16th. 彼が繋げた縁
あの騒動の後、アンネはカミーユのことをオスヴァルトに話しておいた。せっかく手に入れた指輪を、簡単に奪われてもらっても困るからだ。決してオスヴァルト自身を心配したわけじゃない。
指輪はよく狙われるのか、最初、オスヴァルトは普通にアンネの話を聞いていた。が、カミーユが第一側妃の商人だと知るやいなや、眉根がぴくりと反応した。かなり些細な反応だったが、アンネは見逃さない。後ろで聞いていたフィンも、主以上に苦い顔をしていた。
オスヴァルトは正妃の子供だから、側妃にいい思いなどないのだろう。けど、それだけではないような、そんな雰囲気だった。
それでも余計な口は挟むまいと、アンネは無言で彼の言葉を待つ。
結局、その後のオスヴァルトから言われたのは、願いに対する感謝だけだ。約束の金銭と対価を、必ずグリュック修道院に送っておくという言葉とともに。
他にも何か言いたげだったが、アンネは容赦なく切り上げた。
そして、翌日。もう一日だけメイドのお仕着せを借りて、アンネは今、城にいた。
「アンネ、ここよ」
城の裏庭の、奥まったところにあるガゼボ。庭というより、森と言ったほうがしっくりくる風景の中に、同じ緑を宿した女性がいる。ビアンカだ。ガゼボにある椅子に座っていた彼女の隣に、アンネもそっと腰を下ろした。
「あら、どうしたの? なんだか元気がないわね」
「……ちょっとな」
アルミンを助けてやれなかったことが、アンネの中に苦い思いを抱かせる。特にビアンカを見ると、余計に。
「もしかして、アルミンのことかしら?」
「!」
なぜそれを、と思った。ビアンカはあの騒動を知らないはずだ。アンネも言っていない。ただ、アルミンは故郷に帰ったと、それだけは伝えようと思ってここにいる。
「殿下から聞いたの」
「殿下ってまさか、オス……皇太子にか?」
「ええ。実は昨日ね、私、殿下の近衛騎士様に、何か身につけているものを貸してほしいと頼まれて、ネックレスを貸したのよ」
それはアンネも知っている。それが、きっとアルミンの救いになる。
「最初は意味が分からなかったんだけど、なんだか焦っているようだったし、アルミンを救うためだと言われて……」
「え? アルミンを救うためだと、そう言われたのか?」
そんな馬鹿正直に話して借りていたものだったとは、露とも思わなかった。
「そうよ」
ビアンカは困ったように笑う。じゃあ貸さないわけにはいかないじゃない、と。
「殿下って、不思議な人ね。噂で聞くより、ずっとまともな人だと思ったわ」
そう言って、彼女は新緑の瞳を伏せる。風がなびいて、髪が流れる。アンネは鬱陶しくなって、長い髪を耳にかけた。じっとビアンカの次の言葉を待つ。
ビアンカは、何が言いたいのだろう。
「だって、ネックレスを借りていくとき、その騎士様は一言も殿下の使いだとは言わなかったの。ただ一言、アルミンという男を助けてほしい、と。そう言ったの。だからその騎士様が殿下の近衛だと知ったのは、その後のことよ。殿下が、謝罪に来てくれたとき」
「謝罪?」
「ふふ、びっくりでしょう? 私もびっくりしたわ。だって殿下のご尊顔を、そのとき初めて見たんだもの。どのお顔が残念な顔よって、顎が外れるかと思ったわ。おかげで皇太子殿下の証を見せられても、最初は半信半疑だったの」
「そ、そうか。それで、謝罪って何を?」
そう訊くと、ビアンカは少しの間を空けてから、
「アルミンを助けてやれなくて、申し訳なかったって」
悲しそうに瞳を揺らした。
でも次には、それを振り切るように冗談っぽく微笑んだ。
「本当に、何から何までびっくりよ。アルミンって、殿下とお知り合いだったの?」
「あ、ああ。そうみたいだな」
「殿下は、詳しくは教えてくれなかったけど、自分が助けられなかったせいでアルミンが故郷に帰ったことを教えてくれたの」
少し、意外だった。まさかオスヴァルトが、アルミンのためにそこまでするなんて。
でも本当は、意外でもなんでもないのかもしれない。出逢ったオスヴァルト・クロイツという男は、いつも妖精に敬意を払っていた。それは、妖精のために在ろうと決めたアンネでさえ、戸惑うほどに。
彼を憎めないのは、きっとそのせいだ。
「ね、不思議な人でしょう? だってまさか、皇太子殿下が頭を下げるなんて、夢にも思わないわ。それも使用人に。……噂ではもっと、怖い人だと思っていたのに」
(怖い人、か)
おそらくそれは、皇帝の影響だろう。残虐帝で知られる父に命じられ、彼はよく戦地に赴く。戦う。血を流し、流させる。しかもそれを、全てあの無表情でやってしまう。
だから人は、色狂い皇子のことを、血狂い皇子とも揶揄するのだ。アンネがそれを知ったのは、やはり噂好きのメイドたちがそう噂していたからだった。
