第十四話 実体と影

「少し肩慣らしに付き合ってくれないか」


 ある日の午後、牢の前で大あくびをしている見張りの男に、ダリアンは背後から声をかけた。

 以前から彼は、がっしりとした体格で、腕が立ちそうなこの中年男に、密かに目をつけていたのだ。


「肩慣らし?」


 そう言って振り返った男は、そばにいた兵士と顔を見合わせてから、再び牢の中の汚れた青年を見下ろした。


「こんなところで何ヶ月もじっとしていると、体が鈍って足腰が立たなくなりそうなんだよ。運動がてら手合わせを頼みたい」


 青年からの意外な申し入れに、男は一瞬驚きの表情を見せたが、やがて愉快そうに鼻で笑った。


「へえ、大神官様が俺たちと腕試ししたいって言うのかよ」


 教本ばかり眺めていた神官が、兵士である自分たちの相手になどなるはずがない。

 だが、ただ牢の前で立ち続けることに飽き飽きしていた男は、いい暇つぶしができると思わず口角を上げた。

 そんな男の様子を見て、ダリアンも心の中でほくそ笑んでいた。

 巨体に似合わず、単純で人が良さそうなこの男なら、話に乗ってくるに違いないと予想していたのだ。


「では、お手並み拝見と行こうか」


 鼻歌まじりにそう言いながら、男は牢の柵に下げられた錠前に手をかけた。

 だがそんな男の動きを、そばで彼らの話を聞いていた兵士が手で制した。


「おい。いいのかよ。将軍に断りもなしに」


 思わぬ邪魔が入り、ダリアンの顔が落胆の色に染まった。

 仲間の助言に、一瞬は手を止めた男だったが、またすぐに鼻で歌いながら錠前を手に取った。


「この奥の広間でちょっと遊んでやるだけさ。地下から出さなければ問題ないだろう」


 直後、ガチャリという音と共に錠が外され、約半年振りに牢の扉が開け放たれた。





「ほらよ。大神官様」


 地下の奥にある広間までやってきた男は、ダリアンの手にかせられていた鎖を解き、木刀を投げ渡してきた。

 それを受け止めようと手を伸ばしたダリアンだったが、重さに耐え切れず木の棒は手から滑り落ち、床の上を転がっていった。

 長い間、狭い牢の中に閉じ込められていた彼の体は、想像以上に筋力が衰えていたのだ。


「おいおい。そんなんで大丈夫かよ。大神官様」


 青年のやせ細った手足を見て、男は少し気の毒そうに眉をひそめた。

 そんな男の声には答えず、黙って木刀を拾い上げたダリアンは、気をとりなおして持ち手の部分を両手で握り、構えの姿勢をとろうとした。

 だが、彼の腕力では木刀を持ち上げているだけで精一杯のようで、柄を握る手は微かに震えていた。


「運動のつもりなのだから、遠慮せずにかかってきてくれ」


 今にも折れそうな体で強気な視線をぶつけてくる彼を見て、男は「ふん」と鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべた。

