32nd. 揺れ動く
アンネは昨夜に続き、白宮の庭園に来ていた。同行者に、同じ侍女の格好をした女がいる。グレースだ。目立たないための応急処置である。
二人が目的の場所に着くと、ドリュアスはすぐに姿を現した。
「代理人! なんでその女を連れてきたの⁉︎」
長い髪を逆立てさせ、目をつり上げてドリュアスが叫ぶ。聞こえているのはアンネだけだ。アンネは真っ直ぐとドリュアスを見つめて、静かに言った。
「おまえに、見せたいものがある。ついてきてくれ」
「見たいものなんてない! それともなに? その女を殺させてくれるの? だったらいいよ」
「でもグレースを殺せば、おまえの知りたいことが分からなくなるよ」
「……どういうこと?」
「いいから、ついて来い」
二人のやりとりが視えないグレースは、少しだけ不安そうにアンネの後ろに隠れていた。そんなグレースを一瞥して、ドリュアスは苦虫を噛み潰す。
ふわふわの髪、大きな瞳、ぷっくらとした唇。庇護欲をそそる女。ドリュアスは、そういう人間の女が一番嫌いだった。独りの自分と違って、差し伸べられる手がいくつもある女が。
そんな女が自分の唯一の拠り所を奪ったなんて、どうして許せよう。呪いさえ解かなければ、女はいずれ死ぬ。ならば、代理人の言う知りたいことを知った後でも、遅くはないだろうとドリュアスは思った。
「その代わり大したことじゃなかったら、代理人も覚えてなさいよ」
「ああ。わたしのことも、好きなだけ呪えばいい」
そうして三人がやってきたのは、グレースの私室から見下ろせる、皇后専用の庭園だ。といっても、こじんまりとした、グレースらしいかわいい庭。花は桃色が多く、小ぶりのものばかりだった。
そのなかに、ひとつだけ無骨な木がある。背が高く、まるで見下ろされているような威圧を感じられるほど、その木だけは異質だ。
ドリュアスが、息を呑む。
「これ……」
「おまえの木だな?」
「なん、で」
人間でいうところの、死者が甦ったくらいの衝撃を受けたドリュアスが、掠れた声で呟く。
ドリュアスの混乱など視えていないはずのグレースだが、彼女の問いに答えるように口を開いた。
「この木はね、わたくしにとっても、大切な木なの。これは――この木は、皇帝陛下がお植えになった木だから」
先ほどのグレースの言葉が、アンネの脳裏に蘇る。
――"この窓から見えるように、植えかえてもらったの。……あの人が、わたくしにだけ教えてくれた、秘密の木だから"
グレースの言う「あの人」なんて、アンネには一人しか思い浮かばなかった。だからびっくりした。皇帝が木を植えるのか、なんて、そんな陳腐な驚きではない。
そう言ったグレースが、昔を懐かしむように愛しげに瞳を細めたから。
経験のないアンネでも分かる。政略結婚で、そこに愛などないと思っていた。けれど、蔑ろにされている皇后は、確かに皇帝を愛している。そして皇帝もまた、皇后のことを憎からず思っていた時期がある。
でなければ、グレースがあんなに優しい眼差しで、
「この木の下で、あの人とはよくお話したわ。……知っていて? アンネ。白宮はね、今みたいになる前は、誰も住んでいない宮殿だったのよ」
「そうなのか?」
「ええ。長く使われていなくて、ぼろぼろだったの。だからかしら、気味悪がって、あまり人が寄らない場所でもあったのよ。今の白宮は改修された後の姿なの」
穏やかに語るグレースを、ドリュアスは呆然と見つめている。
「おかげで、白宮は秘密の場所だったわ。あの人にとってね。先代陛下に叱られるたび、よくそこでいじけていたそうよ。ふふ、おかしいでしょう? あんな人でも、かわいい時期があったのよ」
正直、到底信じられない話だった。けれどグレースの本質を知っているアンネは、それが嘘でないことも分かっている。
胸の中がもやついて、そこから目をそらすようにまぶたを伏せた。
「この木はね、そんな時期に、あの人が植えたものなの。今にも死にそうだったから、仕方なく植えてやったって言ってたかしら。わたくしには何のことかさっぱりで、でも、あの人が秘密だと言うから、わたくしは頷いたわ」
「……そうよ。私のために、彼は植えてくれた。……そう、あなた、あのときの女の子だったの……」
「秘密って凄いわよね。それだけで胸が高鳴って、簡単に頷いちゃうのですもの」
恋する乙女の顔で微笑むグレースを、ドリュアスは静かに、でも眩しそうに眺める。その横顔からは、あれほどあった憎しみが削げ落とされていた。
一人の男が、二人の女を救った。それが皇帝だという事実に、アンネは複雑な心境になる。
「ドリュアス、だったかしら」
ふいにグレースが言う。姿が視えないから、どこともなく、話しかける。
「あなた、ここにいなさいな。アンネから聞いたわ。もともとはこの木、あなたのものなのでしょう? 場所を変えてしまって申し訳ないけれど、ここならあの人の部屋からも見えるのよ」
そう言ってグレースが指した場所を、ドリュアスとアンネは辿った。それは偶然だったのか。窓際に、皇帝の姿が見える。彼もまた、こちらを見ていた。アンネは知らず息を詰める。
「あんなに、大きくなってたの」
ドリュアスが呟く。皇帝はすぐに窓の奥に消えていった。
耳の横を風が流れていく。ドリュアスは木に手を当てると、そのまま溶け込むように姿を消し始める。
「待て、ドリュアスっ」
アンネは引き止めるが、そのとき、グレースに纏わりついていた呪いが、ぱんっと弾けて霧散した。
