40th. 舞踏会
皇城は、昼の街の様子と全く違って、煌びやかな光に包まれていた。たくさんの馬車が城門をくぐっていき、降りてくる誰もが贅沢な装いだ。
花街の娼婦とは、華やかさの種類が違う。娼婦たちが色気を惜しげもなく溢れさせる一方、ここに集まった女たちは、貞淑さが全てというような雰囲気だ。
舞踏会なんて初めてのアンネは、マルティナにべったりとくっついていた。その様は、完全に周囲を警戒する猫である。
「なぜ隠れてるんだ、おまえは」
マルティナが呆れたように言う。うるさい、とアンネは軽く師を睨んだ。
「堂々としていろ。悪目立ちするぞ?」
「そうだよアンネ。せっかく綺麗なんだから、もっと胸を張ってもいいんだよ」
「それは身内のひいき目だ、じいさん。そうじゃなくて、こんなに人がいるなんて聞いてない」
舞踏会の会場は、すでに人で溢れていた。まだ開始前だからか、ほとんどの人がお喋りに興じている。
「舞踏会だ。これくらいは当然と言いたいが……まあ、今夜は特別多いかもな。なにせ新皇帝の即位を祝う会だ。国内の貴族はもちろん、従属国の王族も来ると聞いている」
「従属国?」
「おまえも知ってるだろう? 新皇帝が、皇太子時代に持っていた側室のこと」
「それは、まあ」
「では、その側室を取り払ったのは?」
「知ってる。リサ姐が言ってた」
そう、噂通のクラリッサ曰く、オスヴァルトは全ての側室を帰したらしい。それがどこの娘で、どうして帰したのか、人は推測でしか知らない。
とりあえず、大半の人間はこう考えた。結婚を前に身を綺麗にしたのだろうと。そんなところも、打って変わって誠実だという印象を人に与えた。世の中どう転ぶか分からないものである。
そうして囁かれたのは、若き皇帝の結婚がもうすぐだということだ。
「まあ蓋を開ければ、必要のない人質をただ帰しただけなんだけどな。でも、彼女たちの正体を知る重臣は、これにかなり反対したらしい」
それもそうだ。人質として取っていた姫を帰せば、買った恨みをすぐにでもぶつけられる。帰すべきではないと募る重臣たちに、しかしオスヴァルトはやめなかった。
「代わりに、相手国と取り決めを結んだらしい。人質を解放する代わりに、我が国を宗主とし、従属するようにと。年に何度か貢物を持って来させ、見返りに我が国はあらゆる侵略から彼らを守る。これが従属国だ。もちろん、破れば容赦はしないという脅し付きではあるけれど」
マルティナは簡単に言ってみせるが、それを成立させるために、オスヴァルトはどれほど苦心しただろう。きっとこの三か月、ほとんど寝ていないに違いない。
(だから、やっぱり馬鹿だというんだ、あいつは)
我知らず唇を噛み締めた。せめてフィンあたりが、彼を無理やりにでも寝させてくれていたらいい。
「とにかくそういうわけで、このエルディネラは侵略以外の道を辿り始めた。それが吉と出るか凶と出るか、全ては皇帝次第だろう」
「だからアンネ、周りをよく見ておくといいよ。この舞踏会はね、言わば下見なんだよ。従属国となった王族たちが、オスヴァルト君が本当に宗主たる存在かどうか、見極めるためのね」
アンネは驚いた。この煌びやかなパーティーの裏に、そんな面倒くさい探り合いがあったのかと。それだけでなく、どう考えても国家機密になりそうな話を、この二人が当然のように知っていることに。
「一つ訊くが、じいさんはもう公爵じゃないんだよな?」
「うん? はは、そうだね。わしはもう、すでに隠居したただのじじいだよ。マルティナだって、花嫁に選ばれた瞬間から貴族の地位を捨てている」
だったら余計に疑問である。でも、藪をつついて蛇を出したくないアンネは、それ以上尋ねることはやめた。
言われた通り、広い会場を見渡してみる。その多くが楽しく顔を綻ばせているなか、確かに固い表情の人間がちらほらいた。
(こんな祝い事にも気を抜けないとか、あいつ早死にするんじゃないか)
どんなときも気を張っていなければならない環境は、人が思うよりずっと辛い。常にアンテナを張り、神経を尖らせ、どんな些細なことにも気を使う。気づかぬうちに精神を摩耗し、やがて身体にも悪影響が出る。
