35th. もうひとりのエルフリーデ



「愛しい男?」


 そう聞いて、アンネは思わず鼻で笑いそうになった。愛しい男? 違う。オスヴァルト・クロイツという男は、アンネにとってそんな存在ではない。

 それよりももっと――。


「だからおまえは、わたしたちを甘く見過ぎていると言うんだ!」

「アンネの言う通りだ。まずはその手を放してもらおう」

「⁉︎」


 吹っ飛ばしたはずのオスヴァルトが、いつのまにかカミーユの真横にいる。切っ先を突きつけ、今にもカミーユの喉を貫かんばかりだ。

 いつのまに、とカミーユは慎重に喉を震わせた。


「何で……さっきまでそこに」


 ほんの一瞬だ。カミーユが、オスヴァルトから視線を外したのは。なのに。


「もともと、おまえがここに来ることは見越していた。予想さえしていれば準備を怠ったりはしない。アンネが事前にかけてくれていた保護のおかげで、大したダメージじゃなかった」

「っ、おいおいマジかよ。やっぱ何者? 代理人って。けど、あんたらも俺のこと、甘く見過ぎだぜ?」


 ぶわりと、風が沸き起こる。オスヴァルトは咄嗟にアンネの腕をとり、彼女を背後に庇う。


「なあ、俺が何のハーフか知ってるか? セルキーだよ。妖精の眼を持ってるアンネなら、セルキーが何なのかくらいは分かるだろ?」


 それに答えるように、アンネは舌打ちする。

 セルキーとは、あざらしの妖精だ。ただ陸に上がる時は脱皮して、美しい人間の姿になる。男のセルキーは、人間の女を誘惑することに長けているらしい。

 そして一番厄介なのは、セルキーが嵐を起こせるほどの力を持っているということ。


「純粋なセルキーほどじゃあないが、俺もわりと風は起こせる、んだよっ」


 カミーユが腕を振ると、そこから鋭い風が生まれる。それは刃のようで、オスヴァルトは咄嗟にアンネを腕の中に閉じ込めた。


「な、馬鹿! 離せっ。これじゃおまえが……っ」


 文句は聞かないとばかりに、オスヴァルトはアンネの頭をさらに強く押さえつける。

 足、横腹、腕、背中と。オスヴァルトから赤いものが飛び散っていく。吹き荒れる風のせいで、アンネも思うように術を使えないでいた。


(でもこのままじゃ、こいつが)


 ――死ぬ。

 その二文字が、急に恐ろしくなった。幼い頃は、皇族なんて苦しみながら死ねばいいと願ったこともあったのに。

 でも今は、


「……めろ、やめてくれ……わたしなんか、庇わなくていいから!」


 今は、こんなにも死んでほしくないと思う。

 もがくアンネを、なおも力強い腕が離さない。


「大丈夫だ。あなたを死なせはしないし、私も死なない。死ぬなら、せめてあなたを妻に迎えてからだ」


 何をふざけたことを、と思った。

 けど、こんなときに冗談を言えるほど、彼が器用だとは思っていない。それが彼の本心で、嘘偽りない言葉だ。そうと分かってしまえたから、アンネは震える声で言った。


「この、馬鹿者め……っ」


 愛なんてよく分からないけれど、オスヴァルトが真っ直ぐ注いでくれるものは、アンネにとって心地いい。くすぐったくもあるけれど、不快に思ったことは一度もない。

 今だけは、オスヴァルトを思うときに感じる、あの痛みや苦みも沸いてこなかった。そこにあるのは、ただただ、彼を死なせたくない心だけで。


(マルティナ、マルティナならこんなとき、どうする。教えてくれ――!)

