33rd. 無自覚な告白
机の上に並べられた書類を眺めながら、オスヴァルトは難しい顔をしていた。部屋にはフィンしかいない。扉の前にはジャメオンとギデオンを配置して、誰にも聞かれないよう、そして邪魔されないよう、慎重に事を進めている。
その甲斐あって、おおよその証拠は掴んでいた。机に並んでいる書類がそれだ。地道に、こつこつと、水面下で動いてきた。皇帝を退位させ、野心溢れる第一側妃を追い出すために。
やはり残すは、指輪だけだった。
「我が父ながら、どこに隠したものか」
「そうですね。第一側妃すら血眼になって探しているようですから、よほど厳重に隠されているのだとは思いますが」
そのとき、誰も通すなと言いつけていた扉が、勢いよく開けられる。
「邪魔するぞ」
そう言って部屋に入ってきたのは、戸惑うジャメオンとギデオンを振り切ったアンネである。
しかしいくらアンネといえど、二人が通すはずがない。護衛二人が戸惑っていた理由を、オスヴァルトはすぐに知る。
「おい側近、おまえが言っていた『わたしの偽物』、こいつで間違いないな?」
そう言ってアンネが連れてきたのは、もともとこの部屋にいた、エルディネラ帝国の皇太子と全く同じ顔の男だった。
「ど、どういうことです?」
「説明の前に入るぞ。ここだと騒ぎがバレる」
アンネは遠慮なくソファに座った。その横には、アンネが連れてきたオスヴァルトが、本物よりも無表情で佇んでいる。
それは、異様な光景だった。特に同じ顔と対面したオスヴァルトなんかは、珍しく口をぽかんと開けている。
「いつまで呆けてるんだ。それじゃあ話ができない」
「あ、ああ」
アンネに促され、オスヴァルトもソファに座る。フィンは後ろに控えた。ジャメオンとギデオンは、場の空気を察してか、外に出て扉を閉めてくれた。
「アンネ、その男は……」
オスヴァルトが切り出す。今ばかりは、いつもの無表情が崩れている。アンネはそれを興味深く眺めながら、単刀直入に言った。
「妖精だ。人に幻覚を見せることのできる、エアリアルという妖精だ」
「妖精?」
「おまえの身体に、この妖精の気配が微弱に残っていた。最近寝つきが悪かったんじゃないか? または体調が良くなかったとか」
「それは……」
「おまえはどうせ過労のせいだと思ったんだろうが、それだけじゃない。原因はこの妖精にもある。だから言っただろ? いくら愛し子といえど、妖精を過信するなよと」
「つまり私は、その妖精に何かされていたということか?」
「ああ。この妖精に会うたびに、徐々に生気を吸い取られていたんだ。そこの側近の話を聞くに、たぶんこいつは、わたしの姿でおまえに会っていたんじゃないか?」
そう確認すると、オスヴァルトは頷いた。アンネの中に、呆れと、むず痒さが生まれる。
なぜなら、エアリアルという妖精は、適当に幻覚を見せるわけじゃない。相手が望む者の幻覚を見せ、油断を誘う妖精なのだ。エアリアルがオスヴァルトの前でアンネの姿を選んだのなら、つまりはそういうことである。
そしてそれは、自分も。
実は、エアリアルがオスヴァルトの姿で接触してきたとき、アンネはすぐにその正体を見破っていた。妖精の気配がしたからだ。
なのに、アンネは身体の力を抜いてしまった。鼓動はわけもなく速まった。本物じゃないと分かっていたのに、同じ姿に、無意識に反応してしまった。エアリアルの怖いところは、そういうところだ。
幻覚を見破ること自体が、普通の人間には難しい。でも、たとえ見破れたとしても、
まあ、そんなことはもちろん、口が裂けても言わないけれど。墓穴を掘るのは目に見えている。
何よりも、自覚したくないものを、自覚してしまいそうで。
「たぶんだが、エアリアルも相当焦ったんだろう。おまえがなかなか堕ちないから。もし完全に心を渡していたら、今頃おまえは死んでいた」
その言葉に、フィンの眉尻がぴくりと反応する。
「でも、おまえは渡さなかった。踏みとどまったから、まだその程度で済んだんだ。――なぜ、わたしに相談しなかった? 踏みとどまったということは、薄々おかしいことには気づいてたんだろ? それが妖精に関係することも、おまえなら気づいていたはずだ」
「確かに、気づいてはいた。本物のアンネとは大きく違うところがあったから」
