30th. 攻防
アンネは結局、また皇太子宮に戻ってきていた。オスヴァルトに抱かれたまま、驚く兵士の横を通りすぎ、私室を抜け、ついには寝室の扉をオスヴァルトが足で蹴り開ける。常の冷静な彼とは違う乱暴な仕草に、私室で待機していたであろうフィンもぎょっとしている。
「殿下、何かあったんですか」
「ついてくるな。今夜はもうさがっていい。ギデオンにも、報告は明日でいいと伝えておけ」
「しかし」
「二度言わせるな」
「……かしこまりました」
フィンにまでこれほど冷たい対応を取っているのは、初めて見たアンネだ。彼は怒っている。でもそれは、自分に対してだと思っていた。それとも、周りに取り繕えないほど、アンネへの怒りが大きいのか。
窺うようにオスヴァルトの顔を見上げるが、相変わらずの無表情で、何を考えているのかは分からない。
ただ、寝台に下ろされるとき、意外と優しく寝かせられたことに目を瞬く。
「あの、オスヴァルト?」
「アンネ、これからいくつか質問する。正直に答えてくれ」
「あ、ああ」
あまりに真剣な瞳だった。だから、つい頷いていた。
「さっきの男との関係は?」
「赤の他人」
アンネは即答したが、オスヴァルトはわずかに眉尻を上げる。もしかすると、お気に召さない回答だったのかもしれない。
「そんな顔されても、他に答えようがない」
「では、あの男のために、あなたは
「はあっ?」
全く的を得ていない予測に、アンネは素っ頓狂な声を上げた。どうしてそうなるのか。
「わたしは、あんな奴のためには動かない。おまえの噂よりも酷い男だぞ」
「たとえば?」
「たと……? あー、六股に乱暴。あと変態だったな。あれは嗜虐趣味も持ってそうだ。目的のためなら手段を選ばない男っぽい」
「へぇ。そうか、嗜虐趣味か」
(え、なぜそこだけ拾った?)
オスヴァルトの纏う空気が、さらに不穏なものに変わる。アンネとしては、娼館で姐たちに聞かれたときと同じように、自分が思ったことをそのまま口にしただけなのに。
そこでようやく、アンネは自分の状況を思い出した。
(この体勢、どう考えてもおかしいよな?)
下にはベッド。上にはオスヴァルト。目が泳ぐ。たとえ今さらでも、逃げようと試みた。じり、と腰を動かす。
「まだ質問は終わっていない」
「えっ」
すると呆気なく両手を拘束されて、頭の上で縫いとめられる。腰まで引き寄せられて、本格的にまずい状況になっていた。
「ちょっと待て! 今、色狂い皇子になる必要はないよな?」
なのに、どうしてこんなことになっているのか。いつもオスヴァルトがこうなるときは、色狂い皇子の出番があるときだ。
でも、どう考えても、今は監視なんていない。
「あなたが逃げようとするからだ」
そんなことで? と喉まで出かかる。
「それに、どうやらあなたは、嗜虐趣味のある男が好みらしい。だったらこれくらい構わないだろう?」
「はあ⁉︎」
「でなければ、なぜあんな時間に、あんな場所で、二人きりでいたんだ?」
「あれはっ――」
言いかけて、口を噤む。あの場所にいた理由を言うには、グレースのことも言わなければならない。
どうしようと悩む。その悩んだ間が、余計にオスヴァルトを怒らせるとは、アンネは全く気づいていなかった。
「言えない理由か」
「そういうわけじゃ……。って、そもそもおまえだってそうじゃないか! なんであんなところにいたんだ」
「愚問だ。あそこは私の側室たちが住まう宮殿。私が夜にそこを訪れる意味など、聞くだけ野暮だろう?」
「!」
つまり、夜伽の相手として。
そう考えた瞬間、胸が強烈な痛みに襲われた。オスヴァルトに側室がいることなんて、初めから分かっていたはずなのに。その正体が他国からの人質だとしても、相手は姫君たちだ。その美しさに、オスヴァルトが惚れないとは限らない。
ほら、やっぱり自分は、オスヴァルトに恋をしているわけじゃない。こんな痛みを伴う感情は、あの輝きとは無縁だろう。
「……そうだな、野暮だ。聞いたわたしが間違いだった。でもこれだけは言っておく。わたしはあの男とは、本当にただの他人だ。おまえには以前話しただろう? アルミンが暴走したとき、怪しい人間を見たと」