そんな状態を、アンネも経験したことがある。けれど一国の運命を、何億人もの命を、オスヴァルトは背負うのだ。その大変さはアンネの比ではない。そんな彼を自然と心配してしまう心は、もうどう頑張っても誤魔化せない。
苦しい。痛い。泣きたくなる。切なくなって、息ができない。この感情を、アンネはずっと持て余していた。ずっと、そうなる原因が分からなかった。
答えを求めて走ったとき、アンネは文字通り泣いてしまった。お披露目のために解放された城のバルコニーから、光を背負って現れた、オスヴァルトを目にしたときに。
大勢の民が押し寄せた。好奇心も、揶揄いも、嫌悪も羨望も。全ての視線を受け止めて、彼は堂々と立っていた。凛とした佇まいに、誰もが見惚れた瞬間だった。
――ああ、そうだったのか。
そのとき、アンネの中に、すとんと落ちたものがある。痛みも苦しみも切なさも、全てが吹き飛んでいた。そうして残った感情は、ただただ、愛しいと。
――わたしはきっと、守りたかったんだ。きっと、あいつの願いを叶えてやりたかった。
その単純な答えに、ようやくたどり着いた。孤独のなか闘っていた、彼の力になりたかったのだ。
離れて、遠くから彼を見て、その感情にやっと気づく。いや、もしかすると、離れたからこそ気づけたのかもしれない。物理的に開いた距離は、もう彼を守れないのだと、嫌でもアンネに思い知らせる。
その情景を思い出していたアンネは、ふと周囲の様子が変わったことに気づいた。あんなに騒がしかった会場は静まり返り、みなが同じ方向を見上げている。
そこに、近衛騎士の野太い声が響く。
「皇帝陛下の、おなーりー!」
かけ声に合わせて、全員が一斉に頭を下げる。アンネも少し遅れて頭を下げた。磨き抜かれた床を見つめながら、心臓が
「面を上げよ」
低い、穏やかな声が、心に直接響く。ほう、と誰かが吐息をこぼした。
「今宵は国をあげての祝い事だ。存分に楽しんでほしい」
その言葉を合図に、優美な音楽が流れ始める。人々は心得たように、近くにいたパートナーと手を取り合った。マルティナとレナルドも、アンネを置いてダンスホールに行ってしまう。
舞踏会が始まったのだ。アンネは二人を見送ると、離れた場所にいるオスヴァルトをちらりと見やる。後ろには当然のようにフィンを従えて、彼はさっそく見知らぬ誰かに声をかけられていた。
(あの顔……やっぱり寝てないな)
はっきりと目元にクマがあるわけじゃない。疲れた顔もしていない。オスヴァルトはいつも通りの無表情だ。
けどアンネには、それが酷く疲れているように見えた。いっそ不法侵入でもして、今夜くらい無理やり眠らせてやろうかと考える。
「失礼。妖精のように可憐なレディ。もしパートナーがいないのでしたら、僕と一曲どうですか」
すると、突然声をかけられて、アンネは一瞬きょとんとした。真っ直ぐ見つめられているのが自分だと気づき、頬が引きつりそうになる。断り方を知らないからだ。いくら仕草やマナーを叩き込まれていたとしても、アンネは駆け引きを叩き込まれたことはない。
人の良さそうな青年が、手を差し出して待っている。
「よ、喜んで」
結局、こんな場所で騒ぎを起こしたくないアンネは、仕方なくダンスホールへと導かれたのだった。
あれから、アンネは五人ほどの男性と踊った。一人目が終わると、なぜかすぐに二人目が来たからだ。三人目も四人目も、さらには五人目まで、休む間も与えられず連続のお誘い。レナルドからダンスを教えてもらっていたとはいえ、さすがに五人連続はきつかった。
そして六人目が現れた瞬間、アンネは脱兎のごとく逃げ去った。貴族流の断り文句なんて知らない。だったら逃げるしかない。すばやく頭を下げて、これまた最速でその場を離れた。どうしてこんなに誘いがあるのか、アンネは不思議で仕方なかった。
(お、これ美味い)
そうしてアンネが居着いたのは、豪華な料理がずらりと並ぶ一画だ。逃げた先にそこを見つけて、アンネは目を輝かせた。宮廷料理人が作る料理なんて、一生口にできるはずもない身分である。今のうちに堪能しておこうと手を伸ばした。
