39th. 離れて感じるもの


 一歩外に出ただけで、アンネはいつもと違う街の空気を感じた。遠くから聞こえてくる音楽に、はしゃぐ子供たちの声。たくさんの雑音は、耳に心地いい程度で風に乗って聞こえてくる。

 レナルドに連れられて、アンネは花街を出る。進めば進むほど、心の中には言いようのない不安が募っていく。

 不安、なのだろうか。ふと、そんなことを思った。本当は不安というよりも、恐怖のほうが近いかもしれない。

 やがて街で一番大きな道に出ると、その両脇にはずらりと屋台が並んでいる。完全にお祭り騒ぎだ。実際、今日は祭りである。新皇帝陛下を祝って、もう何週間も前から街は祭りの準備をしていた。

 みんながだんだん浮かれていくなか、アンネだけは沈んでいったのを覚えている。そんな自分を自覚して、またさらに落ち込むという、悪循環にも陥った。

 だから最近は、今まで以上に依頼を受けまくり、忙しない毎日を過ごしていたというのに。


(なんでみんな、今日に限って依頼を入れてくれないんだ)


 むしろ今日だけは入れてほしかった。そうすれば、言い訳も簡単にできたのだ。「仕事があるから、わたしは行かない」


「アンネ、何か欲しいものがあったら遠慮なく言ってごらん」

「いや、わたしは別に」

「そう遠慮するものでもないよ。老人の楽しみを奪わないでおくれ」


 うっと喉が詰まる。レナルドは、どうもアンネに甘えられるのが好きらしい。アンネを見る目は完全に孫である。


「じゃあ、あれ食べたい」

「よし、買ってこよう。ここで待っていなさい」


 アンネが串焼きを指差すと、レナルドは嬉しいそうに屋台に向かっていく。分厚い肉が串に刺してあって、滴る肉汁が、こんなときでもアンネの食欲をそそった。

 この三か月で、オスヴァルトはかなりの政策を打ったらしいが、アンネはそれを知らない。それでも、こうして街が笑顔で溢れているところを見ると、彼の凄さがよく分かる。祭りであることを差し引いても、人々の笑顔は眩しかった。

 だから、来たくなかったのだ。

 そんなことをやってしまえる人なのだと、嫌でも理解しなければいけないから。


「はいアンネ、熱いから気をつけてお食べ」

「ありがとう」


 道の端に座れる場所を見つけて、二人は仲良く並んだ。前公爵が立ち食いなんていいのかと思うけれど、アンネは何も言わなかった。レナルドが言わないなら、きっと構わないのだろうと結論づける。

 串焼きは思った通り熱くて、溢れ出した肉汁に火傷する。やっちゃったな、と思いながら、しばらくアンネは無言でそれを頬張った。

 街行く人は、やはり誰も彼もが笑っていた。





「そういえば、マルティナは?」


 串焼きを食べ終え、再び連れられるままに歩き出したアンネは、ふと思い出す。まあ、マルティナのことだから、人混みが嫌だと言って来なかったに違いない。


「マルティナとは後で合流するよ。今頃走り回っているだろうねぇ」

「走り回ってる?」


 どこを? と思ったが、レナルドはそれ以上を言うつもりはないようだ。

 しばらく街の活気を眺めながら歩いていた二人だが、だんだんとその活気から離れていっていることに気づく。人が少なくなり、静かな住宅街が増えていく。それも高級住宅街だ。

 というより、この道は。


「もしかしてじいさん、屋敷に向かってるのか?」


 そう、今ではレナルドとマルティナが住んでいる、二人の屋敷タウンハウスへの道だった。これまで何度も通ったことがある道だ。アンネは確信を持って訊いた。


「うん。屋敷でマルティナが待ってるからね。今日は義理の息子に頼んで、侍女もたくさん連れてきてる。きっと楽しい夜になるよ」

「夜って……その前には帰りたいんだが」

「何を言ってるんだい。今日は夜更かししても、誰も怒らない日だ。早々に帰ってしまうなんて、そっちのほうが怒られてしまうよ」


 大げさに驚いてみせて、レナルドはアンネの腕を引っ張った。逃げないようにするためだろうか。これじゃあ本当に夜まで解放してくれそうにない。

 でも確か、今夜は新皇帝の即位を祝う舞踏会が、夕方から皇城で開かれると聞いている。仮にも貴族のレナルドとマルティナが、出席しなくていいのだろうか。

 そんなことを考えている間に、二人は目的地に着いていた。マルティナが当然のように出迎えてくれる。


「遅いぞ、レナルド」

「すまないね。どのくらい時間を稼げばいいのか、よく分からなくて」

「まあいい。ほらアンネ、とにかく急げ。時間がない。――頼んだぞ、おまえたち」

「「かしこまりました」」

「は? 時間? ってだれ⁉︎」


 答えを聞く前に、アンネは自分を囲った侍女たちに問答無用で捕獲される。抵抗虚しく連れ去られ、助けを求めたレナルドには、笑顔で手を振られしまう始末だ。

 そうして二階の部屋へと連行されたアンネは、まず服を脱がされた。


「ええ⁉︎」


 そのあまりの手際の良さに、怒りよりも驚きが勝る。平民がよく着る簡単なワンピースだったとはいえ、その手早さにはいっそ感服した。

 が、もちろん羞恥心は肌を焼く。


「いきなりなんなんだっ。てか何で風呂に――あっつい!」

「あら、少し温度が高かったでしょうか」


 侍女が小首を傾げる。それはおそらく、普段から湯に浸かる習慣がアンネにはないせいだろう。慣れていないのだ。アンネだけでなく、ほとんどの平民がそうである。湯に浸かれるなんて贅沢は、貴族くらいのものだ。