途端、感情を失くしたように話し出すアンネに、オスヴァルトは眉根を寄せる。視線が合わない。
「さっきの男は、そのとき見た男だよ。どういうわけか、おまえの母親を狙っていた」
「……母上を?」
「ああ。でも安心しろ。わたしが必ずなんとかする」
「どういうことだ? なぜ母上が……。それにあなたも、母上を知っているのか」
「グレースはわたしの友人だからな。だから、友人のために、ひとつだけ言っておきたいことがある。――おまえの母親は、今もおまえを愛しているよ」
オスヴァルトの瞳が揺れた。
それを見て、アンネはグレースに賞賛を送りたくなった。――ああ、おまえの息子は、まんまと騙されている。母は精神を病んでしまったと、疑っていない。
でも、それではあまりにも寂しいから。
「ちゃんと、話をしてみたらどうだ?」
本当は、他人が口を出すことではないかもしれない。それでもアンネは、この不器用な親子が嫌いじゃない。ちょっとくらい、世話を焼いてもいいかと思うほどには。
「気をつけろ、オスヴァルト。おまえたちを狙っているあの男は、妖精と人間のハーフだ。変わった力を使ってくる」
「変わった力?」
「わたしもさっきは、そのせいで身体が動かなかった」
そう言うと、オスヴァルトはアンネの瞳をじっと覗き込んできた。まるで真実を探ろうとしているかのように。
「ではあなたは、自ら受け入れて触れさせていたわけではないんだな?」
「当然だ。そんなふうに見えてたのか? まあとにかく、あの男と目は合わせないほうがいい。さ、わたしが言えるのはこれくらいだ。もういいか?」
どいてくれ、と静かな声音が言う。その平坦さが、オスヴァルトを言い知れぬ不安に突き落とす。まるでアンネに拒絶されているようだ。
たまらなくなって、オスヴァルトはその小柄な身体を抱きしめた。
「おい?」
「今宵はもう遅い。ここに泊まっていくといい」
「いや、別に帰……」
「帰さない。女の夜道は、危険だ」
「じ、じゃあ隣、または別の空き部屋で休ませてくれ。最悪床でも十分だからっ」
「床でいいなら、この寝台でもいいだろう?」
「よくないけど⁉︎」
だんだんいつものアンネらしくなってきたことに、オスヴァルトは内心でほっとする。
ただそれは、自分の勘違いであったのだと、彼は次の瞬間理解した。
「だ、だいたい、こういうのはわたしじゃなくて、側室にお願いしたらどうだ」
「なに?」
「わたしを助けたせいでこっちに戻って来たんだろ? 今からでも、白宮に戻ったらどうだ」
ふいっと視線を外して、アンネは俯いた。すると、なぜか頭上から冷たい空気が流れてくる。不思議に思って顔を上げると、不機嫌そうな青眼がそこにあった。
「本気で言っているのか」
「え?」
「本気で、私に側室のところへ戻れと言っているのか」
「そう、だが」
さらに細められた瞳を見て、アンネは冷や汗を掻く。まさか、地雷でも踏んだか? と。
そう思ったときには、アンネは顎をすくわれて、嫌でもオスヴァルトから逃げられないようにされていた。射抜くように見つめられて、こんな状況でも胸が高鳴る。
「アンネ、それがさっきの言葉を気にして出た戯言なら、今回ばかりは許そう。だがそうでないなら、二度とそんなことを言えないように身体に教え込む必要がある。さて、どちらだ?」
「お、教え込む?」
いったい何を、と腰を引く。けどすぐに、オスヴァルトがまた抱き寄せる。悲しいかな、閨事については無知ではないアンネだ。
「私はもう何度もあなたに求婚している。それがどういう意味か、分からないわけではないだろう?」
――え、あれ本気だったのか。
とは、口が裂けても言えない。言ったら終わりだと、本能が警告する。
「私が妻にと望んだのは、あなたが初めてだ。そしてこれから先も、あなただけだ。側室は……訳あって維持しているが、全ての片がつけば廃止する。あなただけを愛すると約束しよう」
「あい……愛⁉︎」
「なぜそこで驚く。――まさか、伝わってなかったのか?」
