第十二話 幻影
あれから幾日が過ぎたのだろう。
時間の感覚がない地下牢の隅で、ダリアンはもう何時間も膝を抱えてうなだれ続けていた。
彼のもとには、朝夕の二回、味気のない固いパンとコップ一杯の水が運ばれてくる。
その回数から察するに、ここに入れられた日から、すでにひと月あまりは過ぎている。
その間彼は、入浴はおろか、着替えさえも与えられていない。
あの日着ていたきりの神学校の制服は、血と汗と泥にまみれ、あちこち剣に切り裂かれてボロ布のようになっていた。
軽やかに風になびいていた銀色の髪は、ぬめりを帯びて頭皮に貼り付き、頬のこけた顔を髭が覆っていた。
牢の中は排泄する場と寝床の境もなく、眠気が襲ってくれば臭気をこらえながら、汚れた藁の上に横たわるしかない。
「あれが崇高な大神官様だってよ」
足に鉄輪をはめられ、虚ろな目をしてうずくまる彼を見て、兵士らが鼻をつまんであざ笑う。
嘲笑され、家畜のような環境下で生かされている毎日は、彼の中から神官としてだけでなく、人としての尊厳さえも奪っていった。
こんな醜態を晒して生き続けるくらいなら、いっそ何も口にせず、餓死してしまおうかと何度も思った。
だがその度に、スフェラが熱を持って輝き、彼をこの世に留まらせた。
『コール様は俺に何をさせようとしているのだろう』
淡く輝くスフェラを見るたびに、苦痛と屈辱から解放させてくれない友人を、恨めしく思ったりもした。
『ダリアン……いや、大神官殿』
ある日、いつものように膝を抱えるダリアンの頭の中に、聞き覚えのある老人の声が響いてきた。
『……ロギオス?』
同調で話しかけてきたその声は、神学校で教えを受けたロギオス(教授)だった。
『おお、よかった。生きておられた』
『ロギオスもご無事でしたか』
久々に聞く恩師の声に、ダリアンはほっと胸をなでおろし、懐かしさに目頭が熱くなるのを感じた。
『大変な目に遭われましたな。今はどちらに?』
『神殿の地下牢に捕らえられています。学徒たちは皆無事ですか?』
仲間の無事を問うダリアンに、ロギオスは一瞬言葉を詰まらせたが、しばらくすると悔しさを滲ませた声色で答えを返してきた。
『残念ながら、何人かは命を落としました』
『……そうですか……』
絞り出すように小さく呟いたダリアンは、目を閉じて在りし日の学友たちの顔を思い起こした。
若さゆえの小さな悩みはあったが、神官になれる日を信じて仲間と夢を語り合っていたあの頃。
つい最近まで当たり前だった毎日が、まるで遠い昔のことのように思われた。
悪ふざけをする自分たちを、背後でいつも微笑みながら見守っていたコールガーシャ皇子。
その彼も、もうこの世にはいないのだ。
『コール様のことも……伺いました』
コールがいない現実を改めて実感し、無口になったダリアンに、老人は低い声で語りかけてきた。
『先日、トトという軍人が同調で声をかけてきましてね。あなたの身に起きた出来事を、全て語ってくれたのです』
『トトが……』
自分がここでこうしている間にも、若き軍人は彼の置かれている状況を、恩師に伝えてくれていたのだ。
おそらく彼からの報告により、ロギオスは自分が父から大神官を受け継いだことも知ったのだろう。
『大神官ダリアン殿。気持ちを強く持たなくてはなりません。我々神官は、あのような野蛮な独裁者には決して屈しません』
ふと、老人はこれまでとは一転した強い口調で言った。
『ロギオス……』
心強さの感じられる恩師の言葉に、ダリアンが胸を熱くしていると、突如、牢の奥の暗い岩肌の前に、白く輝く薄もやのようなものが立ち上り始めた。
『?!』
息をのむダリアンの前で、それは少しずつ濃度を増しながら、徐々に人の形らしきものを成していった。
やがてそれは、顔かたちが判別できるほど鮮明になっていき、気がつけば白い髭を胸まで伸ばした老人が目の前に立っていた。
「ロギオス……これは……」
あまりのことに言葉を詰まらせるダリアンに向かって、ロギオスは微笑みながらゆっくりと手を差し伸べてきた。
思わず握り返そうと伸ばした彼の手は、皺だらけの手のひらをすり抜け、虚しく宙をつかんだ。
『これは同調で送った私の幻影です。生身のあなたに触れることはできません。しかし、幻影同士であれば、互いに干渉し合うことができるようになります』
『幻影……?』