「じゃ、かっこよく死んでくれよ、皇太子様」


 アンネが絶望に身を固めた、そのとき。


「まったく、この程度で遅れをとるとは、まだまだ一人前にはほど遠いなぁ馬鹿弟子め」


 ハスキーな女性の声が聞こえて、誰もが自分の耳を疑った。しかし幻聴ではないと主張するように、声の主がもう一度言う。


「あまりにも馬鹿だから、見ていられなくなってしまった」


 すると、あんなに吹き荒れていた風が、一瞬で立ち消えた。


「は……? なに……なんでっ――誰だ⁉︎」


 あまりにも呆気なかった。だから、カミーユは事態を理解するのに時間を要した。

 風が止んでも、オスヴァルトはアンネを離さない。


「礼儀のなっていない小僧だな。人に尋ねるときは、まず貴様から名乗ったらどうだ?」


 くく、と揶揄うようにその人は笑う。その声を、その笑い方を、アンネはよく知っている。なぜなら自分もよく、その笑い方で揶揄われてばかりいたから。

 

「マ、マルティナ……?」


 意外に満ちたアンネの声に、マルティナは片眉を上げた。


「少し見ぬ間に、随分と男を知ったようだな? アンネ」

「は? ――や、これはちが……ってそんなことはどうでもよくて!」


 オスヴァルトに抱きしめられていることを言われたのだと思って、アンネは顔を真っ赤にする。否定するように離れようとしたが、その途端襲ってきた気持ち悪さに、つい反射的に元の位置に戻ってしまった。

 つまり、今度は自分から抱きついた。


「ほう、積極的だな」

「だから違うんだって! そもそもこれはマルティナのせいだから!」

「なんだ、気づいてたのか。それは褒めてやるか」


 突如割り込んできた第三者とアンネのやりとりに、残りの二人は完全に置いてけぼりをくらっている。

 いや、正しくは、カミーユだけは反撃しようと隙を狙っている。けれどその隙が全く見つからなかったのだ。

 相手はどう見ても怪しい女。青みがかった長い黒髪に、妖しい光を放つ琥珀の瞳。ぱっと見は三十代後半のようだけれど、独特の威圧は、それ以上の年の功が窺える。

 だいたい、自分の力を簡単に無力化するなんて、ただの人間なわけがない。カミーユは瞬時にそう分析した。


「――とにかく、それも含めて聞きたいことが山ほどあるんだが」

「そう言われても、だいたいおまえが感じた通りだと思うが? この部屋に術をかけ、それを守っていたのは私だ」


 マルティナの視線が、ついとオスヴァルトに移る。指輪のことを言っているのだろう。

 誰かがこの部屋に、意図的に妖精の気配を漂わせていると知ったとき、アンネには一人だけその心当たりがあった。というより、その人物以外、そんな芸当ができる人間を知らなかった。

 まさかとは思っていたけれど、本当にマルティナだった事実に、アンネは複雑な思いを抱く。


「知らなかった。マルティナは、皇帝側の人間だったのか?」


 だとしたら、いったい今までどういうつもりでアンネを育ててくれていたのだろう。アンネは皇帝への憎しみを、隠したことなんてなかった。

 

「だからおまえは馬鹿弟子なんだ。私は別に、皇帝側というわけじゃない。ただ依頼をされた。だから応えた。その日、、、が来るまで、守り続けろと」

「依頼?」

「まったく、血は争えんな。なあ、ラルクよ」


 マルティナが背後を振り返る。まさかと思った。けど、そこで姿を現した人物に、アンネはもちろん、オスヴァルトとカミーユも息を呑む。


「これは笑うしかないと思わないか? おまえは私を頼り、おまえの息子はアンネを頼った。しかもあの二人は、何も知らない。知らなくても、こうして出逢ってしまった。おまえの努力は無駄に終わったな? やはり笑おうか」

「黙れよエルフリーデ」


 それは、どこか親密なやり取りに見えた。忌々しそうにマルティナを睨むラルクは、次いで自分の息子に視線を移す。


「小癪な真似をしおって。なぜ大人しくできんかった」

「……ご自分の行いを、振り返ってみてはいかがですか」


 怒鳴られなかったことを意外に思いながら、オスヴァルトは覚悟を決めて言い返す。おそらく指輪のことは知られているのだろう。だったら今さら取り繕ったところで、意味はないと腹を括った。