「違うところ?」
つい気になって尋ね返す。自分を装っていたエアリアルが、その間どんなふうにオスヴァルトと接していたのか、気にならないわけじゃない。
「私がどれだけ触れても抵抗しないし、側室にならないかと誘っても、彼女は全く怒らなかった」
「さ、触っ?」
「誤解のないよう言っておくが、せいぜい抱きしめただけだ。それ以上はしていない」
「……オッホン、ん゛ん゛。それくらい分かってる。だと思った」
フィンの半目が突き刺さる。どうせ変なことでも考えたんだろう。そんな無言の眼差しが痛い。
(おまえの主の言い方も悪いと思うが⁉︎)
いっそ口に出して、そう言ってやればよかった。
気を取り直して話を進める。オスヴァルトの姿をしたエアリアルは、大人しくアンネの横に座っていた。
「まあとにかく、無駄に頑張るからそうなるんだ。エアリアルには――」
「ちょっと待て、アンネ」
「なんだ?」
話の腰を折られて、怪訝そうにオスヴァルトを見据えると、彼のほうは痛いくらい真剣な瞳でアンネを見つめてきた。余計に首を傾げたくなる。
「先ほど、私は生気を吸い取られていたと言ったな?」
「言ったけど」
「その妖精に?」
「ああ」
「では、まさか今は、あなたがその生気を?」
「はあ?」
思いがけない結論に、アンネは目を点にする。
「見たところ、その妖精は今はアンネでなく、私の姿をとっている。そしてあなたがここまで連れてきた。ということは、その妖精は、今度は私の姿であなたに近づいたということだろう?」
「それはそうだけど、別にわたしは問題ない」
「本当に?」
「こんなことで嘘ついてどうする」
「ならいいが……。だが、不思議だな。私なんかの姿で近づいたら、アンネは余計に警戒するだろうに。エアリアルだったか? どうして私の姿を借りた?」
「わーっ! ちょ、そんなこと訊いてどうする! 別に理由なんてどうでもいいだろっ」
エアリアルが視線を上げたことで、なんとなく、アンネは嫌な予感がした。だから遮った。とてもじゃないが、エアリアルの習性をバラされたら、アンネは一生を洞穴で過ごしたくなりそうだ。
なのにこの皇太子は、こんなどうでもいいところでも目敏かった。
「何か理由があるのか?」
「ない! ないから答えるなよ、エアリアルっ」
焦るアンネと、真剣なオスヴァルトを交互に見やって、それまで沈黙していたエアリアルが動き出す。姿がぐにゃりと歪み、瞬きの間に、今度はアンネの姿になっていた。
ためらいなく、彼女はオスヴァルトに近づいていく。警戒しなければならないフィンは、事の非常識さに、思考を停止させている。オスヴァルトも、そんな彼女を視線で追うのが精一杯のようだった。
アンネが止めるより早く、彼女はオスヴァルトの隣に座った。
「私はエアリアル。大気の妖精。そして、相手の願望を映し出す。あなたが代理人を望んだから、私はこの姿になった」
柔らかい、そよ風のような声が言う。これが彼女本来の声なのだろう。
オスヴァルトはなるほど、と思った。彼女の近くは、いつも澄んだ空気が流れていた。それは彼女が大気の妖精だったからか。
そして、偽物だと気づいていながら突き放せなかったのは、自分の願望がそこにあったからだったのだ。
「――ん? とすると」
ぎくり、アンネの肩がこわばった。これだから頭のいい奴は嫌いだと、そんなこと思ったこともないくせに、今だけは内心で愚痴る。
「エアリアルが願望を映し出すのなら、アンネの前に『私』が現れたというのは……」
向かいにいる三人の視線が、一斉にアンネに注がれた。
「ちがっ、わたしの場合は違って、〜〜っエアリアル! おまえ覚えてろよ!」
耳まで真っ赤にしたアンネは、もう八つ当たりをするしか逃げ道がなかった。これだけでも窓から飛び降りてしまいたい思いだったのに、エアリアルがさらに爆弾を投下する。
「代理人の願望は、愛し子に自分を認めてほしかった」
「エアリアル!」
頼むからそれ以上言わないでくれと、だんだん涙目になってくる。これはいったいどんな羞恥プレイだ。
意外そうな青眼と視線がかち合う。その瞬間、オスヴァルトが立ち上がった。
「え、なに」
急に近づいて来られたと思ったら、大きな両手で頬を挟まれる。本物の温もりに、アンネの心臓はエアリアルのときよりも暴れ出した。
