31st. 秘密の思い出


 オスヴァルト・クロイツという男は、やはり馬鹿だとアンネは思う。日をまたいだ今日も、その考えは変わらない。あの男は馬鹿だ。そして甘い。

 だから、あんなに疲れている。


(さてはわたしが誰だか忘れてるな、あいつ)


 不満と苛立ちで、知らず眉間にしわが寄った。


「難しい顔をしてどうしたの、アンネ?」


 前方からグレースの声が聞こえてきて、アンネは思考の淵から戻ってくる。まだ昼前だが、グレースは快くアンネを迎えてくれた。通された彼女の部屋は、すでに人払いがされており、あの年嵩の侍女しかいない。


「どうもこうも、おまえたち親子は手に負えないところが似ていて、うんざりすると思っていたところだ」


 そう言うと、グレースは「まあ」となぜか嬉しそうに綻んだ。アンネの無礼な態度に顔を顰めたのは、主君よりも年嵩の侍女のほうである。そんなところも似ていて、アンネはげんなりした。


「ふふ、嬉しいわ。あの子と似ているなんて、あまり言われないもの。でもわたくしも、あの子はあの人よりもわたくしに似ていると思うのよ。だって、髪色だけよ? あの人と似ているところなんて」


 みんな目が悪いわよね、とグレースは続ける。どうやら周りは、オスヴァルトは父親似だと思っているらしい。

 それはおそらく、戦でのオスヴァルトを見ての判断だろう。または噂でのオスヴァルト。国民の前に出ない皇太子だから、その人柄を知る人間は少ないに違いない。

 だってアンネは、彼と知り合ってから、彼が父親と似ているなんて一度も思ったことがない。

 真っ直ぐで、純粋で、人の痛みを知っている。彼が好んで戦っているわけではないことを、アンネは知ってしまった。たまに強引で、でも憎めないところは、グレースとよく似ている。

 アンネには、それが自分にとって良いことなのか悪いことなのか、よく分からなかった。

 父親に似ていないから、アンネはこんなにも彼に悩まされていて。

 父親に似ていたなら、きっと悩むことなく彼を憎めた。


「つまりわたしは、グレースに負けたということか」

「え?」


 唐突に呟いたアンネに、グレースが不思議そうに目を瞬く。そんな仕草も、目元も、曇りのない瞳も。やっぱりよく似ていた。


「いや、何でもない。おまえは立派な母親だなと、そう思っただけだ」

「!」


 それに彼女は、息子オスヴァルトのために精神が壊れた女を演じている。それは皇后としては、決して褒められた行為じゃない。

 けれど、人の母としては。アンネは好きだと思った。父親がその役目を果たさないのなら、せめて母親くらい、子供に優しくてもバチは当たらないだろう。


「ねぇ、アンネ」

「なんだ?」

「あなたやっぱり、オスヴァルトのお嫁さんにならない?」

「ぶっ」


 そういえば、この突拍子のなさも似ていたのだと、アンネは今さらながら思い出す。


「わたくし、実は娘もほしかったの。アンネがオスヴァルトのお嫁さんになってくれたら、わたくしの娘にもなるってことよね? 素敵!」

「『素敵!』じゃない!」


 何を言い出すんだと叫んだ。あまりにタイムリーな話題に、アンネは嫌でも顔が赤くなる。


「あら、あらあら? お顔が真っ赤よ、アンネ!」

「目を輝かせて言わないでくれるか⁉︎」

「だってその反応、アンネも満更じゃないってことよね? いつのまにオスヴァルトと知り合ってたの。そこから詳しく聞きたいわ!」


 まるで水を得た魚のようだ。こういう話題は、どう考えてもグレースに分がある。


「そんなことより! 先におまえの呪いについて話し合いたいんだが!」


 力いっぱい話を逸らすと、グレースも「そういえばそうだったわ」と急に大人しくなった。

 でも彼女の瞳は諦めていない。不用意に変なことを言うんじゃなかったと、アンネは内心で後悔した。


「それで、昨夜はどうだったの? わたくしに呪いをかけている妖精は、見つかった?」

「ああ、見つけたよ」


 来て数十分。すでに疲れの色を見せながら、アンネは頷いた。


「凄いわ、アンネ。そんな簡単に見つかるものなのね」

「妖精のことを知っていて、視える人間なら、誰だってできることだ。相談しないからこんな長引く羽目になってる」


 それは言外に、目眩で倒れてしまうまで、放っておいたことを指摘していた。

 そう、相談しないから、ただでさえ厄介なことが、余計ややこしくなっている。

 それはオスヴァルトも同じだ。


(わたしを前に、隠し通せるとでも思ったのか?)


