは知っている。
原因は性格の不一致と報道されていたが、彼と結婚することで学界に交友関係を広めることに成功したリズに、体よく捨てられたのだろう。
以来、噂を聞くことさえなかったが、パトロンを失い研究もままならなくなった彼は、身なりから見ても落ちぶれた生活を送っているに違いない。
保がこの男に会ったのは高校生の頃、行方不明になった隼のマンションを訪ねた時の一度きりだ。
別に義理を感じる必要もない。
とはいえ、友人の養父である彼を粗野に扱うこともできずここへ通したのだが、いくらか金を握らせてさっさと追い払おうと思っていた。
「珠仙は君に、何をさせようとしているんだ?」
だが、老人が口にした言葉は予想外のものだった。
「何って……」
質問の意図が掴めず、戸惑いを見せている保に向かって、矢沢はテーブル越しに身を乗り出してきた。
「アンドロイドの次は、人体に装着する人工脳を開発しようとしているんじゃないかね?」
「……」
老人の口から、公表されていない事実が飛び出したことに驚き、保は大きく目を見開いた。
確かに今彼は、珠仙博士のもとで、脳死状態の人体に埋め込む人工脳の研究を進めている。
「
「……どういう意味ですか?」
眉をひそめる保の前で、ソファから立ち上がった矢沢は、ガラス張りの壁に近付いて、その向こうに広がる庭を見つめた。
その視線の先には、楽しそうにバラの手入れをするローズの姿があった。
「アンドロイドは、しょせんアンドロイドだ。だが、頭に機械を埋め込まれた人間は、人と呼べるのか?」
「……」
「プログラムひとつで、思い通りに動かせる。感情もコントロールできる。そこに人としての尊厳があると君は思うかね?」
「……でも、脳死状態の患者やその家族にとっては、救いになるはずです」
自分に言い聞かせるようにそう語る保を、矢沢はちらりと振り返って見て、大きなため息をついた。
「私が期待していたほど、君は利口ではないようだね」
「……」
一瞬ムッとして唇を噛み締めた保は、老人の背中を睨み付けた。
「あの男から、
「ネフィリム?」
男が口にした言葉を復唱しながら、保は遠い記憶を手繰り寄せていた。
確かあれは、ローズが死んでから数年後、同じこの場所で彼は珠仙博士に不思議な写真を見せられた。
雪の上に横たわる、ギリシャ彫刻の神ように端正な顔立ちをした少年。
その頭部に写っていた、ありえない比率の小さな手。
博士はその手を自分のものだといい、少年のことを巨人だと言った。
「奴はね、ネフィリムを兵器にしようとしているんだよ」
「……え……」
その瞬間、保の手からティーカップが床に落ち、赤い液体とともに薄い陶器の破片が足元に飛び散った。
「ネフィリムのクローンを作り出し、そいつに人工脳を埋めこもうとしている。つまり、クライアントが意のままに操れる巨人兵士だ」
「嘘だ!!」
保は思わずその場に立ち上がり、老人の白髪混じりの頭を凝視した。
ただならぬ彼の剣幕に向き直った矢沢は、ため息をひとつつくと、ガラスの壁にもたれかかって腕を組んだ。
「嘘じゃない。奴の野望を知ったからこそ、私は世紀の大発見であったネフィリムを雪の中に埋め戻し、あの男とも絶縁したんだ」
「……」
「その後奴は国に働きかけて、密かにネフィリムの遺体を雪山から運びだしている。そして採取した細胞から、クローンをすでに何体か作り出しているんだよ。幸か不幸か、これまではすべて、失敗に終わっているようだがね」
「失敗……?」
震える声で尋ねる保の顔を、矢沢は上目遣いに見つめた。
「そう。ネフィリムはね、現在の地球の重力では生きていくことができないんだよ。だから奴は、アレを必死に探している」
「アレ……?」
「そう。重力を操れる不思議な石、スフェラをね」
「あらあら、このティーカップ、割れちゃったのね」
矢沢が帰った後、ラボに食器を下げに来たローズは、無残に割れたお気に入りのカップを見つめて、悲しげに眉を下げた。
バラ模様の破片を拾う彼女の傍で、保はソファに腰掛けたまま、頭を抱え込んでいた。
「痛!」
不意に響いたローズの声に弾かれたように、保は顔を上げて彼女の手元を見た。
「私ったらドジね。切っちゃった」
そう言って口元に運ぼうとした彼女の指を、保は腕ごと引き寄せて自分の口に含ませた。
「やだ。保ったら……」
ローズは顔を赤くして、自分の指をくわえる夫の姿を見つめた。
(味がない……)
心の中でそう呟き、保は彼女の指を解放して、再び頭を抱え込んだ。
珠仙博士が作るアンドロイドの人工皮膚の下には、毛細血管に見立てたチューブが張り巡らされ、傷を負えば血も出る仕組みになっている。
だが、そこに流れる液体は赤く色付けされてはいるものの、錆びた鉄のような独特の匂いも、
それを実感して、改めて保は妻が人間でないことを認識した。
「なあ、ローズ、僕は何者なんだ?」
突然、妻の体を抱き寄せた保は、彼女の首筋に顔を埋めて問いかけた。
「何者って……。あなたはあなた、水里保でしょ?」
ローズは戸惑いつつもそう答えて、夫の背中を優しく抱き返した。
そんな彼女をさらに強く抱きしめながら、保は先ほどの矢沢とのやりとりを思い出していた。
「水里くん、これを見てくれるか?」
そう言って矢沢は胸ポケットから小型のタブレットを取り出し、ガラステーブルの上に置いた。
これは、画像や動画を3D化して、空間に映し出すプロジェクターだ。
間も無く、青白い光を放つ画面から、複数の人物像が浮き上がってきた。
ガラス板の上に立つように映し出されたそれは、まだ20代と思われる白衣姿の三人の青年たちの姿だった。
一人は黒縁の眼鏡をかけた黒髪の青年。
もう一人は、瘦せ型で神経質そうな印象の青年。
「左の眼鏡をかけているのが私。真ん中のこいつが珠仙」
矢沢は一人一人指差しながら、順に説明していった。
どうやら、これは彼らが若かりし頃の写真のようだ。
「そして、右端にいるこいつは、珠仙
「!!」
最後の人物に視線を移した瞬間、保の目はその顔に釘付けになった。
猫っ毛の茶色い髪。
目尻が少し下がった目元。
「……これは……私?」
眼鏡こそかけていないが、その青年の姿形は、保本人から見ても自分に瓜二つだった。
「郎はね、IQ300以上の天才でね。珠仙の自慢の弟だった」
「……」
「私たちは君と同じように、その頭脳を認められ、日本からアメリカへ呼び寄せられた研究者仲間だったんだ」
淡々と語る矢沢の話を、保は自分そっくりの男を見つめながら、どこか遠くに聞いていた。
「当時、私と珠仙はクローン、郎はAIの研究に没頭していたよ」
「……」
「でも郎は、この写真を撮った直後、不慮の事故に遭い、この世を去ったんだ」
その瞬間、保は唾を飲み込もうとしたが、乾ききった喉を血のような味と、かすかな痛みだけが通りすぎていった。
「でも珠仙は、弟が……というより稀代の天才科学者が、この世からいなくなったことを認めたくなかったんだな。だから……」
「私を……作った?」
絞り出すような声で呟く保に向かって、矢沢は大きく頷いて見せた。
「察しがいいね。そう。奴は弟の細胞から、君を生み出したんだよ」
「……」
「君は、郎のクローンだ」
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