第四話 スフェラの正体
『目を覚ませ、ダリアン』
翌朝、いきなり頭の中に怒鳴るような男の声が響いてきて、ダリアンははっと目を見開いた。
『いつまで寝ておるのだ。まったく』
仰向けに横たわったまま、少し寝ぼけた状態で目だけを左右に動かすダリアンの頭の中に、苛立ち混じりの男の声がまた聞こえてきた。
慌ててベッドから身を起こし、周囲を見渡してみたが、薄闇の中に見慣れた自室の情景が広がっているだけで、そこに人の気配はなかった。
昨夜飲んだ葡萄酒のせいか、鈍く痛む頭を抱え、そばにある窓から外を見る。
そこに広がっていたのも、朝霧にけぶる淡い群青の世界だった。
「なんなんですか。こんな朝早くから……」
覚醒していくにつれ、声の主の正体がわかったダリアンは、不機嫌そうにそう言って大あくびをした。
心地よい眠りの世界から引きずり出したのは、彼が誰よりも、目覚めが悪くなると思っていた相手だった。
『今すぐ神殿へ来い。お前に話しておきたいことがある』
「神殿に?」
声の主は自分の用件だけを伝えると、有無も言わさず、一方的に「同調」を遮断した。
「くそ親父」
その瞬間、ダリアンは膝に顔を埋めて、すでに声が届くはずのない相手に向かってそう吐き捨てた。
ダリアンが神殿のある丘の上へと続く石畳の道を登りきった頃、ちょうど日の出の時刻を迎えた。
尖塔と神殿の間に顔を出してきた
この時間のラーは、一日の中でも一番美しく神々しい。
思わず早朝に呼び出してきた父に感謝しそうになったが、すぐに首を左右に大きく振ってそんな思いを打ち消した。
大理石が敷き詰められた広場の奥に見える神殿に向かって歩いていると、逆光の中でうごめく巨大な人影が見えた。
ダリアンの4倍は背丈がありそうな巨人は、庭に立つ大木の枝に手を伸ばし、何かを捕まえようとしているようだった。
しばらく様子を見ていると、どうやら目的のものを捕らえられたらしく、丸みをもって重ねた手の隙間を、巨人は片目をつぶってそっと覗き込んだ。
「おはよう、ギルト。何をしているんだ?」
ダリアンが声をかけると、ギルトは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに人懐っこい笑顔を浮かべて、大切そうに何かを両手で包んで近づいてきた。
そうしてダリアンの正面で、跪くように腰を落とした巨人は、地面に手を下ろしてゆっくりと指を開いた。
すると、指が開ききる前に、一匹の黒猫が勢いよく隙間から飛び出し、広場を横切ったかと思うと、あっという間に茂みに姿を消して行った。
「あいつ、木の上から降りられなくなっていたのか?」
茂みから視線を戻し、吹き出しながら尋ねると、ギルトは嬉しそうに笑い、大きく頷いた。
「本当に、お前は優しいネフレムだなあ」
ダリアンの言葉に、ギルトは今度は顔を赤らめて、恥ずかしそうに頭を掻いた。
その昔、ネフレムが地上を支配していた頃、小さき人と呼ばれていたダリアンたちの祖先は、彼らから迫害されていたと言われている。
ネフレムは
だが、その最後の生き残りであるギルトは、そんな言い伝えが嘘ではないかと思わせるほど、純真で心の優しい少年だった。
話せないわけではないのに、彼が言葉を発しないのも、そんな優しさの表れのひとつだ。
これほどの身長差で言葉を交わそうとすると、互いにかなり大きな声を張り上げなくては届かない。
それでなくても、ネフレムの巨大な声帯から発せられる声はよく響くので、周りの者を驚かせたり、他の者の会話の邪魔をしてしまう恐れがある。
だから彼は、極力同調によって意思を伝え合うことにしているのだ。
幸い、彼が暮らす神殿では、有能者である神官が多く働いているので不自由を感じることはない。
手を伸ばせば神殿の天井に届くほどの背丈がある彼は、神官たちからも重宝がられ、建物の修理や高い木の剪定などをよく頼まれている。
心優しく、頼りになる巨人を慕う町の人々も多い。
そして何より、主人であるコールガーシャを心から敬愛している、忠実で心強い
ギルトと別れたダリアンは、神殿の入り口で一旦立ち止まり、大きなため息をついた。
ここに呼び出してきた相手の顔を思い出して、一気に気が重くなったのだ。
