41st. 新皇帝陛下の愛猫
アンネとハスマン、スレイブリーが同時に唾を嚥下する。何も悪いことはやっていないアンネでさえ緊張を強いられたのは、それだけ彼から不穏な空気を感じとったからだ。
周囲は突然早足で歩き出した皇帝に、何事かと奇異の目を向けている。
「こ、皇帝陛下におかれましては、この度はご即位誠に――」
「
「ど、どうぞっ」
オスヴァルトの威圧に押されてか、ハスマンの声が裏返る。スレイブリーはそのハスマンより肝が小さいようで、すでに魂が抜けていた。
アンネはアンネで、目の前に来た人物を信じられない目で凝視する。
「では、私と踊ってくれるか、アンネ」
片膝をつき、恭しく手を差し出され、アンネよりも周りがどよめいた。その誘い方は、一番大切な女性に男側がするものだ。
物静かな青い瞳に見つめられて、アンネは無意識にその手を取っていた。その瞬間しっかりと握られた手から、オスヴァルトの温もりが伝わってくる。ダンスを踊った他の誰よりも固い手は、これまで何度も剣を握ってきた証だろう。それに苦しめられた過去があるのに、不思議と今は、この手に愛しさが込み上げる。
まるで離さないと強く包まれるそれに、アンネの心臓が飛び出しそうになっているなんて、彼はきっと気づかない。
「久しぶりだな、アンネ」
不自然なほど人がいなくなったダンスホールで、二人は曲に合わせて踊り始める。
「あ、ああ。三か月ぶりか?」
「いや、姿を見るのは二か月ぶりだ。披露目のとき、来てくれただろう?」
「……まさか、見つけたのか?」
あの群衆の中?
「当然だ。どんな人混みの中からでも、あなたなら見つけられる」
「そ、そうか」
緊張して口が上手く回らない。話すべきことはたくさんあるのに、何から話せばいいのか分からない。
ちゃんと寝ているのか。食事はまともに摂っているのか。先代皇帝とは結局どうなったんだ、とか。グレースはどうなったんだ、とか。あと、第一側妃もどうなったのだろう。噂では、諸々の悪事がバレて幽閉されたと聞いた。
それに、そろそろ妻を娶ることも聞いた。そして自分が妖精王の花嫁として、
今まで全く音沙汰がなかったのだ。おそらく、妖精王との交渉は失敗に終わったのだろう。それなら、いつから自分は白宮に行くことになる?
訊きたいことは、山ほどあった。
「アンネ」
なのに、そのどれもが口から出てこない。名前を呼ばれて、胸がきゅっと苦しくなる。
「アンネ、あなたが踊った男たちの中に、気に入った男でもいたのか?」
「え?」
「見ていた。随分と、楽しそうだったな」
「は?」
誰のことを言っているのだろうと、アンネは目を瞬いた。確かにダンスを踊った覚えはある。けど、楽しんだ覚えは全くない。とにかく引きつってもいいから笑みを貼りつけておけとマルティナに言われていたから、アンネはそうしただけである。
「だが、私が先に求婚していることを、よもや忘れてはいないな?」
「きゅ⁉︎」
「……忘れたのか」
ぶんぶんと思いきり首を横に振る。おかげで、一瞬感じたぴりっとした空気が、すぐに霧散した。
「それならよかった。もしあなたが他の男を好いたとしても、すまない、私はもう、あなたを手放してはやれないから」
酷い執着だ、とアンネはぼんやり思う。痣から感じる妖精王のそれよりも、ずっと酷い。オスヴァルトの青い瞳の奥に、くすぶる激情がちらりと見えた。
なのに、自分はそれを心地いいと感じてしまっている。愛してほしいとは言わないから、どんな形であれ、求めてほしいと思っている。
「……うん、いいよ。おまえになら、独占されるのも悪くない」
「アンネ……」
「だから、飽きるまで手放さないで。わたしはずっと、おまえのそばにいるから」
オスヴァルトが息を呑む。アンネがそんなことを言うなんて、きっと予想もしていなかったのだろう。自分で求婚していると言うくせに、答えが返ったら返ったで驚くというのも、またおかしな話だ。
アンネは小さく苦笑した。
「おまえの求婚を受け入れよう。ありがとう、オスヴァルト。義務ではなく、おまえが望んでくれるから、わたしもわたしの
その瞬間、空気が変わった。
「なに? 側妃だと?」
彼から、冬も逃げ出す冷気が漂ってきた。これにはアンネも「え、」と腰を引く。
「どういうことだ、アンネ。私があなたに、いつ側妃になれと言った?」
「や、あの」
逃げ腰をぐいっと引き寄せられ、ほぼゼロ距離にまで密着する。
「私は何度も、あなたを
「いないいない!」
不穏な空気を感じとって、全力で否定した。
「ならなぜ……まさか、もう乙女ではないと……?」
「こんなときに何言ってんだっ。わたしは願いしか売ってない!」
オスヴァルトがあからさまにほっとしている。それこそアンネだって何度も言ってきたことである。