 この国では、神官は神に近い存在として、人々に敬われている。

 それに対して彼ら兵士は、恐れられこそすれ、野蛮な乱暴者と軽視されているのだ。

 神官と兵士が剣を交えることなど、通常ではありえない。

 長年積もらせてきた劣等感を晴らす絶好の機会だと、男は舌舐めずりをした。


「では、遠慮なく……」


 そう言うや否や、男は木刀を振り上げてダリアンに襲いかかってきた。






「痛え……」


 ダリアンは地下牢の中で、身を丸くして痛みに耐えていた。

 あの後彼は予想していた通り、反撃する間さえ与えられず、あっけなく打ちのめされた。

 木刀を使っていたとは言え、全身のあちこちには青アザができ、場所によっては肉が裂けて血が流れ出ていた。


「大丈夫ですか? 大神官殿」


 夜になり交代で来た見張りの男が、柵越しに彼を見下ろして言った。


「ああ、おかげでいい運動になったよ」


 ダリアンは青くなった腕をさすりながら、苦笑いを浮かべて言った。

 彼の言葉を負け惜しみと捉えたのか、男は呆れたようにため息をつくと、柵に背を向けて姿勢を直した。

 痛みに苦しみながらも、ダリアンは心の中で満足していた。

 なぜならこの日、彼にとっての目的への第一歩は成し得たからだ。

 夜な夜なカスコに武術を習っているとはいえ、所詮それは幻影でのこと。

 技術として頭で覚えることはできても、実体でそれがそのまま生かせるわけではない。

 まずは体を動かす機会を得て、筋力を取り戻すこと。

 そしてその後は、兵士らと手合わせをする中で、覚えた武術を実体でも試して身につけていくこと。

 そうやって生身の体でも戦闘力を高めることが、彼の目的だった。



「おい。大神官様」


 その時、牢の外から野太い男の声が彼を呼んだ。

 振り返ると、先ほど手合わせをした男が、木製の器を携えて柵の外に立っていた。


「怪我の様子はどうだ。かなり痛むか?」


 力と体格で明らかに劣る者を相手に、手加減しなかったことを恥じているのか、男は頭を掻きながら、気まずそうに訊ねてきた。


「これくらい大丈夫だ。よかったら明日もまた相手をしてくれよ」


 さすがにもう懲りたはずと思っていた男は、彼の言葉を聞いて目を見張った。

 だがしばらくして、ため息をひとつついた男は、身をかがめて手にした器を柵の隙間から差し入れてきた。


「ほら、これを食え。そんなガリガリの体をされてちゃ、オレが弱い者虐めをしている卑怯者みたいだろ」


 器の中を覗いて見ると、火で炙った骨付の羊の肉が入っていた。

 ここに捕らえられて以来、味気のないパンと水以外口にしていなかったダリアンは、思わず喉をゴクリと鳴らした。

 男は一瞬背後を振り返り、周囲に目を配ると、再びダリアンの方へ向き直って小さく手招きをした。


「あんた、強くなりたいんだろ?」


 首をかしげながらダリアンが顔を近づけると、男は柵越しに小声でそう囁いた。

 本心を見抜かれて焦るダリアンに、男はにやりと笑って見せた。


「あんたさっき、いい目をしていたよ。神官なんて腑抜けた奴ばかりだと思っていたが、あんたを見て少し見直した。暇つぶしに、オレがあんたを強くしてやるよ」


 親指を立ててそう言うと、男は素早く立ち上がり、ガチャガチャと鎧がぶつかり合う音を残して去っていった。





 それからダリアンは、地下の広間でこの男、アチャから剣を習うようになった。

 ムーが外界から閉ざされ、戦うべき敵をなくした兵士らも時間を持て余しているようで、神官が打ちのめされる様を見ようと面白半分で集まって来た。

 だが何度やられても果敢に立ち向かっていく青年の姿を見ているうちに、兵士の本能である闘争心が疼き始めたのか、仲間と木刀で打ち合いだす者が現れ、いつしか広間は男たちの闘技場へと化していった。

 おそらく、ラーがなくなった世界へ対する不安は、兵士らに取っても同じなのだろう。

 王家も絶えた今、主導者となるはずだったガゼロ将軍は、大国からの後ろ盾を失って以来、国のために動く様子がない。

 そんな未来へ対する行き場のない鬱憤が、罪のない民たちにやいばを向けさせていたのかもしれなかった。

 だが、ここで打ち合い、熱狂することが適度なガス抜きになり、兵士らも少しずつ落ち着きを取り戻しつつあるように思われた。





「大神官様、あんた臭うな」


 ある日、一試合を終えたダリアンが肩で息をしながら観戦していると、隣に並んだ男が鼻を歪めてそう言った。


「ああ、もう何ヶ月も洗ってないからな」


 べとついた髪を掻き毟りながら彼がそう答えると、男は突然彼の手を掴み、強引に地下を流れる用水路のそばまで連れて行った。

 そこで男は、桶を手に取り水をくみ上げると、ダリアンの頭上からそれを一気にぶちまけた。


「な、何をするんだよ!」


 氷のように冷たい水をいきなりかけられ、ダリアンは思わず叫ぶような大声をあげた。

 そんな彼の声を聞いて、観戦していた男たちも何事かと集まってきた。

 だが、水をかけた男は、何食わぬ顔で彼の髪を洗い始めた。


「お前たちは体を洗ってやってくれ。このままでは臭くてかなわん」


 銀色の髪を乱暴に洗いながら、男は集まってきた男たちに声をかけた。

 するとその声に応えて、数人の男たちが、彼の体からボロ布のようになった制服を引き剥がした。


「ちょ……!」


 衣を剥かれ、強引に地面に押し倒されたダリアンは、迫りくる男たちの手を払いのけようと手足をばたつかせた。


「しばらくおとなしくしてろ」


 暴れる彼に、一人の男がどすのきいた声でそう言いながら、鋭く光る剃刀カミソリの刃を喉元に押し付けてきた。


「!!」


 恐怖にダリアンが身を固めると、男は頬に刃を当て直し、伸び放題だった髭を剃り始めた。

 



