第五話 林檎のジャム
講堂の前の広場で、隼は大柄な少年と向かい合っていた。
それぞれ木製の剣を手にした彼らは、もう長い時間微動だにせずに、鋭い視線を送って互いの出方をうかがっていた。
そんな二人の様子を、他の学徒たちは、少し離れた場所から固唾を飲んで見守っていた。
「うりゃあ!!」
先に静寂を破ったのは、少年の方だった。
(左)
その瞬間、彼の心を読んだ隼は、滑るように右へ身をかわした。
「くそ!」
悔し気に舌を鳴らした少年は、素早く身を翻すと、再び剣を振り上げて飛びかかってきた。
(今度は右、左、また左。次は下から振り上げてくるか)
次々と剣を突きつけてくる少年の心を読み、隼はその都度攻撃から身をかわし続けた。
やがて、少年の息が上がり、動きが鈍くなってきたところで、隼は剣を天高く振り上げた。
「うわああ!!」
突然の反撃に、防御する間も無いと悟った少年は、思わず固く目を閉じた。
「?」
激しい衝撃と痛みが襲ってくると覚悟していた少年は、しばらくたっても自分の身に何も起こらないことに疑問を感じて、恐る恐る目を開けた。
すると、喉元ギリギリのところに剣先が迫り、その向こうに青く光る三白眼があった。
「はい。お前の負け」
そう言って剣先で少年の顎をクイと持ち上げて、隼はニヤリと笑った。
その言葉に少年は膝から崩れ落ち、四つ這いの姿勢で肩を落とした。
直後、学徒たちの間から、大きなどよめきと拍手が起こった。
「すごいなメシア。あいつは
「これなら、大神官様ともいい勝負ができるんじゃないか?」
学徒たちは口々に賞賛の言葉を発しながら、隼の周りに集まってきた。
(ちょろい)
羨望の眼差しを向けてくる学友たちを見て、隼は得意げに笑った。
学徒相手の武術練習なんて、彼にとっては遊びのようなものだった。
特殊な能力を持つ神学徒といえども、彼の敵ではなかった。
もちろん、相手も心を読み、次の攻撃に備えることができるのだが、隼の心を読むスピードは他の者たちとは比較にならないほど早かったのだ。
その分、彼には相手の次の動きを判断し、備える時間が十分に持てる。
人よりも多少、身体能力や瞬発力が恵まれているとはいえ、まともに武術を習ったことなどなかったが、この能力が優れている分、彼の方が他の学徒たちより有利だった。
「では、次は私が相手になりましょう」
ふと、群がる学徒たちの後ろから、大人の男の声がした。
その声に振り返り、声の主が誰かを確認した者から、慌てて左右に分かれて道を作り始めた。
そんな少年たちの間を通り抜けて、銀の杖を携えたダリアンが、ゆっくりと隼のもとへ近付いて来た。
少し距離を保って立ち止まった彼の顔を、隼は上目遣いに睨みつけた。
「ふん。光栄だね。大神官様が直々に手合わせをしてくれるなんて」
不敵な笑みを浮かべて木剣を構え直す隼を、ダリアンは冷めた目で見下ろしていた。
(やばいな……)
口では強気なことを言ってみたが、隼は内心焦りを感じていた。
心に完全に蓋ができるこの男相手では、彼の先読みの能力は活かせないのだ。
微かに目を泳がせる隼に、ダリアンは伏し目がちになってふっとため息をついた。
「ご安心を。フェアに戦うために、私も心を解放いたしましょう」
「……え?」
戸惑う隼の前で、突然、ダリアンが地面を蹴って宙を舞った。
「!!」
身を守ろうと咄嗟に構えた隼の木剣に金属の棒がぶつかり、耳をつんざく大きな音がした。
一旦杖を引き戻したダリアンは、間髪を入れずに、今度は水平方向から打ち込んできた。
危うく体を反らして攻撃を避けた隼だったが、そんな彼の胸すれすれのところを、杖の先が弧を描いて通り過ぎて行った。
その後も、縦横無尽に襲ってくる攻撃を、隼はすんでのところでなんとかかわし続けた。
いや、正確には彼はかわしてなどいなかった。
彼がかわせるギリギリのところを、ダリアンは敢えて狙ってきているのだ。
隼の鼻の数ミリ先を、杖の先が風を切って通り過ぎていく。
その瞬間、銀色の軌跡の向こうに、冷たく光るオリーブ色の瞳が見えた。
確かにダリアンは、心に蓋をしていない。
だが、隼には相変わらず、彼の心を読むことができなかった。
(無……)
そう、ダリアンの心の中は今「無」なのだ。
つまり、無意識で攻撃を仕掛けてきている。
意識の無い者に対抗する術など、隼は持ち合わせていなかった。
「くそ!!」
徐々に追い込まれていった隼は、木剣を大きく振り上げて反撃を試みた。
だが、それにより無防備になった彼の腹部に、銀の杖が迫ってきた。
(しまった!)
