14th. 暴走
アンネが戻ったとき、アルミンはすでにいなかった。最後の彼の顔がちらつく。絶望した、悲しみに濡れた顔。
なんだか、無性に嫌な予感がした。純粋な心を持つ妖精は、たまにその純粋さを暴走させるときがある。真っ白だからこそ、染まりやすく、転じやすい。それも、本人たちが無自覚のまま。
(しまったな。ひとりにするべきじゃなかったか)
ビアンカの本心が知りたくて、彼女を追ったのは間違いだったかもしれない。そんなのは、後にすればよかったのだ。
けれど、アルミンを思うなら、先に彼女の真意を暴いておきたかった。
(仕方ない。アルミンの気配を辿って――)
そのとき。パリンッと。何かが割れる、小高い音がアンネの耳に届いた。
反射的に振り返る。キラキラと空から降っているように見えるものは、おそらくガラスか。少し離れていて見えにくいが、きっと窓が割れたのだろう。
何事だと、周囲にいた数人も異音に気づく。でも、離れていて小音だったためか、その中の一人が「気のせいか?」と首を捻った。
なんと愚かな。アンネは舌打ちしたくなった。
(あそこは、皇族の居住区か……!)
それが分かるや否や、走り出す。嫌な予感のとおり、アルミンの気配がそこにあったからだ。
城の地図は把握していない。けれど、今は簡単だった。アルミンを追えばいい。みんな、すごい形相で疾走するアンネを、不思議な目で見ている。城内にいた者も、異変には気づいていないらしい。
でもアンネは、異常事態を感じとっていた。こうしている今も、アルミンの力がどんどん大きくなっていく。信じられない速さで。
(おかしい。アルミンにこれほどの力はなかったはず)
アルミンの気配と一緒に、別の気配が混じっている。妖精だ。アンネの知らない、妖精の気配。それが、アルミンの力を膨れあげさせている。
どうしてそんなことを、と考えている間に、アンネは本棟と東棟をつなぐ、繋ぎの間にやってきた。東棟こそ、皇族の生活空間だからだ。
いつもと違って衛兵が四人もいる。そこを、アンネはいつも通り姿を隠して通る。息を切らせながら、迷いなく進んだ。
「ば、化け物め……っ」
やがて誰かの、恐怖に染まった声が届く。一つの部屋に騎士たちが集まっていた。昨日訪れたオスヴァルトの執務室よりも、さらに奥の部屋だ。
「殿下、お下がりください。危険です!」
フィンの声が響く。集まる騎士たちも口々に騒いでいる。そのなかで、
「構わん。あれは私の友人だ。手を出すな」
不本意にも聞き慣れてしまった、静謐な声が聞こえた。――ああ、なんて愚かな。こんなときでも揺れない声に、アンネはこれでもかと顔を顰めた。
癖になってしまった舌打ちをして、さらにスピードをあげる。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、まさかこれほど馬鹿だったとは。
開いた部屋から覗く冷静な横顔に、アンネは頭突きをかましたくなった。同時に見えた白色の背景に、アンネは「やっぱりか」と苦虫を噛み潰す。
「な、待ておまえ! そっちは危ないぞ!」
集まっていた騎士の一人がアンネに気づく。術が切れたのだろう。構うことなく、アンネは駆け抜ける。
騎士の声に気づいたオスヴァルトが、振り返った。アンネと目が合うや、彼はその瞳を限界まで見開いた。
(馬鹿者がっ)
「よそ見をするな!」
そのままオスヴァルトを押し倒す。その真上を、馬の固い蹄が横切った。
「殿下!」
「っ、大事ない。それより封鎖は完了したか。
「は。まもなく完了するかと」
騎士の一人が答えた。
「今こちらにいる皇族は」
「皇后陛下はご公務に、他の殿下方には偽りの用件にて、すでに避難していただいております」
「よし。騎士たちは囲んだまま待機。攻撃はするなよ」
「ですが殿下」
「――その前にっ」