『これまで私があなた方に教えてきた同調とは、思い描いたイメージや言葉を相手に伝えるだけのものでした。しかしこれからは、幻影も使えるように訓練いたしましょう。時間がありませんから、これまでより少々厳しくさせていただきますよ』
未知なる能力の存在を知り、ダリアンは驚きの表情で、少し透けて見える老人の姿を見つめ続けていた。
『たとえその身は鎖で繋がれていても、精神までは縛ることはできない。そのことを不届き者どもに思い知らせてやりましょう』
そう言って、老人はグレーの瞳を鋭く光らせながら、口元だけで笑って見せた。
その日から、ロギオスはダリアンの元へ幻影として現れ、彼に新たな能力を伝授し始めた。
『もっと精神を集中させて、具体的にイメージを思い描いて。そこにあるものを心で触るつもりになって』
最初は老人の言わんとすることがなかなか実践できず、苦心したダリアンだったが、日が経つごとに薄もや状にしか成せなかった幻影を鮮明に形作れるようになり、より遠くまで意識を飛ばせるようにもなっていった。
ロギオスによると、幻影も以前は同調のように神官になる者は皆会得していたが、悪用する者が現れたため封印されたらしい。
同調が自分が見たことや感じたことを相手の頭の中にイメージとして送るのに対し、幻影は離れた場所へ飛ばした意識を視覚化し、その場にいるかのように見聞きもできる能力だ。
意識体である幻影は、壁や扉を自由に通り抜けることができるが、それゆえ生身の人間に触れることができない。
だが、相手も幻影であれば、普通の人間同士のように干渉しあえるそうだ。
また、多くの者は訓練次第で自分の影を作れるようになるが、特に能力の高い者は、想像した人物や動物の幻影をも自在に操れるようになるという。
老人が去った後も、ダリアンは能力を高めるため、幻影を飛ばして鉄格子をすり抜け、神殿の広間まで行ってみたりもした。
幻影は同調と同じく、あえて相手に見せようとしなければ、他人の目には映らない。
そのため番人や牢の前を通りがかった兵士らは、壁際でうずくまったまま動かない彼を見て、抵抗することを諦めたのだと思い込んでいるようだった。
『大神官殿、私のところまで来ることができますか?』
数ヶ月が過ぎたある日、眠りにつきかけていたダリアンの中に、ロギオスの声が響いてきた。
夕食が運ばれてきてからしばらく時が経っているので、すでに時間帯は深夜かと思われた。
ダリアンは膝を抱えて目を閉じ、幻影を飛ばしてロギオスの意識の在りかを探した。
いつものように鉄格子を通り抜け、地上へ続く暗い階段を登り、広間から通路を抜けて神殿の外まで出てみる。
そこで相変わらず赤く渦巻いている空を見上げ、再びロギオスの意識を探す。
『あっちか』
眼下に広がる街並みを見回し、その向こうにある緑が繁る森で視線をとめたダリアンは、軽く地面を蹴りつけた。
すると彼の体はふわりと宙に浮かび、鳥のように空を飛ぶことができた。
空から見下ろした町は、数ヶ月が経った今もほとんど手付かずのようで、瓦礫の山が延々と続いていた。
『このような荒れた町で、民はどのような暮らしをしているのだろう』
無残に壊れた家々を見下ろしながら、ダリアンはそこに暮らす人々の現状を
町の上空を過ぎると、その先に広がる森の中に、ぼんやりと白く輝く光の塊が見えてきた。
それに導かれるように、ダリアンは木々の間をすり抜け、ひときわ光が強く輝いている少し開けた場所に降り立った。
『ダリアン様!』
『大神官様!』
その瞬間、いくつもの声が彼の名を呼んだ。
周りを見回すと、そこには神官や神学校の学徒、そして王家直属の兵士らが、彼を幾重にも取り囲んで立っていた。
数百人にものぼるかと思われる人々の群れは、ある者は涙を流し、ある者は嬉しそうな笑みを浮かべて彼の顔を見つめていた。
淡く白い光に包まれ、少し体が透けた様子から見ると、みな幻影を飛ばしてここに集まってきているようだ。
『これは……』
ダリアンが驚きを隠せずに立ち尽くしていると、男たちの群れの中から、ロギオスとトトが進み出てきた。
彼らも他の者たち同様、本体は別の場所にあり、幻影だけをここへ送ってきているらしかった。
『お待ちしておりましたよ。大神官殿。しかし、その姿ではいけませんね』
ダリアンのボロボロの服と、汚れた体を目にしたロギオスは、顔をしかめてそう言うと、目を閉じて念を込めるような仕草を見せた。
すると、白い光が一瞬ダリアンの体に纏わりつき、それが消えると彼の衣服は純白の神官服に変化し、身体中の汚れも落ちていた。
