17th. 父と息子
オスヴァルトは、皇太子宮にある私室のソファにもたれながら、やっと手に入れた指輪を眺めていた。
昨日アルミンが暴走したとき、アンネに「指輪を守れ!」と言われ、皇帝の寝室に足を踏み入れた。投げ渡された彼女の薔薇が、意思を持ったようにオスヴァルトを導く。それが皇帝の寝台の下に潜り込み、ぴたりと止まったものだから、オスヴァルトはフィンとともに寝台を動かした。
出てきたのは、床の木目とはまた違う溝だ。もしやと思えば、それは簡単に開けられた。そうしてその中に、小箱に入っていた指輪を見つけたのだ。
それは、運良く一度だけ見せてもらった指輪と相違ない形状だった。
代々の皇帝に継がれる指輪だ。それを、オスヴァルトがどれほど求めたことか。戦ばかりを仕掛け、国内を
でも、だからといって、皇帝という座はそう簡単には奪えない。どんな理由があろうとも、皇帝に敵意を見せた時点で反逆者の汚名をかぶる。血も流れるかもしれない。綺麗事ばかりは、言っていられない。
オスヴァルトの目的は、皇帝を廃位することだった。
そのための手段の一つとして、指輪を手に入れておきたかったのだ。皇帝の証であるそれを持たない人間が玉座につけば、国に大きな災いがもたらされる。それは、皇族に生まれた人間なら、誰もが知る機密である。用心深い皇帝は、その在り処を寵妃にさえ教えていないという。
それが、やっと手に入ったのに。
(なぜ、こうもすっきりしないのだろうな)
予想では、少しくらい喜びに浸れると思っていた。探して、探して、でも見つからなくて。終いには、エルフリーデという外部の人間を頼った。そこまでして見つけたものなのだから、きっと胸のすく思いを抱けるだろうと思っていた。
しかし、現状はどうだろう。胸の中には消えない
浮かぶのは、アルミンの純粋な笑顔だ。
(アンネは、妖精界に帰したと言っていた。そこなら妖精は安らかに休養できるからと)
じゃあ、どうして彼女の顔は、晴れなかったのだろう。回復して、またこっちに戻って来られるのなら、あんなに深刻な顔をするはずがない。何かあるから、彼女は痛ましげな瞳で、アルミンを見送っていたのだ。
その理由を聞こうとしたけれど、はぐらかされてしまった。
「殿下、失礼します」
「フィン? どうした、そんなに慌てて」
物思いに耽っていたら、扉がノックされ、慌てた様子のフィンが入室してきた。夜も遅い時間だ。といっても、オスヴァルトはまだこの時間、いつもは政務に追われている。だからフィンも遠慮なくノックしたのだろう。
「殿下、皇帝陛下がお戻りになられました。すぐに参上するようにとの仰せです」
「!」
いつもは無表情を崩さないオスヴァルトに、緊張の色が走った。皇帝が視察先から帰ってくるのは、もうあと二日後の話だ。それが、すでに帰城している――?