 その後、ダリアンは男たちに全身の汚れと垢を落とされ、真新しい麻のキトン(貫頭衣)を着せられた。

 伸び放題だった髪も、本来の艶を取り戻し、首元でひとつに束ねられた。


「はは。男前になった」


 すっかり綺麗になった彼の姿を見て、男たちは満足そうにそう言って笑った。

 そんな男たちの顔を見て、ダリアンも照れくさそうに笑った。

 しばらく同じ時を過ごすうちに、いつの間にか彼らの間には、友情にも似た奇妙な感情が芽生え始めていた。





「将軍は今度は、パテロ大尉を処刑したらしいぞ」


 その日もいつものように広間で観戦していると、兵士らが口にする噂話が耳に入ってきた。

 ダリアンは、聞こえていない振りをして広間を見つめたまま、密かに耳をそばだてた。


「もうこれで何人目だよ。くわばら、くわばら」


 王家から政権を奪ったガゼロ将軍だったが、背後に大国エノルメがあるということが、彼にとっては唯一の求心力だったのだ。

 そのため、ムーが外界から閉ざされ、後ろ盾を失った彼から、家臣たちの心が離れていくのに、そう時間はかからなかった。

 加えて、ラーが空から消えたのは、彼が王家を滅ぼしたことによる呪いであるとの噂が流れ、将来へ対する不安が不満となって、一気に将軍へと向けられ始めたのだ。

 兵士らの反乱や、暗殺を恐れた将軍は、近頃では自室にこもったきり、ほとんど外へも出てこないのだという。

 やがて疑心暗鬼に陥った彼は、少しでも自分に刃向かうような意見をする者がいれば、いわれのない罪を押し付けて処刑するようになったという。

 これにより、ますます兵士らの心は将軍から離れ、軍部は実質的に空中分解しているらしい。

 だが、下手に動いては命取りになると、誰も声を上げることができないまま、皆諦めの境地で日々を過ごしているようだった。







 その夜、森の中にある広場で、神官姿のダリアンはカスコ隊長と向かい合って立っていた。

 それぞれの手には真剣が握られ、二人はにらみ合ったまま、もう長い時間微動だにしていなかった。

 周りを取り囲む男たちも、そんな彼らの様子を息をのんで見守っていた。


『行きますぞ!』


 先に静寂を破ったのはカスコだった。

 巨体に合わせた大振りの剣が、風を切る音とともにダリアンに迫ってくる。

 鈍色の刀身が振り下ろされた直後、ダリアンは頭上で水平に剣を構え、その攻撃を阻止した。


 ガキーン!


 耳をつん裂く金属音が響き渡り、赤い闇の中に火花が散った。

 十字に絡み合った剣身が、歯の浮くような嫌な音を立てて擦れ合う。


『ほう。なかなか』


 やいば越しに、殺気立ったダリアンの目を見て、カスコは感嘆の声をあげた。

 どんな重傷を負おうと、命を落とすことのない幻影では、真の恐怖を感じることはないはずだ。

 だがこの日の青年の目からは、やらなければやられるという実戦を経てきたような、凄みが感じられたのだ。


『だが、まだまだ!』


 決着をつけようと、カスコが再び長剣を大きく振りかぶった瞬間、青年の姿が彼の前から忽然と消えた。


『どこに行った?』


 周囲を見回して青年の姿を探すカスコの背後に、人が立つ気配がした。


『そこか!』


 大男はその気配に向かって、今度は水平に大きく弧を描いた。

 だが、差し向けたやいばは手応えのないまま虚しく宙を切り、そこにいたはずの気配も再び消えていた。

 その後も、次々と現れては消える気配を仕留めようと、カスコは宙を斬りまくった。

 次第に体力を消耗され、激しく息をつく彼の背後に、確かな気配が感じられた。


『覚悟!』


 今度こそ逃さないと、カスコは間髪入れずに振り返り、一気に剣を振り下ろした。

 見るとそこには見慣れない服を着たダリアンが立っており、振り下ろした剣は青年の胸を貫いていた。


『しまった……!』

 