『今度から来られる時は、その姿をイメージして幻影を飛ばしてください。人間としての尊厳を持ち続けるためにも、身なりを美しく整えることは大切です』
そう言って白髪の老人は、にこりと笑った。
その後、男たちは現在のムーの状況を口々に語り始めた。
彼らの話によると、空が赤い闇に包まれラーが消えて以来、やはり昼と夜の区別はなくなってしまったそうだ。
偵察に行った翼竜隊の説明では、神殿を中心としてしばらく飛行していった先に見えない壁ができており、近付いて行くと跳ね返されて、そこから先には進めなくなるのだという。
どうやら海底火山も、島にあった火山もこの壁の外側にあったため、ムーは災害から逃れ、滅亡を免れたようなのだ。
想像するに、スフェラが放つ球状の赤い光の中に、この国はすっぽりと覆われてしまった状態らしい。
だが不思議なことに、ラーが消えた今でも、海に出れば魚介は獲れるし、農作物もこれまで通り育つのだという。
そのため町に暮らす人々は、海へ船を漕ぎ出し、瓦礫の隙間に小さな畑を耕すことでわずかながら食料を得て、日々命をつないでいるというのだ。
『ガゼロ将軍は何をしている? 国を立て直そうとはしていないのか?』
あの男は、災害に乗じて王家を滅ぼし、無理やり政権を奪った。
憎むべき相手ではあっても、結果的に国や民のために尽力しているのならまだ救われる。
しかし、ここへ来るまでに空から町を見た限りでは、復興が進んでいる様子はなかった。
眉をひそめて問いかけるダリアンに、一人の兵士が悔しそうに奥歯を噛み締めながら答えた。
『幻影で潜入して調べましたところ、あの男は大陸にある大国エノルメに内通し、そこからの支援を受けて、この国を王家から奪いとるつもりでいたようなのです』
『なんだって?』
『エノルメの王は、あの男を領主に据えることで、この国を拠点にして周辺諸国に侵攻するつもりだったのです』
『そして将軍は侵攻時兵を差し出すことを王に誓い、その見返りに、征圧した国から奪った資源の一部を貰い受ける約束をしていました』
男たちの話を聞いて、ダリアンは思わず頭を抱え込んだ。
武力によって他国を征圧し、命や資源を奪えば憎しみが生まれる。
それにより戦いが始まれば、民はそのしわ寄せにより苦しめられ、決して国が潤うことはない。
そのようなやり方は、歴代のラ・ムーが最も憎んでいたものだ。
それでも長い歴史の中で、幾たびも争いが勃発したというが、彼らは膨大な時間をかけて、周辺国と交易による友好関係を築いてきたのだ。
『しかし、見えない壁によってこの国が外界から閉ざされたことで、あの男の思惑は大きく外れたのです』
『……?』
『戦うべき相手を失った兵士たちの闘争心は、やがて民衆へと向かい始めました。エノルメから送られてくるはずであった支援が届くはずもなく、兵糧が尽き始めると、彼らは町に出て略奪や殺人を繰り返し始めました』
『なんてことだ……』
ダリアンは再び額に手を当てて、大きくうなだれた。
天災によって壊滅状態となった町で、それでもわずかな食料を自ら調達し、必死に生きようとしている民から物や命を奪うなんて。
『兵士らの不満が鬱積する中、反逆を恐れ、将軍は見て見ぬ振りを決め込んでいます』
『ラーが消えてしまったこの国は、秩序を失い、今度こそ本当に滅びてしまうのでしょうか』
男たちはダリアンを取り囲み、すがるような目をして彼ににじり寄ってきた。
圧倒され、言葉を失っていたダリアンだったが、しばらくすると、何かを心に決めたように大きく息を吸い込んだ。
『王家の
直後、ダリアンが発した言葉に、一同は一瞬理解に苦しみ、怪訝な表情を浮かべて彼を見つめていた。
『祭壇に刻まれていた
その瞬間、不安に曇っていた男たちの顔が、安堵と希望の光を取り戻して輝いた。
そして、誰からともなくその場に跪き、両手を上げては地面に伏せるを繰り返して、ダリアンに向かって祈りを捧げ始めた。
『ラ・ムー』
『ラ・ムー』
『コール様、聞こえていますか』
男たちの祈りの声が響く中、ダリアンはベルトの上からスフェラにそっと触れた。
『ラ・ムーを信じる者たちがいる限り、俺はまだ当分、そちらに行けそうにありません』
そんな彼の声に応えるように、緋色の石は彼の手の中で熱をもって輝いていた。
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