互いに信じられないとばかりに、相手の顔を見つめる。オスヴァルトは嘘を言っているようには見えなかった。夜空みたいな瞳に、一片の曇りも見当たらない。
途端、なんだか見つめられているのが、ものすごく恥ずかしくなってきたアンネである。心臓がありえないほど暴れている。こんなに動揺しているのを、彼には知られたくないと思った。
「伝わってなかったのか……」
「いや、だってそんな、普通思わないだろ? おまえは皇太子で、わたしは平民で、しかも生意気でっ」
「身分差は、私自身は気にしない。だが周りは確かにうるさいだろう。ただ、探せば方法がないわけじゃない。それにアンネは自分を生意気だと言うが、私にとってはその飾らないところがいい」
物は言いようだと、混乱する頭の片隅でアンネは思う。
「他にも何か、気になるところが?」
「な、なんか今日のおまえ、やけに喋るな?」
「直球に言っても伝わらないと学んだからだ。あなたには結論と過程の説明が必要らしい」
なるほど。
「さては馬鹿にしてるな?」
「いや。ただ、伝わらないのは困るんだ。捕まえておかないと、あなたはすぐに逃げていくから」
「わたしは逃げてない。二度と来るなと言ったのはおまえじゃないか」
「確かに私だが……もしかして、拗ねているのか?」
「は?」
「側室とのことも、だからさっき、あんな戯言を言ったのか?」
まるで問い詰めるような空気だった。アンネが口を割らない限り、この尋問はいつまでも続くような。
勘弁してほしい。いつまでもこんな状態でいたら、自分の心臓が過労死してしまう。
「す、拗ねたというより、わたしだって傷つくことがあるってだけで……。おまえは隠し事ばかりだし、急に突き放してくるし。かと思ったら、助けてくれたり、今度はなんか距離も近かったり。わ、わたしばかり混乱してるから、気に食わなかっただけだっ」
「……すまない。隠し事については、いずれ話そう。今はまだ話せない」
「話せない?」
「あなたを巻き込みたくないんだ」
「そんなの、今さらじゃないか?」
胡乱げな目をしたアンネに、オスヴァルトは困ったように微笑んだ。
「それでも、話さなければまだ、あなたは引き返せる」
頑なに話そうとしないオスヴァルトに、アンネは落胆した。もしかして今なら話してくれるかもと思ったからだ。
きっと、その隠し事は、アンネが思うよりも重いものなのだろう。危険なことから遠ざけてくれるという彼を、はたして自分は喜べばいいのか。嘆けばいいのか。
アンネは、ゆっくりと深呼吸した。
「……分かった。それならこっちにだって、考えがある」
言うやいなや、アンネは両手を伸ばして、オスヴァルトの精悍な顔を引き寄せた。澄んだ夜空の瞳に口づける。
「ア、アンネ?」
滅多に動じない彼の、珍しく焦った声が耳に届く。
続いて、頬、首筋と、アンネはラウラに教わった通りに、できるだけ淫靡なキスを落としていった。時には啜って、時には舌先で舐めてみる。
「アンネっ」
たまらずオスヴァルトがアンネの肩を押す。狙い通り拘束が外れて、アンネはにやりと口角を上げた。
「閨事のことなら、わたしだって負けてないぞ」
オスヴァルトが目を見開く。
「いいか、そっちがその気なら、わたしは勝手に
「なぜ、それを……」
アンネは寝台から降りて、挑発的に笑った。
「言っただろう? 私は負けず嫌いなんだ」
それだけ言って、アンネは私室に繋がる扉を開けた。オスヴァルトは放心しているのか、追いかけてくる気配はない。
開けた瞬間、フィンがいまだに扉の前で控えていて、アンネはぎょっとした。もし中の会話が聞こえていたら、羞恥で死ねる自信がある。アンネはフィンを全力で無視して、完全に部屋から出ようとした。
そのとき、背後から静かな声がかけられる。
「あなたの偽物に、どうかお気をつけください、エルフリーデ殿」
扉が閉まるその隙間から、フィンが丁寧に一礼するのが見えた。
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