(うわ、この肉舌の上で溶けた? あ、こっちの魚、かかってるソースの酸味がきいてて好きかも。あっちにはデザートまであるのか)
見た目からして上品な料理は、名前も分からないものばかりだ。でも口にすればどれも美味しく、アンネは夢中になった。あんなに嫌だった舞踏会が、今だけは素敵だと思える。
しかし、最高潮に浮いたアンネの気分を、最底辺に落とす声が届く。
「――にしても、正直どう思う?」
「
「独裁なんて、すぐ無理がくるって分からないのかね」
「仕方ないさ。なんせ残虐帝の息子だからな」
はは、と馬鹿にした笑いが癇に障った。
「だいたい、色狂い皇子と散々噂してたくせに、側室をなくしただけで本当は誠実な方なのよとか、女性は簡単に騙されるよな」
「ようは顔だろ。人に見せられないくらい醜いと思ってた皇子が、実は端正でしたってことで手の平を返したんだよ。女性なんてそんなもんさ」
「あーあ、俺もあれくらい整った顔に生まれてたら、何しても許されたのかな」
「たとえば?」
「まさに色に狂って、女を食い散らかしたり?」
「はは、最低だなおまえ」
「おまえだって」
アンネは無言で給仕からシャンパンを受け取ると、そのままつかつかと二人の男に近寄った。腹の底で、煮え滾るものがある。おまえたちに何が分かるのかと。
その肩に、重い責任を負ったこともないくせに。嫌だと声も上げられず、戦争の道具にされたこともないくせに。他人の名誉を守るために、自分の名誉を捨てたこともないくせに。
何が。何が。何が――おまえたちに分かるものか。
「きゃっ」
アンネは男の一人にぶつかると、持っていたシャンパンを
「ああっ、ドレスが!」
大げさに嘆いてみせて、か弱い令嬢が泣いてしまったように顔を覆う。
「わ、申し訳ないっ。大丈夫ですか」
「……じゃない」
「え?」
顔を覗き込んできた男に、周りには聞こえないよう、アンネは低く言った。
「大丈夫なわけあるか。人妻に手を出して、妊娠させてしまったスレイブリー子爵?」
「なっ」
男の顔が一瞬で青ざめる。よろりと後ろに下がったスレイブリーに、一緒にいたもう一人の男が「どうした?」と声をかける。
「あ、いや、なんでも……」
「なんでもじゃないだろ。こんな可憐なお嬢さんにぶつかっておいて、ちゃんと謝っておかないとだめだろう。連れが失礼したね、レディ。ドレス代を弁償させてくれないかな」
今度はにっこりと笑みを貼りつけて、アンネはずばりと口にする。
「それには及ばない。わたしの不注意もある。けど……
「⁉︎」
およそ淑女とはかけ離れた笑みで、アンネは二人の男を見上げた。妖精の眼を持つ者なら、このときアンネの耳元で囁く一匹の妖精が視えただろう。
「人のことをとやかく言う前に、まず自分たちの行いを改めたらどうだ? "色狂い"よりよっぽどたちが悪い」
「聞いていたのか」
ぎり、とハスマンが奥歯を噛みしめる。「おい」と隣にいるスレイブリーに何かを目で合図した。彼が神妙に頷くと、ハスマンが一歩前に出る。
「ここでは何ですし、お話は別室でどうですか? どうやら見た目に反して威勢のいいレディに、僕らからもお話があります」
「いいだろう。あいつを馬鹿にしたこと、たっぷりと後悔させてやる」
せっかくの彼の晴れ舞台だ。それを台無しにされたくないから、アンネは二人にだけ聞こえるよう挑発した。そしてあちらから別室に移動してくれるというのなら、喜んでついていくまでだ。妖精が視えない彼らに、自分が負けるとも思っていない。別室に入った瞬間、幻覚で少しだけ懲らしめてやろうと考えていた。
だからアンネは気づかなかった。それまで音楽や歓談で埋め尽くされていた会場に、別の騒めきが加わっていることに。
三人が火花を散らした、そのとき。
「――では、私も同席願おう」
間から割り込んできた第三者の声に、三人は一斉に動きを止めた。
「どうした? 別室で話をするのだろう? ならばちょうどいい場所がある。案内しよう」
常の無表情で、しかしその声にわずかな怒りを滲ませて、オスヴァルトがそこに立っていた。
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