「どういうことだ? 予定の変更など聞いていない」
「はい。私も何かの間違いかと思ったのですが、バルゲリー宰相殿が、わざわざ伝令役にいらっしゃいまして」
「バルゲリーが?」
このエルディネラ帝国は、大きく分けて、首都を除く四つの地域から成っている。それぞれに宰相が派遣されており、その四人の宰相を束ね、また皇帝の補佐役となるのが大宰相だ。
バルゲリーは大宰相でこそないが、首都の東、イーストタウンを治める宰相だった。分かりやすく皇帝派の人間だ。彼もまた、視察に同行していた。それが伝令を持ってきたとなると、皇帝の帰城は間違いないだろう。
「分かった。行こう」
重い腰を上げて、オスヴァルトは立ち上がる。帰城してすぐに呼び出されるなど、嫌な予感しかしない。アルミンの暴走で荒れた皇帝の私室は、なんとか元通りにしてある。が、誤魔化せなかったのかもしれない。
(それとも……)
オスヴァルトは手の中にある指輪を、痛いくらいぎゅっと握った。
「お呼びでしょうか、陛下」
オスヴァルトが通されたのは、皇帝の私室だった。アルミンが暴れ、元通りにした場所だ。そのソファに深くもたれた皇帝が、対面するソファを顎でしゃくった。
「座れ」
言われた通り、オスヴァルトもソファに浅く座る。一か月ぶりの父親は、相変わらずギラギラとした目つきだった。
ただ、その顔に刻まれるしわは、以前よりも増えたように思う。自分と同じ黒髪にも、だいぶ白いものが交ざっている。
「おまえを呼んだのは他でもない、愚か者の話でもしようと思ってな」
「……」
侍従が用意した酒を、皇帝が一口飲み下す。オスヴァルトは黙したまま、父帝から目を逸らさなかった。
「昨日の昼、賊が余の部屋に侵入した。賊は指輪を狙っていたらしい。おまえなら分かるな? 皇帝の指輪だ。まあ大方、願いを叶えてくれるという噂でも聞いたのだろう。だが、賊は人間ではなく、妖精だったというじゃないか。くくっ、愉快よのう。妖精が、余の部屋を荒らし、指輪を狙った? ――阿呆らしい!」
だんっ、と乱暴に酒の入ったグラスを叩きつける。中身が溢れて、テーブルの上に琥珀色の液体が散った。
「妖精ではない。余の指輪を狙ったのは、人間だ。そうだな?」
いつもなら、オスヴァルトはただ黙って頷いていた。それが皇帝に従順な
けど、このときのオスヴァルトは、なぜかそれができなかった。否定することは、妖精であるアルミンを否定してしまうような気がして。
だから何も言わず、オスヴァルトは父帝をただ見据える。
「……ずいぶん反抗的になったな? 身の程を知れこのたわけ者っ!」
バシャッ、と残っていた酒をかけられる。アルコールのつんとした匂いが鼻を突き抜けた。咄嗟に防御をとらなかったのは、正解だったと言ってもいい。
「なぜ! 報告しなかった!」
「申し訳ございません。結果的に部屋を荒らされただけでしたので、陛下の御心をいたずらに乱すこともないと考えました」
「おまえはその程度で余の心が乱れると思うたのか! ――もういい。おまえにはリモーヴの鎮圧を言い渡す。五日で鎮めてこい」
「リモーヴ、ですか?」
そこは、国の東に位置するイーストタウンの中の、さらに東寄りにある街だ。最近、皇帝に不満を持つ者たちが、よく暴動を起こしているとの報告が上がっていた。
「もう少し放っておこうと思ったが、いい加減目障りになってきた。明日、出立しろ。いくら殺しても構わない」
「……かしこまりました。必ずや、鎮めて参りましょう」
リモーヴへは、片道で四日かかる。つまり皇帝は、たった一日ほどで暴動をおさめろと言っているようなものだ。だが、こんな無茶な命令はよくあることだった。
オスヴァルトはソファから立ち上がる。
「ああ、そういえば」
退室しようとするオスヴァルトを、打って変わって、機嫌の良さそうな声が止めた。
「おまえの対応は癇に障ったが、指輪を守ったことは褒めてやろう。おまえは知らぬと思うが、賊が持ち去ったのは偽物だ。ご丁寧にあちらも偽物を置いていってくれたが、馬鹿なことよ。今ごろ偽物を掴まされてさぞ悔しがっているに違いない。くく、やはり愉快よのう。おまえもそう思うだろう?」
「……失礼いたします」
扉を閉める。父の笑い声が耳に残る。オスヴァルトは、壁を思いきり叩いた。たぶん父帝は、薄々勘づいている。オスヴァルトの反抗心に。
「殿下、どうされました」
廊下で待機していたフィンが寄ってきた。
「いや、なんでもない。それよりフィン、すぐに出立の準備を。少数精鋭がいい。リモーヴの暴動を鎮圧する」
「リモーヴですって? まさか、また陛下ですか」
「ああ」
「しかしあそこは、それほど大きな暴動ではなかったはずです。それを殿下自らが鎮圧するなど」
「陛下の命令だ。今はまだ、従う。明朝に出立するよう、私の近衛に伝えてくれ」
「……かしこまりました。では、騎士たちに伝えたのち、お茶をお持ちいたします」
納得していないが、渋々頷いて、フィンは頭を下げた。主の心を慮り、少しでも休んでもらおうとそう言う。多忙な皇太子には、この後も仕事が待っている。
しかし、いつもと違って、オスヴァルトは首を横に振った。
「いや、私は――」
「カァー!」
ダークが突然鳴いた。羽をばたつかせ、部屋中を暴れまわる。アンネは怪訝そうに眉根を寄せた。
「うるさいぞダーク。なんでいきなり暴れ出すんだ」
「カァーッ」
「だから、言いたいことがあるなら言葉にしろ」
「カ、カ、カァーッ」
――頑なだな!