けど、アンネの中のオスヴァルトの印象に、一度も"怖い"などという感情は浮かばなかった。あの男ほど穏やかな人間はいない。たぶん、低く耳触りのいいあの声が、アンネにそう思わせるのだろう。
「ねぇ、アンネ。実は私、皇后様の侍女を続けることになったの」
「え?」
驚いて顔を上げれば、ビアンカの瞳とかち合った。優しい瞳だ。アルミンが好きだと言った瞳。
「皇后様に、ちゃんと全て話したの。馬鹿な恋に浮かれてしまったこと、皇后様にかけた迷惑、そして、それを気づかせてくれた人がいたから、今こうして立ち止まることができたこと。話して、どんな処罰もお受けしますって言ったわ。そうしたら……」
皇后はこう言ったそうだ。「でしたら、その気づかせてくれた方に免じて、一度目の過ちは許しましょう」と。
「これは、殿下にお会いして思ったのだけど……。よく似てたわ、皇后様と殿下は。何ていうのかしら、雰囲気が」
「なかなか度量の大きい皇后だな」
「でしょう? とても優しい主なの。それでも、まさか許されるとは思わなかったけど」
それほど、自分が引き金となって起きたことに、皇帝から叱られていたことをビアンカは知っていた。それが原因で、最近体調が思わしくないことも、ビアンカは知っていたのだ。
結局言い渡されたのは、一週間の謹慎のみ。
「だから私、今日から一週間は城から離れるの。本当はその前に、アルミンにお礼を言いたかったのだけれど」
でもね、とビアンカが続ける。
「アルミンが私のネックレスを持っているなら、次の約束はしたも同然でしょう? 私は会えずに別れてしまったけど、ネックレスが次の約束になるわ。だって殿下は、ちゃんと私の伝言を伝えてくれたのだもの」
「伝言?」
「ええ。ちゃんと返してねって。誰かさんの受け売りよ」
ビアンカが悪戯っぽく笑う。アンネは一度目を瞬くと、心当たりにぶつかって瞠目した。
それは、いつかのアンネが言ったように。誤解をそのままにしてやるから、自分で解け、と。
「だから私、アルミンにも殿下にも、そしてアンネにも感謝してるの。全部が巡り巡って、悲しいだけじゃない未来があるから。アルミンはきっと、返しに来てくれるわ」
「そう、だな。アルミンならきっと、間に合わせそうだ」
「だからほら、そんな沈鬱な顔はやめて、いつもの尊大な態度でいなさいな」
ばし、と軽く背中を叩かれる。ちょっとびっくりして、アンネはされるがままだった。
「ふふ。アルミンが言っていたわ。『代理人はいい人なのに、あの口の悪さと態度のでかさが玉に瑕なんです。だから僕、願いを叶えてくれたお礼に、あれをなんとかしてあげようと思ってるんです!』って」
余計な世話だ、と思った。でも、アルミンらしい、とも思った。口の端から小さな笑みがこぼれる。
「代理人って、アンネのことよね? 以前そう呼んでいるところを見かけたから。だからアルミンに代わって、私がその役目を引き継ごうかしら」
「え、や、それはちょっと遠慮したい。その意思は引き継がなくていいと思う」
今さら自分を変えるのは、なんだか恥ずかしい。だからアンネは、姐たちからも散々言われてきたこの口調を、今日まで改めてこなかったのだ。一度身についたものを直すには、心がそれを拒否している。
「だめよ。次アルミンに会うまでに、私と一緒に頑張りましょう。私は、次にアルミンに会うまでに、二度とあんな男には引っかからないようないい女になるって決めたの。だからアンネも、アルミンをあっと言わせるわよ!」
「別に私は言わせなくてもいいんだがっ」
「一人より二人だわ。二人なら頑張れるでしょ」
「一人でやってくれ! わたしを巻き込むなっ」
迫ってくるビアンカから逃れるように、アンネは椅子から立ち上がる。早々に諦めてくれるかと思ったが、意外にもビアンカはしつこかった。鬼ごっこをする二人の頭上には、爽やかな秋晴れが広がっている。空気は少しひんやりとして、だんだん冬が近づいていた。
木の葉を巻き上げる風が吹いて、アンネとビアンカは立ち止まる。
――ずるいですよ、代理人。
まるで、そう咎められたみたいに。空を見上げれば、頬を膨らませたアルミンが簡単に思い浮かんだ。きっと今頃、妖精界で眠りについている。
(早く、こちらに戻ってこい、アルミン)
「……早く、また会えるといいわね」
ビアンカが呟く。どうやら同じことを考えていたらしい。それがなんだかおかしくて、誰かとこういう時間を共有していることも不思議で、アンネはもう一度空を見上げた。
アルミンが繋いでくれたこの縁を、彼もまた、喜んでくれるだろうか。
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