オスヴァルトは立ち上がると、アンネのことも一緒に立たせる。肩をぐっと抱かれ、たまらずアンネは口を開いた。
「こんなときになんだが、騎士はもうちょっとわたしを訝しめ! そしておまえは手を放せ!」
状況も忘れて突っ込んでしまう。オスヴァルトの腕の中にいる少女に、騎士は今気づいたような声を上げた。でもそれも、
「いやいや、よくぞ殿下を守ったな、メイド! ただ口が悪いぞ」
と、賞賛なのかよく分からない声に変えられる。主君揃って馬鹿なのだろうか。けど、確かに今のアンネは、メイドのお仕着せを着ている。侵入者には見えない。
数人の騎士に囲まれているアルミンは、低く唸って、忙しなく部屋の中を見渡していた。
ビアンカが綺麗だと言った瞳は、今は正気の光を失っている。その体躯は通常の五倍はある。天井からつりさがるシャンデリアにまで届きそうだ。
確かに、化け物と呼ばれても仕方ない様相だった。
(わたしの術が
だから、アルミンの姿を常人も捉えられる。
けれど、この状態のアルミンを視えなくすると、彼らは自衛できなくなる。今のアルミンはアンネのことも分からないくらい、周りが見えていない。低く唸りながら、ずっと何かを探すようにきょろきょろとしていた。
(まずいな。誰かを傷つける前に――)
「アンネ、ちょっといいか」
「なんだうるさい。わたしは今忙しいんだ」
「訊きたいのだが、あれはアルミンで間違いないか?」
「おまっ……分かってなかったのか⁉︎」
呆れた。分からずに庇っていたのか。
「いや、確信が持てなかっただけだ。私の知るアルミンは、もっと小さい」
「それはそうだが!」
こんなときでも冷静なオスヴァルトが、少しだけ憎たらしい。アンネが助けなかったらアルミンの蹄の餌食になっていたことを、彼は分かっているのだろうか。
「アルミンは自我を失っている。呼びかけにも応じない。なぜああなった?」
「こっちが聞きたい。むしろあれを前にして、よく呼びかけようと思ったな」
オスヴァルトの命令どおり、周りを囲んで警戒する騎士たちは、未知なるものへの恐怖に表情が険しい。いつ襲いかかられるのかと、不安なのだろう。当然の反応だ。
なのに、いくら知り合いかもと思っていても、あの巨躯を前によく平然としていられたものだと思う。
「それで、ここは誰の部屋だ?」
「皇帝陛下の私室だ」
(皇帝か。また厄介なところに……)
このままでは、アルミンはいずれ殺されてしまう。今はオスヴァルトが止めてくれているが、それもいつまで保つか分からない。
アルミンが呻く。騎士の警戒が強くなる。こうなった原因を取り除けないかと、アンネはアルミンの気配を注意深く探った。絡みつく余計な気配が、アルミンを追い詰めている。過ぎた力に、彼の身体が追いついていないのだ。
しかもそれは、もう、深いところまでアルミンに食い込んでいた。
(無理だ、引き剥がせない。あれでは)
――助けられない。
「アンネ」
(いや、弱気になるな。妖精は、必ず助ける)
「アンネ。聞いているか、アンネ」
(とにかくまずは、アルミンを無力化して)
「アンネ」
「――っああもう! 本当にうるさい奴だなっ。人が悩んでるときになんだ⁉︎」
「なぜ、あなたはここにいる?」
「今さら⁉︎」
思わずずっこけそうになった。けれど、どうやらオスヴァルトが言った意味は、アンネの思うものと少し違うようだった。
「あなたがここにいるのは、アルミンのこれと関係しているのか?」
「……
小声で応える。
「いや、直前まで、あなたは
把握されていたのかと思うと、なんだか複雑な心境である。ひとつ、息を吐き出した。
「ああ、おまえの言うとおりだ。アルミンの様子がおかしかったから、追いかけてきた」
「ならば、あなたならどうにかできるのか」
「今それを考えていたところで……」
