10th. 心乱される
「あら、アンネ。今日も出かけるの?」
ぎくり。肩が面白いくらい跳ねた。振り向けば、気怠そうな表情の女がいる。この〈妖精の庭〉で働く娼婦だ。
アンネは彼女たちを「◯◯
「なんだ、リサ姐か」
ほっと胸を撫で下ろす。見つかって一番厄介なのは銭ババだが、次に厄介なのは、ラウラだ。〈妖精の庭〉トップの娼婦であり、なぜかアンネを娼婦にしようと目論んでいる人である。彼女曰く「アンネは絶対に売れるわ!」とのことであるが。本人はかけらも思っていない。
「ふふ、ラウラだと思った? 安心して。ラウラの昨日の客、絶倫で有名なお方だったから」
つまり、翌朝の今、彼女はベッドに突っ伏したまま動けないだろうと。
「私も昨日ははりきっちゃったから、まだ眠いのよねぇ」
じゃあ寝ていればいいのでは? と表情に出ていたらしい。
「実は、アンネに訊きたいことがあって。最近よくエルフリーデに会いに来るお客がいるんでしょ? しかもかなりの上玉らしいじゃない!」
「銭ババから聞いたのか?」
「まあね。オーナーがね、なんとしてもこっちの客にもなってもらえないかって、画策してるみたいよ」
「ああ……」
銭ババの考えそうなことだ、とアンネは微妙な顔になる。ちなみに、銭ババことヒルダは、アンネ以外にはオーナーと呼ばれている。
「しかも、オーナーがちらっと見た感じ、顔も良さそうだって言うじゃない? もうみんな期待しちゃって。目が肥えてるオーナーがそう言うもんだから、信憑性はかなりのもんよねぇ」
「それで、一応わたしにも訊きにきたって感じか?」
「そう! どんな感じの人?」
「どんな……」
と考えて、口籠る。別にここで素直にオスヴァルトたちの情報を渡すことに、特段問題はない。が、なぜか口は別の言葉を紡ぎ出した。
「一言で言うなら、面倒な奴だ」
「面倒? やだ、もしかして絶倫?」
「リサ姐、おかしい。わたしは色は売ってない。そっちのことは知らない」
「でもアンネが思ったことって、たいがい当たってるじゃない?」
アンネに自覚はないが、どうやらそうらしい。まあ、男を見る目だけは、この〈妖精の庭〉で嫌というほど培われてきた。
「……どちらかというと、執着しそうなタイプだな」
「うわ、ねちっこいやつだ! それも大変なのよねぇ」
いつもならなんて事のない会話だが、今日に限っては、なぜか気乗りしない。いや、いつもだって気乗りしているわけではないが、いつも以上に気が乗らない。
むしろ、胸の内をじんわりと侵すのは……
「リサ姐、行っていいか? わたしも忙しいんだ」
「え? ああうん。引き止めてごめんねぇ」
さっそく背を向けるアンネに手を振りながら、クラリッサは小首を傾げる。
「今日は機嫌が悪いのかしら?」
クラリッサから逃げたアンネは、城への道を黙々と歩いていた。アルミンはいない。彼は城に泊まっている。と言うと正確ではないが、少しでも長くビアンカの近くにいたいらしい。とりあえず、視えないときでも節度は守れと伝えておいた。
けれどアンネは、もちろん城になど泊まれない。だから毎日通っている。アルミンと、オスヴァルトのために。
かれこれ五日が過ぎた。
(今日もし会えたら、二度と娼館には来るなと伝えよう)
悲しいことに慣れてしまった道を歩きながら、アンネは考える。
(あんな男を姐さんたちに近づけたら、店が潰れる)
アンネがオスヴァルトの色気を前に思ったのは、手練手管を知っている娼婦たちでさえ、彼は手に負えないだろうということ。
このままでは、銭ババによってオスヴァルトが客になってしまう。何にも関心がなさそうなあの男でも、〈妖精の庭〉で働く
(もし来たら、依頼は断るとでも言うか)
脅し文句を決めて、アンネはひとり頷いた。それが一番有効だろう。どういうわけか、この五日間、ほぼ毎日娼館にやって来る暇人には。
(というか、来る必要ないよな? なんで来るんだ、あの男)
皇太子がそんな暇人でないことくらい、さすがのアンネだって知っている。その日の成果を訊くのは分かるが、そんなもの、正直城でいいだろうと思う。どうせアンネは城に行く。以前のように、皇太子宮で話せばいい。どう考えても二度手間だ。