「ふん、生意気な。誰に似おったのか」

「どう考えてもおまえだな、ラルク」

「だから貴様は黙っておれ、エルフリーデ」

「それは無理だ。私のかわいい馬鹿弟子を苦しめた罪は、重いと言ったはずだが?」

「……」


 ラルクが押されているところを、オスヴァルトは初めて見る。というより、今日の父親は、いつもと雰囲気が違うと思った。いつもはもっと、戦のことしか考えていないような、何かに取り憑かれたような雰囲気だった。それが今は、すっかり削げ落ちている。

 自分の服がきゅっと引っ張られる感覚に、オスヴァルトは胸元を見下ろした。そこには困惑顔のアンネがいた。こんなときなのに、握られた自分の服が、まるで彼女から頼りにされている証みたいで、心が浮き立つ。


「それにしても、まずいことになった」


 マルティナはそう呟くと、そんなアンネとオスヴァルトを見てため息をついた。彼女にとって予想外だったのは、アンネが皇太子に心を許したことだ。

 時間が心の傷を癒していたとはいえ、まさか皇太子に心を許すとは露とも思っていなかった。

 身分差があるから、こんなことを思うのではない。皇帝、、代理人、、、は、協力関係を結ばなければいけない間柄だ。けど、それ以上の関係は望ましくない。

 いや、皇帝だけにとどまらない。代理人は、誰にもその心を渡してはいけない。


「とか人が悩んでる時に、余計なことをするなよ、小僧」


 カミーユが小さく舌打ちする。彼が虎視眈々と皇帝ラルクを狙っていたことに、マルティナは最初から気づいていた。


「まったく、次から次へと問題ばかりだ。少し目を離しただけだったんだがなぁ」

「何のことかさっぱりだが、じゃあもう少し目を離しててくれよ、おばさん」

「あ?」


 おばさん、という単語にマルティナが目をつり上げたと同時、窓の外で爆音が轟いた。


「「「⁉︎」」」

「やっぱ備えあれば憂いなしってね。万が一を考えて、仕掛けておいて正解だった」

「おいおい、あそこは白宮じゃないか。やってくれたな小僧……!」

「その様子だと、あそこに何が眠ってるか知ってるんだな。なら話は早い。俺は起こしてやっただけだから、あとは任せたぜ。早くしないと国が滅ぶかもなあ?」


 窓枠に足をかけると、カミーユはにいっと口元に弧を描く。愉悦に浸るそれは、とてもいびつなものだった。

 逃げる気満々である。そうはさせるかと、アンネは白薔薇を咲かせる。しかしそれで捕まえる前に、カミーユが腕を振った。慌てて防御に転じる。


「くそっ、待てカミーユ!」

「放っておけ! そんな奴は後でどうとでもなる。それより今は――」


 珍しく厳しい表情で、マルティナは白宮の方を眺めた。確かにあの爆音はただ事じゃない。他の人間も混乱しているに違いないだろう。

 それを裏付けるように、扉が慌ただしくノックされた。


「陛下! こちらにおられますでしょうか、皇帝陛下!」

「騒がしい! 事態は把握しておる。白宮にいる人間をすぐに避難させよ。完了次第、あそこは何人も立ち入りを禁ずる。ゆけ!」

「はっ」


 どうやらラルクも、白宮で何が起こったのか理解しているらしい。でなければ、「何人も立ち入りを禁ずる」とは言わない。賊が侵入した可能性を考え、せめて近衛だけは残すはずだ。


「アンネ、急ぎあそこに向かうぞ。あれをどうにかできるのは、おまえだけだ」

「は? 待ってくれマルティナ。意味が分からない。そもそも何が起きてる?」

「説明は走りながらしよう。冗談でなく、を怒らせたら国が滅ぶ」




 

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