27th. 求めるもの


 ペンの走る音が響く。一つだけじゃない。オスヴァルトと、文官のものだ。フィンは書類の整理を着々とこなし、紙をめくる淡白な音も響いている。

 これが皇太子の執務室の常ではあるけれど、最近は特に、部屋の中はぴりぴりとしていた。原因は、もちろん部屋の主だ。

 フィンは書類をまとめるふりをして、オスヴァルトの目元をちら見する。濃いクマがあった。


「殿下、そろそろ休憩にいたしませんか?」

「私は後でいい。だが、おまえたちは休憩を取ってくれ」

「いえ、殿下が休憩されないのに、臣下が休むわけには参りません。殿下、私たちのことを思ってくださるなら、どうか休憩にいたしましょう」

「……おまえは本当、私を動かすのが上手いな」

「とんでもございません」


 オスヴァルトは羽根ペンを置き、苦笑した。フィンはいつもそう言って、オスヴァルトに休憩を取らせようとする。自分のためなら休憩を取らないオスヴァルトも、こう言われてしまったら取らざるを得ない。

 それに、最近は特に休めていない自覚もある。


「失礼いたします」


 タイミングを計ったように、茶器の乗ったワゴンを押して、一人のメイドが入室してきた。おそらくフィンが先に手配していたのだろう。なんて気の利く男だ。

 ワゴンには、茶器が一つだけ用意されている。


「では殿下、私たちは別室で休憩させていただきますので、何かありましたらお呼びください」

「ああ」


 オスヴァルトとメイドを残して、フィンと文官が下がっていく。最近の休憩時間は、いつもこんな感じだ。オスヴァルトがそうするよう命じたからである。

 ふわりと、清涼な空気が肌を掠める。彼女、、が近くに寄った合図だ。彼女の周りは、いつも澄んだ空気が流れている。


「オスヴァルト?」


 メイドらしく茶を淹れるアンネの腰に、オスヴァルトは腕を回した。


「今日は、何をしていた?」


 いつものように尋ねる。アンネがメイドとしてこの部屋に来てから、二人はこういう時間を持つようになった。


「そうだな、今日は皇后に会ったよ」

「皇后陛下に? そうか。皇后陛下は、元気だったか?」

「ああ。元気そうだった」

「……あの方の趣味に、付き合わされたりしなかったか? 茶会が好きな人だから、大変だったろう」

「そうでもない。茶を飲むくらい、別に大変でも何でもないさ」

「そうか」

「それよりおまえ、また寝てないな? 目元のクマが酷い」


 言われて、オスヴァルトはじっとアンネの瞳を覗き込む。今は椅子に座っているオスヴァルトのほうが、アンネより低い位置にいる。手を伸ばした。彼女の前髪を、さらりとどかす。よく見えるようになった紫眼は、一心にオスヴァルトを見つめてくれている。

 

「オスヴァルト?」

「あなたは、私をよく知ってくれているのだな」

「急になんだ」

「いや、あなたは私の嬉しいことばかり言ってくれるから。……正式に、側室になる気はないか?」

「またその質問か」


 眉尻を下げて笑うアンネに、オスヴァルトは内心で苦笑した。アンネがそれ以上を言う前に、彼女の頭に手を回し、そのままぐっと胸に抱き寄せる。


「やっぱり今のは忘れてくれ。戯言だ」


 胸に抱く、アンネは。

 されるがまま、大人しく抱きしめられている。やはり彼女の周りは澄んだ空気が流れている。心地いい。このままずっと、抱きしめていたくなる。

 しかしその誘惑に打ち勝って、オスヴァルトはアンネの身体を離した。


「そろそろ仕事に戻る。あなたも戻るといい」

「フィンを呼ぶか?」


 オスヴァルトは首を横に振った。


「彼らはもう少し休ませたい」

「分かった。おまえもほどほどにな。何かあったらわたしを呼べ」


 そう言って、アンネは部屋を出て行く。バタンと扉の閉まる音を聞いて、オスヴァルトは椅子の背もたれに深くもたれた。

 天井を仰ぐ。色々と、疲れている。


「まずいな……」


 一番まずいのは、自分の精神状態だ。さっきアンネに言ったことは、本心からのものだった。

 本当に、彼女はよく見ている。アンネが何を言えば、、、、、、、、、オスヴァルトが喜ぶのか、よく知っている。だからそういうとき、オスヴァルトは決まってこう言うのだ。

 ――"側室になる気はないか?"