 他でもない、妖精に関することで。

 オスヴァルトの疲労は、ただの過労じゃない。あれもまた妖精が関わっている。アンネはそれを、昨日の昼間、抱きしめられたときに気がついた。


「ふふ、そう言われると耳が痛いわ。でも、それだけわたくしを案じてくれているということかしら」

「話を逸らすな。まったく、おまえもあいつも、もっと人を頼ればいいのに」

「あら、それは無理よ、アンネ」


 扇を広げて、グレースはたおやかに微笑む。その慈愛に満ちた眼差しは、生前の母のものに似ていると思った。


「どうして無理?」

「無理というのは、わたくしではなくて、オスヴァルトがあなたを頼ることが無理だと言ったの」


 なおさらどうしてだと思った。アンネは代理とはいえエルフリーデで、オスヴァルトはエルフリーデの依頼主だ。そうでなくても、彼は人に命令できる地位を持っている。

 それでも頼れないということは、やはり自分は実力不足だと、切り捨てられたのだろうか。


「言っておくけれど、変な勘違いをしてはだめよ。あの子があなたを頼らないのは、あなたを巻き込みたくないからだわ」

「それ、オスヴァルトにも言われた。でも今さらだ」

「そう。ということは、あの子もエルフリーデであるあなたを、最初は頼ったのね」

「あ……」


 しまった、と思った。彼は言っていた。あまり自分が動いていることを、知られたくないのだと。

 アンネの表情から何かを察したグレースが、くすりと眉尻を下げる。


「心配しなくても大丈夫よ。わたくしは壊れているから、誰もわたくしなんて相手にしないわ。それに、あなたは何も喋っていない。わたくしが勝手に想像しただけ。でもそうね、じゃあやっぱりあの子は、あなたを気に入っているのね」


 そう言われて、心臓がどきりとする。昨日のオスヴァルトが脳裏に蘇る。逸らすことを許さない真っ直ぐな瞳は、嫌でもアンネを離さなかった。

 思い出すだけで、心がむず痒い。


「……おまえの話は、よく分からない」


 分からないふりを、していたい。

 だってアンネは、答えも、覚悟も、まだ何も準備できていないのだから。


「やだもうっ、真っ赤になってるアンネ、すっごくかわいいわ! ちょっとロザリー、今すぐ絵師を呼んでちょうだい。義娘むすめの照れ顔ゲットよ!」

「……」


 急に興奮し出したグレースに、アンネは一瞬で真顔に戻る。ロザリーと呼ばれた年嵩の侍女が、ちらりとアンネを窺ってきた。その意味を理解して、全力で首を横に振ったアンネである。


「そんなことより、おまえを呪っている妖精についてだが」


 興奮覚めやらぬグレースを無視して、アンネは勝手に話を進める。結局、グレースも渋々耳を傾けてくれた。


「やはりドリュアスで間違いなかった。この妖精は、自分の宿る木を傷つけられると、傷つけた奴を呪う習性がある。そこでひとつ訊きたいんだが、白宮の木に心当たりはないか?」

「白宮なら、あるわ。心当たり」


 思いのほか早い返事だった。


「今回おまえを狙ってる妖精は、そこにあった木に宿っていたんだ。ちなみに、どうして切った?」

「切ったのではないの。植えかえたのよ」

「へ?」

「実はね……」


 と言って、グレースは何があったか全て教えてくれた。

 なんでも、オスヴァルトの側室――他国の姫が、くだんの木を切ってほしいと願い出てきたらしい。本来ならそんな要望を通すことはないが、その木はグレースにとって特別なものだった。


「彼女は北国からのお姫様でね、ある日お散歩をしていたとき、木に集まる虫を見て卒倒したらしいの」


 北は極寒の地だ。一年を通して、草花が咲く時期は、瞬きほどあっという間である。だから慣れないこの土地では、よく体調を崩すらしい。

 そして人質の中では、わがままな姫だった。


「こちらが対処をしないと、彼女があの木を傷つけそうだったのよ」


 白宮の庭は、余すことなく人の手が加えられている。件の木以外、背の高い木はない。それ以外は左右対称になるよう計算され尽くした、人工美からなる庭園だ。

 本当は、そもそもあの木を植えてはいけなかった。


「あの木はね、わたくしの思い出の木なの。傷つけられるのは嫌だわ。だから、植えかえたのよ」

「どこに?」


 グレースがおもむろに立ち上がる。ゆっくりと窓際まで歩いていくのを、アンネは視線で追った。


「あそこよ。この窓から見えるように、植えかえてもらったの――」


 その後に続いた言葉に、アンネは驚きを隠せなかった。


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