13th. 指輪の噂
「もう嫌だ……」
何がって、オスヴァルトに会うことが。目は死んでいる。今日も馬鹿のひとつ覚えのように片手に雑巾を持ったアンネは、憂鬱そうに城の中を歩いていた。
皇太子オスヴァルト・クロイツの噂は、城の中のほうが賑やかだった。
側室は四人いるとか、そのうちのひとりはまだ十二歳だとか。だから幼女趣味もあるのよ、きっと。とは、おしゃべり好きなメイドが教えてくれたことである。他にも、皇帝と同じく戦好きだとか。血を見ると興奮して、女なら誰彼構わず襲うとか。
けれど、意外とその容姿については、謎が多いと聞いて驚いた。
「だってね、殿下はあまり、国民の前に姿を現さないのよ。だからご尊顔を知っているのは、限られた人だけらしいわ。たぶんお顔が残念な方なんだろうって、もっぱらの噂よ。皇后様はお綺麗な方なのにね」
「なるほど」
おしゃべり好きなメイドが、さらに続ける。
「そうそう、じゃあこれも知らない? 実はこのお城には、殿下の側室様専用の宮殿まであるのよ。余ってた宮殿をわざわざ改装したの。全体が白くて立派なものだから、私たちは『
へぇ、と大して興味もなさそうに相槌を打つ。アンネの手には、抱きかかえるようにして大きな花瓶が握られていた。
「アンネ、ありがと。もういいわ」
言われて、アンネは抱えていた花瓶を、そっと元の位置に戻した。指輪探しの続きをしようと歩いていたところを、このメイド――マリーに捕まったのだ。確かに、ひとりでこの花瓶の下は拭けないだろう。
「はい、次はこっちね」
(まだあるのか……)
笑顔で次の花瓶を示すマリーに、アンネはげんなりする。気持ちとしては、今日こそ指輪探しに決着をつけたいのだが。
そう思って、アンネはふと尋ねてみた。
「色々詳しいようだが、皇室に伝わるものとか、そういうものについても詳しいのか?」
「えぇ? 皇室に伝わるもの? ――ああ、もしかして、指輪のことかしら」
「! そう、それだ。いわくつきと聞いたが」
「いわくつきっていうより、その指輪、妖精王の力が宿っているって噂よ」
「妖精王?」
なんかとんでもない相手が出てきたな、とアンネは目を丸くする。それに気分を良くしたマリーは、上機嫌に頷いた。
「結構有名な話だけど、これも知らなかったのね」
「確かなのか?」
「さあね。でもこの国の初代様って、妖精と人間のハーフじゃない? だから本当かもしれないわよ。代々伝わる皇家の指輪だって話だし。しかもね、その指輪、手にした人の願いをひとつだけ叶えてくれるらしいの」
「願いを?」
「そ。みんな言ってるわ。皇帝陛下が戦で負け知らずなのは、きっと戦好きの陛下が指輪に願ったからよって」
――まさか。アンネは鼻で笑いそうになった。あの惨い状況を、そんなもので片付けられたくはない。でも、マリーに当たるのは違うと、アンネは深呼吸する。
今はそれよりも、指輪だ。アンネはオスヴァルトから、婚約者に贈るものだと聞いていた。それが、まさかそんな噂のある指輪だったなんて。
(ん? 待てよ?)