 思い余って重傷を負わせてしまったかとひるんだ瞬間、背中に殴られたような衝撃を覚え、同時に全身に激痛が走った。


『え……?』


 何が起きたのかも理解できぬまま、足に力が入らなくなり、彼は膝を折って前のめりに崩れ落ちた。

 背中から生ぬるいものが伝い、地面に落ちて血溜まりを作った。

 薄れ始めた意識の中、薄く目を開けると、正面に皮のサンダルを履いた若い男の足が見えた。

 痛みをこらえながら見上げると、そこには神官服を身につけ、血が滴る剣を手にしたダリアンが真顔で立っていた。


『やられたか……』


 彼に背中を斬られたのだと理解したカスコは、力が抜けたように突っ伏した。

 だがふと違和感を覚え、もう一度顔を上げてみると、そこには同じ顔をした青年が二人立っていた。


『どういうことなんだ……?』


 今見た光景が夢かうつつかもわからぬまま、やがて彼は深い意識の底へ沈んでいった。





 カスコはハッと目を見開き、弾かれたように上半身を起こした。


『気がつきおったか』


 自分の置かれた状況を確かめようと周囲を見回すと、そばに難しい顔をしたロギオスが立っていた。


『気を失っている間に、背中の傷は治してやったぞ』


(そうだ。俺はあの若造にやられたんだ……)


 徐々に記憶が戻ってきた彼は、まだ若干朦朧とする頭を抱え込んだ。


「すまない、カスコ。痛かっただろう」


 背後から聞き慣れた青年の声が聞こえてきて、カスコは勢い良く体ごと振り返った。

 そこには、丈の短い麻のキトンを身につけたダリアンが、片膝を立てて座っていた。


『大神官殿こそ大丈夫なんですか? 確か胸に剣が……』


 あの時、自分の剣は確かに彼の胸に突き刺さっていた。

 ロギオスに治療されたとはいえ、かなりの重傷を負い、一度は瀕死の状態になったはずだ。


「ああ、君に刺されたのは実体だったから大丈夫だよ」


『……実体?』


 眉をひそめるカスコの前で、ダリアンの体から白い霧状のものが立ち上り始めた。

 みるみるそれは人の形を成してゆき、気がつけば同じ顔をした二人の青年が、彼のことを見つめていた。

 一見、全く同じ姿かと思ったが、一人は見慣れた神官服を身にまとい、もう一人は丈の短いキトンを着ていた。


「そう。俺が実体。そいつは幻影」


 神官服を着た青年を指差して、キトン姿のダリアンは笑った。

 しばらくは驚きのあまり言葉が出ないカスコだったが、やがて納得したように大きく頷いた。

 幻影は実体には干渉できない。

 だから彼は、胸に剣が刺さっても平然としていたのだ。

 そして自分は、幻影の彼に背中を斬られたのだろう。


『驚いたな。でも、地下牢ではあんたがいなくなって、騒ぎになってないかい?』


 事態が飲み込めたカスコは、感心しながらダリアンの実体に問いかけた。

 実体がここに来ているということは、牢に彼の姿はないはずだ。

 夜間とはいえ、さすがに見張りも気がつくだろう。


「大丈夫だよ。牢にも幻影を置いてきたから」


『え?』


 ダリアンの言葉に、カスコは再び言葉を失った。

 通常、幻影は意識を視覚化したものだから、同時に複数発生させることはできない。

 しかも、幻影を飛ばしている間の実体は、意識が抜けているため、個別に行動することなどできないはずだ。

 だが、さっき彼を翻弄したダリアンの実態と幻影は、明らかに別々の行動をしていた。

 その上、牢にもダミーを残してきているとは、一体この青年は何体の幻影を同時に操れるのか。

 カスコはこれまで、世襲制の大神官など名ばかりだと思っていた。

 だが、目の前の青年の能力の高さを知り、彼が自分たちとは明らかに異なる存在なのだと初めて実感した。


「俺は武術では、長年鍛え上げてきたあんた達には到底敵わない。だから、幻影を利用させてもらったんだ」


『ふふ。大神官殿とは思えない、姑息な手ですな』


 カスコは、尊敬と自嘲が混じった複雑な笑顔を浮かべて言った。

 その言葉に、ダリアンは一瞬バツが悪そうに頭を掻いていたが、ふと真顔に戻り、心の中を探るような目で師匠を見つめてきた。


「どんな手を使ってでも生き延びること。それが何より大事なことなんだろ?」


 そう言って若い大神官は、歯を見せてニカリと笑って見せた。

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