(だいたい監視がついてるのに、娼館通いなんて……)
そこまで思って、はたと気づく。――ああ、なるほど。逆だ。
この国は、皇族以外の
(はっ、無駄のないことだな)
顔が歪む。なぜ、それがこんなにも苛つく。落胆にも似ている。いったい自分は、何を期待したのか。
胸の前に両手を持っていく。慣れた手つきで、アンネは薔薇を咲かせた。そして何事もなく城門を通過する。
いつもなら、このままアルミンとの落合場所に向かうのだが。
(さっさと指輪を見つけよう。それで、終わりにする)
これ以上、厄介なことには巻き込まれたくない。何よりも、これ以上、自分でも不可解な感情の起伏に、煩わされたくはなかった。
アンネはこの五日間で、指輪のだいたいの目星をつけていた。
最初は、オスヴァルトが失くしたと聞いたから、皇太子宮にあるのではと思っていた。けど、残念ながらその予想は外れた。
細い糸のように、頼りない気配。なんとか辿った先は、本城の東奥。そこは皇族の居住区らしい。
厄介なところに落としてくれたものだと、内心で毒を吐く。
「代理人!」
しかし、まさに皇族の居住区に向かおうとしたアンネを、アルミンの声が呼び止めた。人の姿をしているが、まだ人には視えない彼は、堂々と声を張る。
アンネは視線で応えると、人の気配がない空き部屋へとアルミンを誘導した。
「すまない、アルミン。待ちきれなかったか?」
「というより、これから向かうところでした。どうしてこんなところに?」
「まあ、ちょっとな。会えてよかった。ここで術をかけよう。……よし、いいぞ」
「ありがとうございます!」
るんるんと、こちらまで微笑ましくなるテンションで、アルミンは部屋の扉を開ける。
出て行く間際、振り返ってきた。
「そうだ、代理人。僕って、やっぱり城外では、駄目ですよね?」
何が? と問うまでもなく、アンネは答える。
「そうだな。さすがに馬のときは……。そもそも、人の姿でないと意味がないだろ?」
「そうなんですけど……。ちなみに代理人って、僕みたいな妖精を人の姿にすることはできますか?」
「無理だ。申し訳ないが、それはわたしの力では出来ない」
「じ、じゃあ、代理人以外で、そういう力を持った人とか、いません?」
「アルミン? 急にどうした?」
なぜ突然そんなことを訊くのかと、アンネは困惑する。
それが伝わったのか、アルミンは「いえ、やっぱり何でもないです」と力なく笑った。申し訳なくて、アンネは繕うように言う。
「でも、できることでなら力を貸すから」
「はい、ありがとうございます」
しかしやはり、その顔はいつものようには晴れなかった。
*
アルミンと別れた後、アンネは胸に引っかかりのようなものを感じながら、目的の場所へと向かっていた。皇族の居住区だ。幸いにも、アンネの嫌いな皇帝は、一ヶ月ほど前から国境の視察に行っていて留守らしい。次なる戦でもおっ始める気じゃないかと、民は不安の中を生きている。
「――なんでだ、兄さん!」
やがて目的地に入り――途中境界で見かけた騎士には術で誤魔化し――アンネは雑巾片手に堂々と廊下を歩いていた。雑巾を持っているのは、以前の失敗から学んだことだ。これなら誰かに見咎められても、雑巾で言い訳がきく。掃除をしていました、と。
すると、頼りない気配から指輪の在り処を探っていたアンネの耳に、誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。それはひとつの部屋からだった。
「あんたにはうんざりした!」
バンッ。扉が開く。アンネの目の前で。
予想だにしてなかったので、中から出てきた人物とばっちり目が合ってしまった。
「あ? 誰だおまえ」
(それはこちらのセリフだが)
そう思っても言わないだけの分別は、アンネにもあった。
すぐに廊下の脇に寄り、頭を下げる。さっさと行ってくれ、と念じながら。例のごとく、外面とは裏腹に、心臓はばくばくだ。