そこではたと気づく。アンネは今、彼が婚約者に贈ると言った指輪を探している。そしてオスヴァルトは昨日、そのアンネに、側室にならないかと持ちかけてきた。
おかしいだろう、どう考えても。
(やっっぱりふざけてたなあの男! どの口が欲しいとかほざくんだ⁉︎ 浮気者め、あいつの顔にも唾吐いてやろうかっ)
それはもう、怒りが頭を突き抜けたので、思わずつるっと、花瓶が手から逃げる。
「アンっ――」
マリーが声にならない悲鳴をあげる。アンネも慌てて手を伸ばした。頭の中を駆けたのは、花瓶の値段だ。知らないけれど、弁償なんて絶対に無理な値段に決まっている。
肝を冷やした、そのとき。
「代理人って、意外とそそっかしいですよね」
「アルミン!」
間一髪、人の姿をしたアルミンが、花瓶を受け止めてくれていた。これには心の底から安堵する。
「もう〜、怖いことしないでよ、アンネってば」
マリーは少しだけ涙目だった。
「すまない。気をつける」
「まあ何もなかったからよかったわ。あなたもありがとう。えーと……」
「アルミンといいます」
「アルミンね。私はマリー。アンネもそうだったけど、あなたも見ない顔ね? 新入り?」
「えーと、はい。そうです、新入りです」
アルミンがアンネをちらりと見てきたので、アンネは頷いて応える。新入りにしておくのが、一番無難だ。
「そう。ここ、広いでしょ? だから使用人も、全員顔を覚えられないのよ。会ったことのない使用人だっているしね。まあ二人も頑張って。助かったわ、アンネ。あとはもう花瓶もないから、自分の仕事に戻ってもらって大丈夫よ」
「ああ。わたしも助かった」
今や相棒とも呼べる雑巾を持って、アンネはマリーと別れた。彼女に会えたのは、かなりの収穫だった。なにせオスヴァルトは、自分のことを何も話さない。依頼の指輪についても、多くを語らない。噂は、所詮噂だ。けれど、情報がそれしかないアンネには、これを手がかりにするしかないだろう。
「願いを叶えてくれる指輪って、なんですか?」
後ろからついてきたアルミンが、尋ねてくる。
「聞いてたのか?」
「すみません、聞こえちゃって」
「いや、別に謝ることじゃない。なんでも妖精王の力が込められているらしい」
「王様の? それってもしかして――」
そこまで言って、アルミンが足を止めた。言葉の先が気になったアンネだが、彼の視線が一点で止まっていることに気づくと、その視線を追う。窓の外だ。今は一階の、裏庭に面した廊下にいる。視線の先には、見覚えのあるキャラメル色が見えた。
「ビアンカさん!」
「ちょ、アルミン⁉︎」
窓を開けて、そこをアルミンが飛び越えた。追いかけるべきか逡巡するも、周りに人がいないことを確認して、アンネも飛び越える。
さっきのアルミンの形相は、ただ事じゃない。血相を変えていた。おそらく、ビアンカとともに、見知らぬ男がいたからだろう。
ようやくアンネが追いつくと、
「ビアンカ、別れたくなかったらやるんだな。待ってるよ」
ちょうど、見知らぬ男とすれ違った。件の浮気男だろう。確かに六股できるくらいには、顔の整った男だ。
しかし、それまでだ。アンネにとっては、あの男のどこがいいのか理解できない。瞳が濁りすぎている。あれはおそろく、内に闇を抱えているタイプの人間だ。
「ビアンカさん、顔が真っ青ですよっ。あいつに何か言われたんですか?」
「な、何も。何も言われてないわ。大丈夫だから、放っておいて」
「放っておけません! 言ったじゃないですか。僕は、あなたに恩返しがしたいんだ。あの男はだめです。何を言われたか知りませんけど、ちょうどいい、もう別れましょう!」
「でも……でも」
ビアンカの瞳は揺れていた。気の強そうな彼女だが、今はまるで、迷子の子供のようだ。何を信じればいいのか、分からなくなっているような。
「ビアンカさん!」
「でもっ、彼が初めてだったのよ。仕事に生きる女も素敵だって、そう言ってくれたのは。お父様もお兄様も、男の人はみんな、仕事に打ち込む女性を馬鹿になさるのに!」
「馬鹿になんてしません! 僕はあなたのこと、尊敬してます。だからっ」
「おい、二人とも落ち着け。とりあえずここはまずい。端に移動しよう」
だんだんヒートアップしてきた二人に、アンネは落ち着くよう促す。その言葉で我に返ったのか、二人とも言う通りに移動してくれた。
「疑問なんだが、さっきの男、なんで城にいた?」
「彼は商人なの。……側妃様ご贔屓の」
少し冷静さを取り戻したらしい。ビアンカが答えてくれる。なんでも、今日はその側妃に品物を届けに来ていたとか。
「なるほど。で、何を言われた? アルミンじゃないが、顔色が悪いぞ」
「違うの。本当に、私は何も……」
