37th. 第二側妃の秘密
〈提案?〉
植物が止まった。オスヴァルトの話に耳を傾けるように、一斉に。
アンネも何を言うつもりだと、オスヴァルトの横顔を見上げる。
「対価の変更を願い出たい」
〈それはつまり、花嫁をくれないってこと?〉
「アンネを渡さないということだ」
「わたし⁉︎」
なぜかアンネが一番驚いた。マルティナはぽかんと口を開けているし、ラルクは対照的に顔色一つ変えず息子を見ている。
〈嫌だよ。その娘は気に入ってるほうなんだ。僕のものだよ〉
「それでは困る。私にはアンネしかいない」
「はあ⁉︎」
またしてもアンネが素っ頓狂な声を上げる。耳まで熱を持っている気がして、アンネは耳を塞ぎたくなった。
「代わりに、貴殿が本当に欲しかったものを対価としよう」
〈本当に、欲しかったもの? 花嫁だけど〉
「違う。花嫁というものが一番分かりやすかったから、そう思っただけだろう。でも貴殿は、きっと別のものに飢えている。だから花嫁を得ても癒されない。それは、この先同じことを繰り返していても、埋まることはないだろう」
聞く価値はあると思ったのか、はたまた興味をそそられたのか、植物がオスヴァルトの周りに集まってくる。
〈ねぇ、愛し子。僕はこれでも妖精王だ。妖精がそうであるように、嘘は大嫌いだよ。その言葉に、嘘偽りはない? 君は僕の渇きを潤せる? 嘘だったら……怒りで殺してしまうかもしれないよ?〉
「そんなのっ」
あまりの理不尽に、オスヴァルトでなく、アンネが抗議しようとしたが、
「構わない。自信はある。ただ万が一貴殿が満足できなかったとしても、私も無抵抗で殺されるつもりはない」
毅然とオスヴァルトが言い返した。
それにほっとしたのは秘密だ。だって彼は以前、アンネになら殺されてもいいと言った。その時のように、まさか殺されることを簡単に了承するつもりじゃないだろうなと、不安になったのだ。
〈……そう。あっさり殺されてもいいと言うなら、信用できなかったけど。いいよ、聞いてあげる。君は嘘をつかなさそうだ。でも今日はもう起きてられないから、話はまた今度ね〉
そう言って、アンネが呆然としている間に、植物は戻っていく。いつのまにか庭園は元どおりになっていた。ぱちぱちと目を瞬いても、もうあの龍のような地脈は見えない。
「――父上、お話があります」
落ち着いた、穏やかな声だった。常の彼の、聞いていて安心する声。けれど今日は、その声音に緊張の色が垣間見える。
この微妙な空気に、アンネは戸惑った。とりあえず、自分は退散したほうがよさそうな空気であることは感じとる。
でも、オスヴァルトが提案した、妖精王への新たな対価が気になって、どうしても足が動かない。
「アンネ、私たちも帰るぞ」
「でも……」
「大丈夫だ。私もその皇太子には期待している。花嫁が解放されるなら、これ以上喜ばしいことはない。だから今は二人にさせてやろう」
「もしかして、マルティナは何か知ってるのか?」
師の口ぶりは、これからオスヴァルトが父親にする話を、まるで聞かずとも知っているようなものだった。
「まあ、だいたいの予想はつく。だから帰ろう。あれは私たちが踏み込んでいい話ではない。――ラルク」
マルティナは気安い様子で皇帝を呼ぶ。彼はマルティナを一瞥すると、すぐに背を向け歩き出してしまった。マルティナはどこか呆れたようなため息をついたが、あの一瞥で、どうやら二人は意思疎通を終わらせたらしい。
「アンネ」
「オスヴァルト? あの……」
「待っていてくれ、アンネ。近いうちに、必ず迎えに行くから」
「え? ちょ、おいっ」
言うだけ言って、オスヴァルトは父の背を追っていく。
結局、一番の当事者であるはずのアンネが、一番状況を理解できずに放り出されてしまった。