「おい、俺が誰かと訊いたんだから、名前くらい名乗れ」
(偉そうな奴だな。ということは……)
おそらく、皇族のひとりだろう。なにせここは、皇族の生活空間だ。こんな場所でそんな態度を取る人間は、皇族しかいないだろう。
皇帝ではない。その顔はアンネも覚えている。いずれ唾を吐いてやる顔だ。もちろんオスヴァルトでもない。一瞬見えた男は、少年のような風貌だった。となると、オスヴァルトの兄弟か。確か側妃その一が、第二皇子を産んでいたはずだと思い出す。
「失礼いたしました。わたしはア――」
「アレットだ」
「――え?」
「彼女はアレットだ、イアン。私が呼んだ。この意味、分かるな?」
「っ、この女もかよ! 呆れた。もう勝手にしろ!」
今度こそ男は立ち去り、その護衛と思しきひとりが後を追う。
状況を飲み込めないアンネは、とりあえず、いきなり出てきて勝手に人の名前を偽ってくれた男を睨んだ。
「誰がアレッ……」
「そう怒るな、アレット。キスでもすれば、機嫌を直してくれるか?」
「⁉︎」
あんぐりと口を開けて、アンネはオスヴァルトをまじまじと見つめた。なんで色気全開なんだ、という突っ込みは、悔しいことにできなかった。気づけば腰に手を回され、
扉が閉まった。
「――すまないアンネ、実は諸事情で……」
変わり身はやっ、とも口には出せない。そんなことより、
「いいから離せっ。そしてその色気をしまえ!」
「?」
不意打ちほど心臓に悪いものはない。ふ、と誰かが笑う気配がした。フィンだ。
「顔が真っ赤ですね、エルフリーデ殿。風邪でも引かれましたか?」
「っ、おまえ」
「なんでしょう?」
「あれだ、わたしはおまえが嫌いだ。そしておまえもわたしが嫌いだ。結論、二度と会う必要はない。帰る」
出て行こうとするアンネの腕を、オスヴァルトが掴んで止める。
「待て、アンネ。まだ行くな」
まるで愛しい恋人を引き止めるような言葉だが、そんな意味で言われていないことくらい、アンネも承知済みである。天然なのか、策士なのか。たまに混乱する。混乱する自分が、アンネは嫌いだ。
「……理由は」
「理由?」
「引き止める理由だ。監視か? そうじゃないなら行くぞ」
「監視は……ついているが。ただもう少しだけ、私があなたと一緒にいたいと思った。これではだめか?」
「は?」
「え?」
アンネとフィンの声がかぶる。二人して目をぱちくりと瞬いた。今聞いたのは幻聴だろうか。幻聴であってくれと、フィンなんかはだんだんと顔を青ざめさせていく。
「イアンに、娼館通いなんてやめろと言われた」
「え、いや、イアン? って誰だ」
先の言葉の衝撃が大きく、アンネは抵抗する気も失くしていた。アンネの腕には、オスヴァルトの手が掴まれたまま。
「腹違いの弟だ。嫌われているようで、私のやることなすこと気にくわないらしい」
「そりゃ、誰だって兄が娼館通いは、嫌だと思うぞ?」
今日のオスヴァルトは、なんだかいつもと違って弱々しい。無視もできなくて、つい返事をしてしまう。本当は、今日で全てを終わりにしてやろうと、意気込んでいたはずなのに。
「しかし、通わないと、あなたと満足に会えないだろう?」
「はっ?」
「で、殿下! どうされました。今日はいつも以上にお疲れですね。もう休まれてはいかがですか」
「? まだ大丈夫だ。仕事も残ってる」
「いえ、きっと気づいていらっしゃらないだけです」
「わたしもそう思う。おまえ、今日はなんだか変だぞ」
「そうか?」
「そうだ!」「そうです!」二人の声がまた重なる。
「そうか。二人から言われるなら、そうなのだろう。急ぎの案件もないし、休むとしよう」
「ええ、ぜひそうなさいませ」
フィンがほっと息をつく。アンネも胸を撫で下ろした。無駄に心臓が脈打っているのは、慣れないものを見てしまったせいだ。
(だから、こいつは手に負えないんだ)
触れられていたところが熱を持っているなんて、アンネは一生認めたくなかった。
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