ひそひそと言葉を交わしていると、アルミンの巨体が動き出した。まるで何かを見つけたように、のそのそと歩いていく。
その
「殿下、標的は陛下の寝室に向かおうとしております! いかがなさいますか」
寝室はまずい。そう、オスヴァルトの表情は語らなかったが、その場の空気が語っていた。いくら皇帝が留守とはいえ、いや留守だからこそ、こんな深奥を荒らされていることは問題だ。それが皇帝の寝所にまで及んだとなると、いよいよ最悪だった。
それでもオスヴァルトの表情は変わらない。どこまでも無感情で、アンネは彼が何を考えているのか読めなかった。
(なんにせよ、こうなってしまったらわたしにできることはひとつか)
強制的に、アルミンを妖精界に帰すこと。
でもそれは、"助ける"ことじゃない。妖精はアンネにとって、初めてできた友人だ。色々あって、友と呼べる存在を作れなかった幼いアンネの、唯一の遊び相手だった。
だから妖精は助けたい。マルティナに言われたこともあるけれど、決してそれだけではなかった。
――救ってやりたい。
アンネは、一つだけ賭けに出ることにした。
「オスヴァルト」
「…………私のことか?」
「おまえ以外に誰がいるんだ!」
「いや、少し驚いて……すまない。なんだ?」
「わたしが隙をつくる。傷をつけてもいい。だから、アルミンを弱らせてくれ」
オスヴァルトが、じっとアンネを見つめる。真意を見つけようとしているのか――最後まで傷をつけるなと庇った彼だ。説得する時間はない。が。
「分かった」
たった一言、そう頷いた。
アンネはすぐにアルミンの行く手を遮るように、彼の前へと滑り込む。胸元に手をやって、いつもより大きめの白薔薇を咲かせた。
「ジャメオン、ギデオン、攻撃を許す。弱らせて拘束しろ。他の者は援護にあたれ」
「「――は!」」
アンネの白薔薇から、花びらが一枚、ひらりと落ちていく。それを見たアルミンが、止まった。落ちていく花弁を、囚われたように見つめ始める。
また一枚。ひらり、ひらり。花はゆっくりと、枯れていく。
「これが全て枯れるまでが勝負だ!」
オスヴァルトに向けて放った言葉は、そのまま二人の騎士にも伝わる。彼らは以前、アンネを皇太子宮に連れ去った騎士だ。
立ち止まったアルミンは、今、アンネによって幻覚を見せられていた。ビアンカの幻覚だ。これに反応してくれるかは、一か八かの勝負だった。でも、アルミンは止まった。
(つまり、まだ完全に正気を失ったわけじゃない!)
そう確信を持つと、アンネは次に別の白薔薇を咲かせる。アルミンに纏わりつく余計な気配を、消し去るために。
やはり皇太子専属の騎士は優秀なようで、攻撃の許可さえ出てしまえば、彼らはそれほど苦戦することなく、アルミンに膝をつかせる。長いロープで上から抑え、拘束した。
幻覚の薔薇は、残り半分。
「……ンカ、さ……」
アルミンが、喋った。正気を失っていたはずのアルミンに、わずかな光がちらついた。
アンネは希望を見出すと、アルミンに絡みつく気配を消し去るため、術を発動させる。
「ビア……さ、……が、ゆび…………てて……」
アルミンの変化に気づいたオスヴァルトが、アンネの近くにやってくる。――不用意に近づくな。そう言おうとしたが、フィンの渋面を見てやめた。この程度の苦言、すでにフィンが言ったはずだ。それでも彼は来た。なら、言うだけ無駄である。
「アンネ、指輪のことを、アルミンに教えたことは?」
「は?」
隣に立つなり、オスヴァルトが訊いてくる。アンネは術をコントロールしながら、素っ頓狂な声を上げた。なぜここで指輪の話が出てくるのか。
「聞き取れなかったか? アルミンが、指輪と言った。『指輪を見つけるから、待ってて』と」
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