何事もなかったように揺れる草木のさざめきが、アンネの心に波紋を残した。
***
妖精王が目覚めかけたあの事件から、三か月が経った。直後は、皇城は何やらひと騒動あったらしいが、平民にまでその余波が来ることはなかった。
だから、アンネはやはり取り残されたような気分を味わう。あんなに関わり合いになりたくないと思っていたのに、今は何が起こったのか知りたくて仕方ない。
ここ最近、ずっと上の空だ。ふとしたときに思い出すのは、オスヴァルトの顔だった。
(そういえば、結局マルティナは教えてくれなかったな)
この、胸の内に存在する、オスヴァルトへの複雑な思いを。
マルティナが帰ってきてから、アンネはそれをさりげなく聞いたのだ。けれど師は「それは人に教わるものではない。以前ならまあ、邪魔をしたかもしれないが、今はあえて何も語らないでおこう」とわけの分からないことを言った。アンネが余計に混乱したのは言うまでもない。
でも、意味のないことを、マルティナは言わない。だから考えた。自分なりに。そうして分かったことがある。
今は、オスヴァルトを思うと、心がきゅうと狭まって、なんだか切ない。
(痛くて苦しいの次は、切ない、か)
「カァー!」
そのとき、ダークの鳴き声が響いた。あの事件以降も、変わらずダークはそばにいる。ただ変わったのは、アンネが丸焼きにしようとしても、ダークは「カァッ」としか鳴かなくなったことだ。もしかしたら妖精王は、一度目覚めかけた影響で、今もまだ深い眠りについているのかもしれない。
「どうした、誰か来たのか? 銭ババ?」
「カァー」
「違うのか。じゃあ誰だろ」
なんと、ダークの微妙な鳴き方の違いで、はいといいえが聞き取れるようになったアンネである。
扉がキイと音を立てて開く。そこから顔を覗かせたのは、アンネもよく知るレナルドだ。
「なんだ、じいさんじゃないか。久しぶり」
「ああ、久しぶりだねアンネ。元気だったかい?」
「元気だよ。じいさんとマルティナは?」
実は、あれから少しして、マルティナはレナルドの屋敷で暮らすようになった。完全にエルフリーデをアンネに任せ、店にも時々顔を出すくらいである。
ただ、元とはいえ、マルティナも王の花嫁だ。それは大丈夫なのかと訊くと、師曰く「私はもう必要なくなったからな。じき、おまえもそうなれる」と。
つまり、妖精王の花嫁が要らなくなるということだろうか。首を捻ったが、マルティナはそれ以上答えてはくれなかった。
「わしらも元気だよ。それにしても、せっかくのお祝い事なのに、なんで部屋に閉じこもっているんだい、アンネ」
ぐっと喉に苦いものが込み上げる。触れられたくない話題だ。実は朝から、同じようにラウラたちにも誘われたが、アンネは頑なに店から出なかった。
「だって……ただ皇帝が変わっただけだろ?」
そう、冬も終わり。雪は溶け、早咲きの花が芽吹き始めるこの時期に。このエルディネラ帝国は、皇帝の代替わりという節目を迎えていた。
第三十一代目ラルク帝から、第三十二代目――オスヴァルト帝の誕生である。
祝い事と言うからには、国民はこの代替わりを喜んでいる。
「『だけ』なんかじゃないよ。だからほら、おいで。せっかく都はお祭り騒ぎで、お店も今日はお休みなんだろう? 楽しまないと損だよ」
「ちょ、じいさん待ってくれ。わたしは……」
無理やり腕をとられて、老人とは思えない力で引っ張られる。でもアンネは、今日だけは街に行きたくなかった。街に行けば皆が浮かれている。新しい皇帝の誕生を祝っている。