その時、神殿の隣に立つ尖塔の鐘が、地面を震わせるほどの大音響を放ち始めた。
天を突くような金属音は、石造りの建物に反響して幾重にも重なり、周りの全ての音をかき消した。
「朝の祈りの時間か」
ダリアンは塔を見上げてそう呟き、開け放たれた入り口から急ぎ足で神殿の中へ入っていった。
神殿の入り口からは、まっすぐ奥に向かって回廊が伸びている。
左右に立ち並ぶ円柱の陰にはいくつもの木製のドアが見え隠れし、そんな回廊を抜けた先には、白い闇のように光が溢れていた。
光の中に目をこらすと、数百人が集えるほどに広く、天井も高い空間が広がっており、その一番奥には輝く
そして、その祭壇の前には、無数の老若男女が跪き、頭をもたげて一心に祈りを捧げる後ろ姿があった。
正面の壁には天井まで届く大きな窓が設けられ、そこから顔を出してきたラーと黄金のラーとが重なり、放射状となった光が居並ぶ人々を眩しく照らしていた。
人波の向こうには、一段高い場所で、黒髪を背中まで垂らした男が、ラーに向かって手を広げて立っていた。
重厚なグリーンの生地に金糸で刺繍が施された丈の長いガウンを羽織り、黄金の杖を手にした男は、背中を反らせて徐々に昇ってゆくラーを仰いでいた。
「ラーに感謝を!」
「ラーに感謝を!」
男が広間の隅々にまで行き渡る声でそう言うと、人々の群れも彼の言葉を反復した。
「ムーよ、永遠なれ!」
「ムーよ、永遠なれ!」
気がつけばダリアンも、場内の者たちと心をひとつにして、同じ言葉を口にしていた。
やがて、黒髪の男が人々の方へ向き直ると、彼の
「ラ・ムーに神の栄光あれ!」
すると、人々は今度は彼の言葉を繰り返した。
「ラ・ムーに神の栄光あれ!」
繰り返し浴びせられる人々の呼びかけを、帝王ラ・ムーは両手を大きく広げて全身で受け止めていた。
その姿は、朝陽に縁取られて光り輝き、内側から溢れ出す威厳と相まって、まさに地上に降り立った神の姿を彷彿とさせるものだった。
「ダリアン?」
祈りを終えて広間を後にする人々の群れの中に、自分の名を呼ぶ声がして、ダリアンは振り返った。
見るとそこには、皇子らしい衣装を纏ったコールガーシャがいた。
くるぶし丈の刺繍が美しいキトン(貫頭衣)の上に、真紅のヒマティオン(外衣)を巻きつけ、凛と立つ姿は、帝王としての品格をすでに備えていると思われた。
「朝に弱い君が、祈りの時間に現れるなんて珍しいね」
朝陽の中で見る皇子の笑顔は、いつもにも増して眩しく輝いて見えた。
「父に呼び出されたんです」
面白くなさそうに口を尖らせるダリアンの顔を見て、コールは口元に手を当てて吹き出した。
「アルデオに? お説教でもされるのかな」
「こんな朝っぱらから、勘弁して欲しいですよ」
ダリアンが眉を下げて大きなため息をつくと、コールは今度は声をあげて笑った。
「昨日は付き合ってくれてありがとう。レムリアも喜んでいたよ。またいつでも遊びにきてくれ」
ひとしきり笑い終え、そう言うコールに、ダリアンは苦笑いを浮かべてコクリと頷いた。
「ダリアン!」
その時、祭壇の方向から、彼の名を呼ぶ声がした。
その声に同時に振り返った二人だったが、声の主を確認すると、もう一度顔を見合わせて肩で笑った。
「じゃあ、がんばれ」
皇子はそう言って小さく手を振ると、入り口の方へ向き直り、人混みの中に消えていった。
「遅い!」
ダリアンが祭壇へ近づいていくと、銀の杖を手にした初老の男が、険しい面持ちで待ち構えていた。
すでに場内から人々の姿は消え失せ、石の壁に囲まれた巨大な空間に、彼の怒鳴り声だけが響き渡った。
「話とはなんなんです? 父上」
今朝、一方的に同調を遮断された仕返しに、今度は父の言葉を無視して、ダリアンが要件を急かした。
そのまましばらく黙って睨み合っていた二人だったが、次の瞬間、大神官アルデオは息子に背を向けて早足で歩き始めた。
「黙ってわしについてこい」
「いったいどこに?」
息子の質問に一切答えることなく、父は無言で歩き続け、やがてその後ろ姿は祭壇の裏側に消えて行った。
何一つ納得がいかないダリアンだったが、小さく舌打ちをして、仕方なく父の後を追った。
ダリアンが祭壇の裏へ足を踏み入れたのは、この時が初めてだった。
見上げると、窓から差し込む朝日に照らされて、輝く黄金のラーの背面がそびえ立っていた。