「よかった。そうでなかったら、私は何をするか分からなかった」
ひくり、と頬が引きつった。何をするか分からないって、それはアンネに? それとも相手の男に? 怖くて訊くのはやめた。
「なら、他に何が問題だ?」
「あるだろう、一番重要なやつが!」
「ああ、もしかして、妖精王か?」
「もしかしても何も、それ以外になくないか⁉︎」
そう言うと、なぜかオスヴァルトが目を輝かせた。ように思う。
「それ以外にないということは、それさえ解決していれば、あなたは私の妻になってくれるということだな?」
「へ?」
「そうか。なら話は早い。さっそく行こう」
「え、どこに……っておい⁉︎」
急に身体が浮いて、あっという間に彼に横抱きにされてしまう。衆目を集めているのに、オスヴァルトにそれを気にした様子はない。むしろ周りが見えていないのではと思わされる。その視線は一心にアンネだけに注がれていた。
「フィン、後は任せた。終わったら戻る」
「かしこまりました」
会場を出る間際、オスヴァルトのダンスが終わるのを待っていたフィンに、そう声をかける。
「皆さま、皇帝陛下は少しだけ席を外されますが、引き続きごゆるりとご歓談くださいませ」
そんなフィンの声を遠くに聞きながら、アンネは必死に己の心臓と格闘した。
*
アンネが連れてこられたのは、皇族の居住区である東棟だ。以前と違い、その最奥にある皇帝のための私室に通される。
優しくソファの上に下ろされると、そのまま影が覆いかぶさってきた。
「んっ……――んん⁉︎」
すぐに、キスされていると理解する。柔らかい感触に、ドクンと胸が高鳴った。
「オスヴァ……あっ?」
思わず口を開けると、顎を掴まれさらに大きく口を開けさせられる。分厚く生温かい舌が入ってきて、アンネは内心混乱の渦に飲み込まれた。
軽いキスだって初めてなのに、さらに上をいくフレンチキスなんて、アンネは想像上でしか知らない。
しかし幸いなことに、その濃厚なキスはすぐに止まった。
「ちょっと⁉︎ 僕を呼んでおいて何してるわけ、愛し子!」
なんと、喋る猫が、横からオスヴァルトに蹴りを入れたのだ。ようやく口内を蹂躙していた舌が抜かれ、アンネはほっとしかける。でも離れるときにちゅっとリップ音を響かせて上唇にキスをされれば、アンネの顔は一瞬で噴火した。
「早いな。もう少し後でもよかったんだが」
「そりゃあね? 君はお楽しみだったからね⁉︎ けど、いくら僕が頷いたからって、遠慮がなさすぎじゃないかな⁉︎」
「遠慮というより、余裕がない」
「真面目な顔して言わないでくれる⁉︎」
オスヴァルトはテンポよく猫と喋っている。猫はマンチカンなのか、その短い脚とつぶらな瞳が愛らしい。ブルータビーとホワイトの毛色は、愛らしさの中にも高貴さを窺わせていた。
が、喋る猫など、アンネは一度も聞いたことがない。しかも猫の纏うまっさらすぎる気配には、とてもよく覚えがあるアンネである。
「まさかその猫、妖精王か?」
アンネ自身、そんなことを訊いておいて、内心では「そんなわけないか」と高を括っていた。けれど、
「よく分かったな。まあ、喋る猫なんて普通はいないか」
オスヴァルトのどこか納得したような声を聞いて、アンネは愕然と猫を見やる。鴉に宿っていた妖精の王は、今度は猫に宿ることにしたらしい。切実に、切実に説明を求めたい。
すると、猫が毛繕いをしながら言った。
「まあ僕も? 最初はどうかと思ったんだけどさぁ。暇つぶしに付き合ってあげようかなって、愛し子の提案に乗ってみたんだよ。どうせ僕からしたら、人の子の命なんて一瞬だし。戯れてみるのも一興かなって」
途中から近くにあった球体を転がし始めた様は、まさに猫のそれだった。
「でも、これが、びっくりな、ことにっ、なんか楽し、くてねっ」
球体に飽きたのか、今度はオスヴァルトが振る猫じゃらしに、夢中になって飛びついている。
だんだん目が据わりそうになるのは、はたしてアンネだけだろうか。というより、
「おまえも妙に慣れてるな⁉︎」
「これが意外とかわいくてな」
絆されてるし! とは突っ込めなかったアンネである。
「くっ、また愛し子にしてやられた。あれを見せられると、どうも身体が反応しちゃうな」
「とか悔しがってるわりには楽しそうだったが」
もうどこをどう指摘すればいいのか分からなかった。アンネが見ない三か月の間に、随分とまあ仲良くなったものである。それがちょっとだけ面白くないと感じるのは、いったいどちらに対してか。
「ま、簡単に言っちゃえば、僕は今とても満ち足りてるってことかな!」
本当に簡単なことしか言わない妖精王に、アンネは大きく頭を抱えたのだった。
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