 本物の、、、彼女なら、絶対に怒る質問だ。その差異を見出して、夢から覚める。落胆する。

 だって彼女は、決して自分を許さない。ましてや、大人しく自分の腕の中に収まるはずがない。

 なによりも。


(瞳が違う。アンネは、あんなに愛おしそうに私を見ない)


 でも、だから、時々目眩を起こしそうになる。アンネに愛されている錯覚に陥る。それはとても甘美で、抗い難い誘惑だった。


(ハニートラップなんて、引っかかるわけもないと思っていたが……)


 こんなトラップなら、罠と分かっていても引っかかりたくなってしまう。あのアンネは、まさにオスヴァルトの望むアンネだ。他愛ない会話をし、抱きしめたらすり寄ってきて、オスヴァルトだけをその瞳に映す。歓喜に震えた。自分の中に、こんな感情があったことを初めて知った。

 けど、現実は甘くない。


(フィンは、何か掴めただろうか)


 今頃、一番の側近は、秘密裏に彼女の正体を探っていることだろう。オスヴァルトが偽物に違和感を感じたのは、最初にあのメイドが来たときだ。まだ本物だと思っていて、思わず心のままにアンネを抱き寄せたとき。

 薔薇の香りが、しなかった。香水とはまた違う、生花の匂いがそのまま移ったような、自然な香りが。それに気づかなかったら、オスヴァルトは危うくキスまでしていた。

 その後、何度か鎌をかけてみると、彼女は見事に引っかかった。

 ただ分からないのは、その目的だ。わざと隙を見せても、彼女はオスヴァルトを殺さない。偽の機密文書をこれ見よがしに置いても、彼女は興味も見せない。本当に、ただオスヴァルトと過ごすだけ。だから、余計に錯覚しそうになる。

 本物の彼女が、そこにいるのだと。

 

(……少し、頭を冷やすか)


 気怠げに立ち上がって、部屋を出る。扉の前にいた騎士にフィンへの伝言を残して、オスヴァルトは秘密の場所へと向かった。



 ***



 悪夢を見ると言ったグレースを助けるため、アンネは今夜、また会うことを約束した。呪いが活動的になっているほうが、妖精の特定がしやすいからだ。運が良ければその妖精に会うこともできる。そうすれば、呪いを解くよう説得もできるだろう。

 グレースを見送った後、アンネはしばらくその場に留まった。グレースのお気に入りの場所は、とにかく人が来なくていい。自然もたくさんあって、これなら妖精が二、三匹くらいは隠れていそうである。

 アンネは両手を胸元に持っていくと、小ぶりの白薔薇を咲かせた。待つこと数秒。狙い通り、薔薇の周りに親指ほどの妖精が現れる。三匹とも色違いの羽を持っていて、嬉しそうに薔薇の花びらを抱えた。


「おまえたちに、頼みがある」

「どんな?」


 妖精が機嫌よく応じる。アンネの薔薇は、妖精にとってご馳走らしい。だから、何かを頼むとき、アンネはいつもこの方法を取っていた。


「妖精王の気配を探ってくれ。王の指輪を探してるんだ」

「王様の指輪を? それなら僕、場所を知ってるよ」

「本当かそれ⁉︎」

「本当だよ。でも、あそこには行きたくないよ」


 薄緑色の羽を震わせて、一匹の妖精が言う。


「僕は別に、指輪なんて興味なかったんだ。ただちょっと王様の気配が懐かしくて、ふらっと近づいただけだったんだよ? なのにさ、人間の皇帝が、すっごぉーく怖い顔で睨んできたの。思いきり叩かれて、痛くて、必死に逃げたんだ。もうあんな怖いところには行きたくないよ」