というのも、オスヴァルト帝は、今後は国内政策に力を入れていくとすでに宣言しているからだ。これで一般人が兵に駆り出されることがなくなり、高い税金もいくらか安くなる。失業した傭兵たちには未開拓地での仕事を与え、地方の貧困街対策にも出るそうだ。
問題は山積みとはいえ、とにかく大半の国民は、これ以上税金が高くならないという分かりやすい政策を歓迎した。
さらにオスヴァルト帝は、即位の前に一度、国民にその顔をお披露目した。どうやらその際、彼は国内の女性たちの心を鷲掴みにしたらしい。触れてみたくなるさらさらの黒髪。夜空のように深い青眼。一見すると冷たい印象なのに、彼の低く穏やかな声と合わさると、包容力のある魅力的な男性に様変わりする。
貴賤問わず、また年齢問わず、爆発的な人気を集めているらしい。街でオスヴァルト帝を模したぬいぐるみを見かけたときは、思わず顎が外れそうになったアンネである。
つまり、何が言いたいかというと。
見たくなかったのだ。そんなオスヴァルトを。あんなに近かった彼が、一気に遠くなってしまった気がして。
「悪いけど、わたしは興味ないんだ。誰が皇帝だろうと、どうでもいいよ」
「そんなことはないだろう? もしアンネがこれから先、花嫁を続けなければならないなら、それこそ皇帝とは協力していかないといけないからね」
「それは……城にさえ入れてもらえれば、別にいい」
「でも本来花嫁は、城の白宮で暮らすのが慣例だ。先々代とマルティナが特例だっただけだよ。それは聞いているね?」
アンネは頷く。レナルドは、マルティナの事情を、ひいては妖精王の花嫁について、全て知っていた。だから事あるごとに、彼はアンネに言っていたのだ。「まだわしらのかわいいアンネでいておくれ」と。
そして、だから、マルティナのことをずっとそばで見守っていた。
「もともとマルティナは、また白宮で暮らせるよう、先代陛下に働きかけていた。そのほうが花嫁の安全を保障できるからね。それに王の眠るそばにいたほうが、力も出しやすいし、何かあってもすぐに対処できる」
「ああ、そう聞いた」
「でも今までは、白宮には別の住人がいたからね。そう簡単に花嫁を戻すことができなかった。それに……」
レナルドがアンネを見て、小さく眉尻を垂れ下げる。たぶん、「それに」に続く言葉は、アンネが一番分かっている。アンネはラルク帝を、憎んでいたから。
「だが、どういう名目で戻すつもりだったんだ? 妖精のことを信じない人間が多い今、妃でも何でもない人間を皇城の一画に住まわせるなんて、反対されるんじゃないか?」
「うん、だから、その妃として住まわせていたんだよ。今までずっとね」
そう言われて、アンネは優に一分ほど固まった。思考が追いつかない。妃ってなんだと自問して、次の瞬間には、
「妃⁉︎」
と叫んでいた。
「アンネは、ラルク帝の第二側妃について知っているかい?」
そういえば知らない。第一側妃についてはあんなに噂で聞いたのに、第二側妃の噂は聞いたことがなかった。
「マルティナは、名目上は、ラルク帝の第二側妃なんだよ」
「は⁉︎ ちょっと待って、ついていけない」
「まあ、気持ちは分かるよ。でも名目上だからね。実際は名前だけの存在で、白宮の秘密を守るためだけに作られた慣例だ」
「というか、なんでじいさんがそんなに詳しいんだ?」
「忘れたかい、アンネ。こう見えてわしも、貴族の一員だからねぇ」
「あ、そういえば」
すっかり忘れていた、と顔に出すと、レナルドは少しだけいじけて見せる。隠居してはいるけれど、彼は公爵だった。そしてマルティナは、ああ見えて伯爵令嬢だったのだ。
「そういうことだから、アンネ。次はおまえが、皇帝陛下の側妃になるんだよ」
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