「お身体を清めさせていただきますね」

「いやいや必要ない。自分でやる。できる。むしろ自分でやりたいやらせてくれ」


 人に肌を見られ慣れていないアンネは、必死に懇願した。他人に裸を見られるなんて、自分の色んな許容量を超えそうだ。気絶したい。

 けど、それで気絶できるほど、アンネは繊細ではなかった。それがこれほど恨めしいとは。


「髪はどうしましょう、やっぱりアップにしましょうか」

「そうだな。そのほうがぐっと色気が増すか。慌てるあの男が目に浮かぶ」


 湯浴みが終わると、今度はドレスやら化粧やらが始まった。マルティナまで参戦し、あれこれと侍女に指示している。

 この頃にはもう、アンネは死んだ魚のような目になっていた。もうどうにでもなれと、なかばやけくそのように思う。どうせ着飾ったって、それで外に出るわけでもないのだから。

 

「ふう、できました! いかがでしょう、マルティナ様」

「ふむ、なかなかいいな。レナルド、入っていいぞ」


 どうやらようやく終わったらしい。されるがままだったアンネだけれど、なんだか肩が凝ってしまった。今日は国中が浮かれているから、いつもと違う晩餐でもしたかったのだろうか。


「おお! さすがわしの娘。磨けば光ると思っていたが、まさかこれほどとは」

「ええ、大旦那様。自信作でございますれば」

「うんうん、よくやってくれたね。綺麗だよアンネ。それにあの方も、なかなか趣味がいい。アンネの白い肌には、藍色のドレスがよく映える」


 手放しで褒められて、アンネは「そんなにか?」と他人事のように思った。顔形が変わったわけじゃないのだから、大して綺麗になった自覚はない。反応の薄いアンネに気づいて、レナルドは苦笑した。マルティナもため息をつく。

 

「まったくおまえは……もう少し美的感覚を持たせるべきだったか?」

「そう言われても、自分のことだから分からない。他人のことなら分かるけど」


 そのとき脳裏に浮かんだのは、美しい皇太子の姿である。たった一度のお披露目で、国中の女性たちの視線を掻っ攫った、若き皇帝の姿だ。


「これは先が思いやられるな。まあ、だから、そのドレスを選んだのか」

「あ、マルティナ様も思われました?」

「そりゃ、これほど主張されればな。誰でも気づくさ、当人以外は」


 盛り上がる女性陣に、レナルドが苦笑している。アンネは置いていかれている感が半端なく、確かめるように自分の身体を見下ろした。

 マルティナと侍女が言っていたドレスは、淡い藍色のシフォンドレスである。袖口はたっぷりととったドレープが見事で、スカート部にはダイヤモンドが散りばめられていた。その様は夜空に浮かぶ星々のようで、実はアンネも、一目見たときに気に入っていた。派手すぎず、かといって地味でもなく。さらにオスヴァルトの瞳と同じ色合いのドレスに、少しだけ心は浮き立った。

 でも、それを知られたくなくて、わざと素っ気ない態度をとっている。こんな自分の心の動きに、さすがのアンネもなんとなく分かってきた。だって、マルティナに「自分で考えろ」と言われてから、ずっと考えているのだから。

 だから、外に出たくなかったのだ。現実は、無情にも二人の距離を見せつける。迎えに行くから、なんてオスヴァルトの言葉も、夢から覚めれば儚く散る。


「さて、じゃあ行こうか。招待状は持ったか、レナルド」

「もちろんだよ、マルティナ。久々に君と踊れるからね。忘れるはずないよ」

「よろしい。ほらアンネ、突っ立ってないで行くぞ」

「……どこに?」


 その瞬間、アンネは嫌な予感を覚えた。いつも通り食堂へ行くのなら、「招待状」なんてものは必要ない。まさか。


「もちろん、皇城に決まってる」

「絶対嫌だ!」


 考えるより早く、アンネは叫んでいた。じり、とマルティナから逃げるように、左足を少し引く。


「というか、マルティナとじいさんならともかく、わたしは平民だぞ」

「違うな。その血は正しく高貴なのものだ。たとえ紛れて暮らしたとしても、おまえの母が教えた仕草は、平民のそれとは違う。諦めろ。おまえはもう、すでに逃げ道を塞がれている」

「ならそこを突破する」

「阿呆。私じゃない、塞いでいるのは」


 アンネはぐぐっと眉を顰めた。だったら誰が邪魔をするというのだ。

 ふう、と息をついたマルティナが、侍女たちに顎を振った。心得たように彼女たちはアンネを捕らえる。その力といったら、本当に女性かと疑いたくなるほどだ。

 結局、理由もなく女性に乱暴を働けないアンネは、不満たっぷりに連行されていく。その内心が実は緊張でいっぱいだったなんて、いったい誰が気づけただろう。

 


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