思わずアンネは肩を落とした。こんなにダークが暴れるなんて、オスヴァルトが来ていたとき以来だ。が、それももうないだろう。オスヴァルトの願いは叶えたし、用が済んだなら、彼がまたここに来る意味はない。
別に寂しいと思ったわけじゃない。けど、今までほぼ毎日顔を合わせていた男だったから、なんだか変な感覚はする。なんというか、物足りないような。
アンネがそんなことを考えていたとき、扉が開いた。今夜はもう、エルフリーデは店じまいをしている。だからアンネは最初、ヒルダが来たのかと思った。
でも、予想に反して現れたのは、不本意にも見慣れてしまった男だ。
「昨日ぶりだな、アンネ」
「な、おまえ……」
ちょうど頭に考えていた男が現れて、アンネは目を丸くする。常なら彼の背後には、フィンが控えている。けど今日は一人だけのようだ。
そんな、驚きから二の句を継げないでいる彼女を、オスヴァルトは深い青眼でじっと見つめていた。
昨日ぶりのはずなのに、気分としては久しぶりだと思った。白金の輝く髪、見惚れるほど意思の強い紫の瞳。尊大な態度とは真逆の、小柄な彼女。黙って佇む姿は儚く見えて、今にも消えてしまいそうだ。
いや、実際に消えてしまうかもしれない。自分の目の前から。父帝に暴動の鎮圧を言い渡されたとき、オスヴァルトの脳裏に浮かんだのはアンネだった。
――"いくら殺しても構わない"
その言葉が、アンネの面影を壊した。
「――い、おい? わたしの話を聞いてるのか? なんでおまえがここにいる」
うるさいダークはすでに追い出していた。オスヴァルトをここまで案内したヒルダが、機嫌よく引き受けてくれたのだ。
入るなり沈黙していたオスヴァルトだったが、アンネの問いにようやく口を開く。――が。
「アンネ、やはり、私の妃にならないか」
「はあ⁉︎」
彼の口から出てきたのは、あまりに突拍子もないことだった。
「おまえ、ふざけてるな? 前にも言ったが、わたしは側妃など……」
「側妃にしたいとは、一度も言っていない」
「ん?」
そうだったか? とアンネは一度目の求婚を思い出す。確かに、「側妃に」とは言われていないような気がした。
「そ、そんなことはどうでもいい! どちらにしろ、お断りだ」
「なら、好いた男でもいるのか」
「な……」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだろう。食い下がるオスヴァルトに驚いた。それ以前に、なぜそんなことを訊くのかと、唇がわなわなと震える。
「いるのか」
「いやいないけど!」
咄嗟に否定したのは、勘違いしたオスヴァルトの声が、普段より
「まったく、急になんなんだ。わざわざこんなところまで、そんなことを言いに来たのか?」
「では、どうしたらアンネは、私から逃げなくなる?」
「は?」
「あなたを見て、ほっとした。嫌われていても構わない。だが、あなたに逃げられるのは、堪えると思ったんだ」
「意味が分からない。何の話だ?」
「……リモーヴという街を、知っているか?」
「リモーヴ?」
どこだそこは、と思うのと同時に、なんか話が変わってないか? と混乱する。
オスヴァルトは淡々と続けた。
「リモーヴは、以前からたびたび暴動が起きている街だ。といっても、怪我人が出るほどではなく、街の自警団が止めれば素直にやめてしまうくらい、
「つまり、何が言いたい?」
「血が流れる」
オスヴァルトは簡潔に答えた。行き着くところはそこだ。今までは流れなかった血が、きっと流れる。いや、流せと、皇帝は命じた。
だからこその「いくら殺しても構わない」なのだから。
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