「……あら? 気のせいかしら、アンネ。わたくし、元気だわ」
「おまえはいつもある意味元気だったと思うが。まあ、そうだな。どうやらドリュアスが、呪いを解いてくれたようだ」
「そうなの? では、お礼を言わなくてわ。今はどこにいるのかしら」
礼もなにも、グレースは被害者なんだが、と思わないでもない。でもそんなところがまた彼女らしくて、アンネは苦笑した。
憎いはずの皇帝を間近で見たのに、驚きこそすれ、あの真っ黒な感情に支配されなかったのは、たぶんそんなグレースのおかげだろう。
そして、もう一人……。
「礼をするなら、この木を大切にするだけでいい。たぶんそれだけで、ドリュアスには伝わるよ」
「そう。なら、そうしましょう」
木の葉が揺れる。まるでドリュアスがグレースに謝罪するように。
アンネは秋晴れの空を見上げた。
*
グレースの呪いが解けた後、アンネはグレースからそれはもう感謝された。
ただアンネとしては、正直、今回はあまり自分が役に立った感覚がない。グレースが本当に木を切っていたら、最悪手荒な真似をしていた。傷つけることはなくても、ドリュアスを強制的に妖精界に帰していただろう。
いわばアンネは、二人の仲を取り持っただけである。
なのにグレースはお礼がしたいからと、昼食に誘ってくる。年嵩の侍女からすれば、それを断ることも無礼だったのだろう。けどアンネは「いや、まだやることあるから」のひと言で一刀両断した。そのときの侍女の顔といったら、思い出すだけで恐ろしい。
(断るのもだめとか、やっぱり王侯貴族は面倒だ)
平民として育てられて、心の底から感謝する。ただ、オスヴァルトの顔が、どうしてか脳裏にちらついた。
(皇太子、か)
アンネは今、その皇太子の執務室に向かっている。
今までは皇太子宮に連れられていたから気づかなかったが、こちらは酷いものだ。オスヴァルトにかすかに纏わりついていた気配が、一番色濃く漂っている。
アンネはこれを、グレースの部屋を訪ねたときに気がついた。同じ本城の東棟にあるからだろう。
逆に、これでよく殺されずにすんでいるなとも思う。思ったときに、心がほっとしたのを自覚する。思わず声を出しながら息を吐いた。
「はああ。馬鹿か、わたしは」
本当に、ままならない。どうして心配なんかしてしまうのか。心が揺れているのが分かる。
始まりは、オスヴァルトという人間を知ってしまったとき。次に、グレースという人間を知ってしまったとき。
揺れている。分からなくなっている。自分はいったい、何を憎んでいるのだろう。きっと、どんな事情があれ、許せないのは変わらない。けどそうじゃなくて……
そのとき、アンネの中で、閃きが宿る。
(ああそうだ。それだ。言うなれば、今さら良い人ぶらないでくれ、だ)
最初に憎んでいたのは、皇族全てだった。けどオスヴァルトと出逢ったせいで、皇族全てが傲慢じゃないと知ってしまった。
それでも皇帝がいた。なのに、グレースと出会ってしまったせいで、意外な一面を知ってしまった。
極悪人だからとありのままぶつけていた憎しみだったのに、実はそうじゃないなんてこと、今さらあっていいはずがない。
(でないと、わたしの今までは何だったんだ……)
きっと自分は今、とても身勝手なことを言っているのだろう。しかしそうであってくれないと、自分はまた空っぽになりそうだった。
――あんな奴に屈してたまるか。
その気概を持つことで、一度空虚になったアンネは、こうして今も生きているのに。憎しみは、時に生きる糧となる。アンネはまさにそれだった。
もう一度ため息をつきそうになったところで、アンネは横から伸びてきた腕に、急に引っ張られる。
「⁉︎」
誰だ、と誰何するより早く、どこかの部屋の中に引きずりこまれる。暗い。灯りはなく、おそらくカーテンも閉められている。ただ、日中であることが幸いして、隙間からわずかな光は入っていた。
とりあえず、以前学んだように足蹴にしてやろうとしたとき、
「待てアンネ、私だ」
ごく間近に見えた顔に、アンネはぴたりと止まった。
「オスヴァルト?」
「手荒な真似をしてすまない。ただ、二人きりで会いたかったんだ」
至近距離で囁かれて、アンネの鼓動がどきりと跳ねる。不覚だ。相手がオスヴァルトと知って、身体から力が抜けたことも、やはり不覚だった。
オスヴァルトがぎゅっと抱きしめてくる。それは、縋るような抱き方だった。
「アンネ、あれから私も、色々と考えたんだ」
「……考えた? 反省してくれたということか?」
「ああ。やはり私には、あなたが必要だ」
「じゃあ、もうわたしを突き放したりしない?」
言いながら、アンネもオスヴァルトの背中に手を回す。オスヴァルトよりも強く、まるで、逃がさないというように。
「しない。あなたに隠し事もしない。だから、また指輪を探してくれるか?」
そう聞いて、アンネは内心で思う。ああ自分は、
苦笑しながら答えた。
「いいよ、お安い御用だ」
「それと、あなたについても教えてほしい。よく考えれば、私はあなたのことを何も知らない。だからいつも怒らせてしまう」
「だったら、わたしにも教えてくれ。わたしもおまえのことが知りたい」
「もちろん、いくらでも教えよう」
見上げた夜空の瞳が、優しげにアンネを見つめている。勝手に速くなる心臓を無視して、アンネはにこやかに微笑んだ。
「嬉しいよ、オスヴァルト」
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