そう思った直後、みぞおちに激しい痛みを感じ、気が付けば彼は地面を背中で滑るように後方へ飛ばされていた。
辺り一面に砂埃が巻き上がり、学徒たちは思わず目元に手をかざして瞳を閉じた。
やがて、砂埃が左右に流れて視界が開けると、銀の杖を手に立つダリアンと、仰向きに倒れる隼の姿があった。
「おおおお……」
静かなどよめきとともに、白装束の男へ向けられた学徒たちの瞳には、羨望と恐怖の色が入り混じっていた。
「いってえ……」
しばらくは身動きが取れずにいた隼が、みぞおちを抱えて、ゆっくりと上半身を起き上がらせた。
「蓋をしなくても、心を無にしたら一緒じゃん」
上目遣いに睨みながら恨み言を言う隼に、ダリアンは呆れたように鼻から息を吐き出した。
「心を無にできるのは、私だけではありませんよ。例えば、アチャがそうであったように、頭で考えるより先に体が動くようなタイプには、あなたの能力は活かせません」
「……」
「おそらく、あなたはアチャと勝負をしても、惨敗していたでしょうね」
「……」
言い返す言葉を失った隼は、ダリアンから視線をそらして、面白くなさそうに口元を尖らせた。
「それなら、テト。もしかしたら、お前ならメシアに勝てんじゃね?」
ダリアンの話を聞いて学徒の一人が、アチャの息子であるテトの腕を小突きながらそう言って笑った。
「何だよそれ。俺が親父に似て筋肉バカだって言いたいのか?」
「誰もそこまで言ってねえじゃん」
不機嫌そうに頬を膨らませるテトに、他の学徒たちも声を上げて一斉に笑った。
一時の緊張感が解け、少年たちが笑い声をあげる中、隼はダリアンの顔を離れた場所から睨みつけていた。
「テト、今からプテラに乗って、空を飛び回ろうぜ」
講義後、神殿前の広場を歩きながら、隼はそう言って前を歩くテトの背中を勢い良く叩いた。
「え〜。メシアの操縦は乱暴だから嫌だよ」
あからさまに顔をしかめて拒否するテトに、隼は「ちぇっ」と舌を鳴らした。
剣術の訓練中、ダリアンに打ち負かされた彼は、空を飛んで気分を晴らしたいと思っていたのだ。
「じゃあ、代わりに俺が付き合おうか?」
そばで二人のやりとりを聞いていた小太りの学徒が、背後から隼の肩を抱いて申し出てきた。
「あ、お前は無理。体重オーバー。プテラがかわいそうだ」
彼の体つきを見て、隼があしらうように手を振ると、そばにいた他の少年たちが一斉に笑い声をあげた。
その声につられて、気が付けば隼も声を出して笑っていた。
ムーに来て、半年あまり。
先日十七歳になった彼は、神学校の中等部に進級し、制服のヒマティオンと額に巻いたスカーフの色も、オレンジ色に変わった。
いつの間にか校内でも親しく話せる仲間が増え、最近では彼らとふざけ合って過ごすこんなひとときが、楽しみのひとつになっていた。
「あの……」
ふと、背後からか細い女の声が聞こえた。
その声に振り返ると、小柄な栗色の髪をした少女が、モジモジと身をくねらせて立っていた。
ニーメと同じ色のヒマティオンを纏っているので、巫女見習いかと思われるが、隼はその顔に覚えがなかった。
「よかったらこれ……召し上がっていただけませんか? 神殿の庭になった林檎で作ったジャムなんですけど……」
少女はそう言って、木の蓋で閉じられた、小さな素焼きの壷を差し出してきた。
「え? あ、ああ、サンキュー?」
突然のことに、戸惑いながらも隼がそれを受け取ると、少女は顔を真っ赤にして勢い良く頭をさげ、少し離れた場所でたむろう巫女仲間の元へ逃げるように去って行った。
状況が掴めないまま、隼がその背中を目で追っていると、少女が輪に加わった途端、巫女たちは「キャー」という黄色い声をあげた。
「ちぇっ。あの子もメシア狙いかよ。ちょっと可愛いかもって思ってたのにさ」
隼の後ろで、先ほどの小太りの学徒がため息まじりに言った。
「最初のうちはみんな怖がって近付きもしなかったくせに。急に色目を使い始めやがって」
「……そう……なのか?」
驚いて聞き返す隼に、学徒は「気付いていなかったのかよ」と、呆れたように目を手で覆って空を仰いだ。
「なんかあんた、女には全然興味ねえって感じだもんな」