「あなたは、私に認められたかったのか」
「そ、れは」
「どうして私に認められたかった?」
「だって、わたしは、エルフリーデで……」
「エルフリーデであるあなたを、私は最初から認めているが」
「でもおまえはっ、わたしに隠し事ばかりするじゃないか! 指輪のことだって教えてくれなかった。わたしの力量にがっかりしたからだろ?」
「前にも言ったはずだ。それはあなたをこれ以上巻き込まないために――」
「わたしも前に言った! 今さらだ」
まるで駄々をこねる子供だ。分かっているのに止められない。どうしてたったそれだけのことが、こんなに嫌だと思うのだろう。
いい加減、名前も知らないこの苦しい感情に、どうしていいのか分からなくなる。オスヴァルトに会うたびに、感情は膨れ上がって、自分でも制御できない。
「では、今さらだから、あなたはエアリアルを見つけてくれたのか?」
「?」
「あなたを突き放した私のことなど、放っておけばよかったんだ。なのに再び指輪を探すと宣言し、私のことを守ってくれたのは、どうしてだ?」
「そんなの、知らない」
自分でも情けないほど、か細い声が出た。
「アンネ、知らないじゃない。知ろうとしてくれ。私はこれでも浮かれているんだ」
額をこつりと合わせられて、目に見えてアンネは狼狽える。助けてくれとフィンを探せば、なぜか彼はエアリアルに捕まっていた。
「余所見をするな」
「⁉︎」
「それとエアリアル、アンネの姿でフィンに抱きつかないでくれ。止めてくれるのは嬉しいが、他の姿で頼む」
すごくどうでもいい頼み事に、エアリアルは無言で頷いた。何言ってんだこいつ、とアンネは状況を忘れそうになったが、エアリアルがオスヴァルトの姿を取るのを見て、「さすがにそれは……」と止めようとする。
「さて、それで?」
「いや、それでというか、あれは気にならないのか?」
「アンネでないなら問題ない」
「いや、わたしより問題だろ、あれは」
万が一他の人間に見られたら、変な誤解を受けそうだ。ついでに話を逸らすことで、この話題からも逃げたかった。
が、その目論見は簡単に外れる。
「視界にいれなければ問題ない。それともアンネは、フィンに抱きつきたかったのか?」
「いやいや、それはない」
「エアリアルの私とは、どんな会話をした?」
「そんな大した会話なんて……」
「なら会話以外に、何かしたのか?」
ぴくっと肩が揺れる。些細な反応だったのに、オスヴァルトはやっぱり見逃さない。
「したんだな?」
「し、したと言っても、油断させるために抱きしめ返しただけだぞ⁉︎ 言っておくが、わたしは別に、おまえに抱きしめてほしいなんてことは思ってないからな⁉︎」
「抱きしめ、返した?」
「な、なんか文句あるかっ」
もう恥ずかしいとか胸が痛いとか、色んな感情がないまぜになって、なぜか喧嘩腰になるアンネだ。視界がだんだん滲んでくるけれど、今は気にしていられない。
「もうやだっ。いいから離れろ。おまえがそんな調子だから、わたしはいつも変になるっ」
「変? たとえば?」
もうこの際だから、全てぶつけてしまえと思った。ぶつけて、呆れてくれればいい。
「おまえは平気な顔でこんなことするけど、わたしはいつも大変なんだ。心臓は早くなるし、顔は熱くなるし、ついでに頭が真っ白になる。胸は痛いし苦しいし、全然、感情のコントロールが」
――効かなくなる。その言葉は、オスヴァルトの胸にぶつかって消えた。
いつからだろう。すっぽりと包まれるこの温もりに、本気で抵抗できなくなったのは。
頭上から、オスヴァルトの熱い吐息が降ってくる。
「アンネ、キスしたい」
「はあ⁉︎」
思わず叫ぶも、言われた瞬間、胸がきゅんと縮まった。どこか甘い痛みに、アンネは混乱する。
「まったく、無自覚が一番辛いと聞いたことがあるが、こういうことか……」
呟くようにオスヴァルトがこぼす。抱きしめる力がさらに強くなった。
「仕方ない。いつかその手が私の背中に回ることを、気長に待つとしよう」
そう言った彼の声が、とても嬉しそうで。
なんだかいたたまれなくなったアンネは、大人しく彼の胸に顔を
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