「よそ見をせずに、よく見ておけ」
初めて間近に見た黄金像に圧倒されていたダリアンだったが、その声に慌てて父の方へ向き直った。
アルデオが杖の先で指し示す石の床に目を向けると、そこにはオリーブの実ほどの小さな穴が空いていた。
首を傾げて見ている息子の前で、父は両手で杖を持ち、その末端を穴に垂直に突き刺して右に半回転させた。
カチリという音がして杖を持ち上げると、かなりの重量があるはずの床石が、杖に貼り付いたような状態で軽々と宙に浮いた。
そうして、石がめくられた床には、人が十分通れるほどの穴が開き、地中の闇に向かって続く階段が見えた。
「こんなところに……地下室でもあるのですか?」
驚くダリアンの背を押して、アルデオは先に行けと促した。
恐る恐るダリアンが階段を降りて行くと、父もその後に続き、今度は杖を逆さに持って石を持ち上げ、入り口に蓋をした。
ズシンという重い音とともに、周りは闇だけの世界になり、再びカチリという鍵が閉まるような音がした。
照明のない闇の中の階段を、父と子はゆっくりと下っていった。
視覚以外の感覚も鍛えている彼らには、反響音から空間の広さや形状を判断する能力があるため、暗闇の中でも躊躇なく動くことができる。
この階段がある空間は、天井はかなりの高さがありそうだが、左右は人がすれ違えるほどの幅しかないようだ。
ダリアンは、自分の足音と前を行く父が床を突く杖の音に意識を集中させて、慎重に足を進めていった。
やがて、階段を下りきったところに立ち塞がるものを感じ、手で触れてみると古い木製のドアのようだった。
軋むような音を立てて、アルデオがそのドアを押し開くと、隙間からぼんやりとした赤い光と、嗅いだことのない異様な匂いが漏れ始めた。
「これは……!」
開け放たれた入り口から内部を目にしたダリアンは、驚きのあまり言葉を詰まらせた。
そこには、大理石でできたベッドのような台の上に、大量の褐色の多角柱の石が無造作に積まれていた。
手のひらに収まるような小さな石の一つ一つが、闇の中に淡い光を放ち、石で作られた部屋の壁を赤黒く染めていたのだ。
「スフェラ?」
「触るな!」
思わず台に駆け寄ろうとしたダリアンの体を、銀の杖が制した。
「それは神聖なる石だ。気安く触るでない」
動きを制されたダリアンは、改めて周りを見回し、台の足元に散らばっている何かに気がついた。
闇に近いほど淡く赤い光の中に、いくつもの丸いものや棒状のもの、そしてボロ布のようなものが、散乱しているのが薄っすらと見えたのだ。
「うわ!」
身をかがめて、足元に転がる丸いものに顔を近づけたダリアンは、次の瞬間、驚きの声をあげてその場に尻餅をついた。
丸く白く見えたもの。
それは、銀色の長い髪が生えた人の頭蓋骨だったのだ。
震えながら他のものにも目を配ってみると、それらも皆、人の骨や、彼らが身につけていたと思われる朽ちた着物だった。
「この骨は、我々の祖先。歴代の大神官のものだ」
「なんだって……?」
あまりのことに、ダリアンは尻餅をついたまま、目を見開いて唇を震わせた。
「我々大神官の最後の仕事は、ここでラ・ムーの死を見届けることなのだ」
確かに、ダリアンの祖父も、曽祖父も、死亡したとの知らせが王宮からきても、遺体が家に戻ってくることはなかった。
また正式に公表こそされていないが、歴代の大神官の死はラ・ムーの死期と重なっているため、殉死しているのではないかということは、人々の間で暗黙の了解のようになっている。
だが、このような場所で死を迎え、埋葬もされずに放置されているとは、想像もしていなかった。
「でも、ラ・ムーは……?」
気持ちを落ち着かせて、もう一度周りを見回したダリアンは、ふと疑問を持った。
その死を見届けるのが大神官の役目なら、王の遺体もここにありそうなものだ。
だがここには、棺らしきものもない。
死後、王の遺体だけが運び出され、違う場所に葬られているのだろうか。
「歴代のラ・ムーはそこにいらっしゃる」
そう言った父の視線を追った先には、台の上で鈍い光を放つ無数の石があった。
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