小太りの学徒の後ろから、テトも話に加わってきた。
「それとも、もう本命がいるとか?」
「……」
テトの問いかけに、隼は一瞬言葉を失い、その場に固まった。
「申し訳ありません!!」
その時、さっきまではしゃぎ声を上げていた巫女たちが、誰かに大声で謝る声が聞こえた。
何事かと振り返ると、少女たちが慌てた様子で神殿へ引き返していく姿が見えた。
そして、彼女たちが立ち去ったあとには、腕組みをした莉香が、隼の顔を睨み付けて一人で立っていた。
「まったく失礼しちゃうわ!!」
宮殿の廊下を、莉香は鼻息を荒げて大股気味に歩いていた。
「あの子たちが矢沢くんの毒牙にかからないようにって見守っていたのに、なんで私が
「毒牙って……。お前なあ」
ドスドスと床を踏みつけるようにして歩く莉香を見て、隼は大きなため息をついた。
どうやら彼女は、隼が巫女見習いの少女たちに手を出さないようにと見張っていたところ、逆に彼のお目付役と勘違いされ、恐れられたらしいのだ。
「みんな、あなたの実態を知らないから……!!」
怒りが収まらない様子の莉香に、再び大きなため息をつきながらも、隼は自分自身の変化に驚いていた。
以前なら、相手が自分に気があるかどうかは心を読めばすぐにわかったし、そうなればこちらからアプローチをかけて、さっさと落としていた。
だが最近は、むやみに人の心を読むことはなくなっていたし、それ以前に、女たちから自分がどう見られているかなんて、意識してさえいなかった。
『それとも、もう本命がいるとか?』
さっき、テトにそう尋ねられた時、一瞬頭の中にニーメの顔が浮かんだ。
だがすぐに、彼女が前世妻だったと聞いて意識しているだけだと、自分に言い聞かせてその影を振り払った。
「メシアが?」
思わずニーメは、じゃが芋の皮を剥く手を止めて聞き返した。
ここは宮殿内にある調理の間。
陽が暮れ始めるこの時間、王族や神官たちの食事を用意するのも、彼女ら巫女見習いの日課だった。
「そう。私が作ったジャムを受け取ってくださったの。もしかして、脈あり……かも?」
彼女と同じ巫女見習いの少女は、そう言って顔を赤らめた。
彼女は今日、隼に手作りのジャムを手渡した、栗色の髪をした少女だ。
ニーメとは同期で、名をネオラという。
「でも、私たちは巫女なのよ。恋愛はご法度なのに、どうするつもり?」
慣れた手つきで皮をむきながら、別の少女がネオラに尋ねてきた。
「もちろん、もし両思いになれたら、巫女をやめて彼のためだけに生きるわ」
そう口にした直後、ネオラは「キャー」と小さく叫び、真っ赤になった顔を両手で押さえた。
すると、周りで作業をしていた少女たちが、しきりに彼女を腕で小突いては、笑い声をあげてからかいだした。
「ねえ。それって、いずれメシアがラ・ムーを引き継がれたら、あなたがお妃様になるってこと?」
「やだー。まだ気が早いわよー」
もみくちゃにされながらも、幸せそうに笑っているネオラを見て、ニーメは複雑な感情を持て余していた。
それは、わけもなく胸のあたりがもやもやとして、息が詰まりそうな、彼女にとって初めて味わう感情だった。
『でも、お前はそれでいいのかよ? あいつのことが好きなんだろ?』
ふとなぜか急に、以前隼が口にした言葉が頭の中に蘇ってきた。
(好き……。そう、私はダリアン様のことが……)
でも、なぜだろう。
あの時、彼がそのことを口にした瞬間、どうしようもなく悲しい気持ちになって、涙が溢れ出たのだ。
そして今また、ネオラの話を聞いて、彼女の心は激しく乱れていた。
隼の隣にネオラが寄り添う姿を想像したニーメは、咄嗟に目をきつく閉じて、左右に大きく頭を振った。
(いや)
心の中に響いた自分の声に驚き、ニーメはハッと目を見開いた。
相変わらず彼女の前では、少女たちが楽しそうに笑い声を上げてじゃれあっている。
そんな中一人、今にも泣き出しそうな顔をして、ニーメは胸に押し付けた拳に力を込めた。
(私……?)
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