 しゅんと落ち込むその妖精を、他の妖精がよしよしとあやし始める。トラウマになってしまったのだろう。

 でもアンネは、別のことに気を取られた。


「おかしい。皇帝は妖精の眼を持っていないはずだろ? なのになんで」

「持ってるよ、あの人」

「え?」


 今度は水色の羽を持つ妖精が応える。


「あの人、私たちのこと信じてないって言ってるみたいだけど、視えてるよ、私たちのこと」

「まさか……」


 ではなぜ、視えているのに、信じないのか。そんな疑問が浮かぶ。視えないから信じないのなら、まだ納得がいく。でも視えているのに信じないなんて。


「どういうことだ? 皇帝は思ったより馬鹿なのか?」


 そういう問題じゃないと、フィンがいたら突っ込んでくれただろう。もちろん、冷ややかな視線付きで。


「どうしてかは知らないけど、きっとあの人、私たちのことが嫌いなんだよ。ね」

「うん、だと思う。こいつの他に部屋に入っちゃった仲間は聞かないけど、城の中を散歩してると、たまに感じるんだよ。睨まれてるの。だから妖精は、みんな本能的に怖がって近寄らない」


 青色の羽を持つ妖精の言葉に、他の二匹も頷いた。妖精は嘘をつかない。どうやら妖精を否定している皇帝は、彼らのことが視えているらしい。


(これだと妖精に探してくれと頼むのも、酷か)


 アンネが探すより、人に視えない彼らに探してもらったほうが、何倍も効率がいいと思ったのだが。


「分かった。なら今のは聞かなかったことにしてくれ」

「いいの?」

「ああ。おまえたちを困らせたいわけじゃない」

「じゃあ、あの……」


 ちらちらと、薔薇の花びらとアンネを交互に見る。妖精は、対価と交換で、人の頼みを聞いてくれるときがある。アンネの薔薇は対価だ。だから、返さなきゃいけないのかと、残念そうに肩を落としている。

 三匹とも同じ反応をするから、アンネは笑ってしまった。


「それは持っていっていいよ。さっきの情報の対価だ」

「いいの⁉︎ やったー!」


 途端笑顔を弾けさせた妖精たちに、やはりアンネは笑ってしまう。この素直さには、癒される。


「ありがとう、代理人。でもあれだけの情報じゃ対価が見合わないから、もう一つ教えてあげる。これは他の仲間から聞いたんだけど、あわいの子が妖精を従えて、何か企んでるみたい。城にいるなら、気をつけて」

「あわい……妖精と人間のハーフのことか?」

「そう。できれば、解放してあげて。従わされてる妖精は、羽をとられたみたいなんだ。羽がなければ、僕らは自力で妖精界に帰れない」


 アンネの眉根が寄る。妖精にとって、羽は命の次に大切なものだ。それをとるなんて、自身にも妖精の血が流れていながら、惨いことをすると思った。


「分かった。ちなみに、そいつの名前は分かるか?」

「んー、なんだっけ」

「でも従わされてる妖精なら分かるよ。エアリアルだ」

「エアリアル?」


 確かそれは、大気の妖精だったと記憶している。風を自在に操れる妖精だ。


「そんな高位の妖精を?」

「弱点でも突かれたのかも」

「おっとりしてるからね、彼女は」

「まあいい。幸い、わたしはしばらく城に通うし、エアリアルのことも気にかけておこう」


 妖精が困っているなら、放っておけない。しかも無理に従わされているのなら、なおさらだ。

 ただ驚いたのは、まだ人間と妖精のハーフがいたことだ。昔はそれなりに多かったらしいが、今ではほとんど見かけない。実際、アンネは一度も見たことがなかった。

 そのとき、誰かの足音を耳が拾う。不規則的で、音だけでもふらついた足取りだと分かる。

 

(グレースが戻ってきたのか?)


 それでまさか、その途中でまた貧血か目眩でも起こしたのだろうか。


(だから侍女をつけてこいと、あれほど……)


 呆れ半分、苛立ち半分で、アンネは足音に近づいた。相手もこちらに近づいている。視界を遮っていた木の向こうから、一つの影が現れた。


「グレース、なんで戻っ――え?」


 目が合った、闇色の人物に、アンネは身体を硬直させた。

 けどそれも一瞬だ。彼の身体が、前のめりに倒れていく。


「オスヴァルト‼︎」


 それを見て、アンネは考えるより先にその手を伸ばしていた。


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