しかし、その声は震えている。気丈な娘であるビアンカがこうなるほど、何か言われたのは間違いない。
「ビアンカさん、お願いです。隠さないでください」
アルミンの純粋な瞳が、じっとビアンカを見つめる。射抜く、と言っても過言ではない眼差しだ。
その眼差しに、ビアンカからは、だんだんと怯えが見え始める。
「――ゃ、いや、やめてっ。そんな目で、私を見ないで……っ」
「ビ、ビアンカさん?」
「その純粋な目っ。世の中の汚いことなんて、何も知らないみたいな、真っ白な、ひとみで、こっちを見ないで!」
――ひゅ、と。アルミンが息を呑む。
今までも拒絶されたことはあった。けれど、怯えられたことはなかったのだ。
あまりの衝撃に固まった彼の、動揺する視線から逃れるように、ビアンカは目を伏せた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私はあなたが思うほど、立派な人間じゃないわ。だって、あなたの純粋なところが嫌い。馬鹿みたいに真っ直ぐなところが、嫌いなのっ。そういうところを、嫌いになってしまう女なの! だからもう、二度と、私に近づかないで」
アルミンは何も言わない。ちらりと窺えば、彼は一目見て分かるほど、傷ついた顔をしていた。
ビアンカが小さく息を吐く。そのまま足早に去っていった。
アンネは迷うことなく、その背を追いかけた。ある程度離れたところで声をかける。
「わざとだな」
何が、とは言わなくても彼女には伝わるだろう。アルミンが絶望していることに、彼女は安堵していた。それを、アンネは見逃さなかったのだ。
「アルミンを遠ざけて、何をするつもりだ?」
「……違うわ。何もしない。むしろ、してしまったのよ。だから遠ざけたの。近いうちに、私は処罰されるだろうから。彼を巻き込むのは不憫でしょう?」
「もう一度訊く。さっきの男に何を言われた?」
「……違うの。言ったのは、私だったの。私ね、たぶん、初めての恋に浮かれてしまったんだわ。だから、私だけを見てほしくて、つい聞かれるまま色々と喋ってしまったのよ」
「喋って……そうか、確か皇后の侍女だったな」
「ふふ、察しがいいのね。そう。自分の主について、ぺらぺらと喋っちゃったの。よりにもよって、第一側妃様がお得意にしている、商人に……!」
「知っていたんじゃなかったのか?」
驚いて確認すると、ビアンカは首を横に振った。
「商人であることは知っていたわ。でも、私も今日初めて知ったのよ。彼が第一側妃様のご贔屓だったなんて」
「それであんなに顔を真っ青にしていたのか。だが、何を喋ったんだ?」
「夜会でどんなドレスを着るとか、好きな食べ物とか」
「なんだ、それくらいなら別に……」
「それくらいじゃないわ! 夜会で着るドレスは、皇后様と色がかぶらないようにするのが、貴族令嬢の基本よ。けれど第一側妃様は――リディアーヌ様は、毎回色を揃えてきたの。嫌がらせのように。そして皇帝陛下は、そんなリディアーヌ様ではなく、皇后様をお叱りになるのよっ。その原因が私だったなんて……。他にもあるわ。だから、自分から罪を告白します。カミーユも道連れに」
「だが、それは難しいんじゃないか?」
「いいえ。今までのことではなく、彼は私に言ったわ。それをバラされたくなければ、皇帝陛下の指輪を盗んでこいと」
「指輪?」
なんとも聞き慣れた単語である。最近、この単語をよく耳にする。
「言われた直後は、動揺していて、たぶん、まだ彼を信じたかったのね。でもアルミンを見て、気づかされたの。ああ私、もうこの瞳を見返せないんだわって」
だって、あんなに綺麗な瞳はないでしょう? と、ビアンカはいたずらっぽく笑った。だから、罪悪感に、見つめ返せなくなったのだと。
「そうだな。綺麗だ。あれを綺麗だと言えるおまえの瞳も、十分綺麗だと思うけどな」
「……それ、凄い殺し文句ね」
「? だが、あの男の瞳は濁っていた。気づけてよかったんじゃないか」
「ええ、全部アルミンのおかげだわ」
「頑張っていたからなぁ」
二人顔を見合わせて、静かに笑う。ビアンカからは、余計なものが一切削ぎ落とされた、すっきりとした表情が浮かんでいる。
「アルミンのこと、お願いね。私のことは誤解させたままにしておいて」
「分かった。代わりに、自分で誤解を解くといい」
「やだわ、今度は私、あなたに惚れてしまいそう」
「え、」
本気で困惑したアンネに、ビアンカが小さく噴き出した。今から皇后に全てを明かすのだという。その背中は、真っ直ぐと伸びていて、まさにこれから成長する新緑のようだった。
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