23rd. 新たな依頼
翌朝。アンネはいつも通り寝台から起き上がって、顔を洗った。鏡に映った自分の顔は、昨日の闘志を忘れていない。
「アンネ、いつまで寝てるんだい」
「もう起きてるよ」
「ああ起きてたのかい。ならこれ、頼んだよ」
ヒルダが遠慮なく部屋に入ってくる。ばさっと置かれたのは、店の帳簿だ。
姐たちと違い色を売らないアンネは、娼館の雑用もこなしている。営業しない昼間は、洗濯や食事はもちろんのこと、たまにヒルダを手伝って店の帳簿もつけるのだ。計算どころか、文字の読み書きもできない人間がいる世の中で、アンネはそれら全てを七歳までにマスターしていた。おかげでこき使われっぱなしである。
渡された紙束をめくりながら、アンネはヒルダに訊いた。
「なあ銭ババ、マルティナってまだ帰ってないのか?」
「あ? 誰が銭ババだって?」
これ見よがしに拳を握られて、慌てて言い直す。
「オーナー」
「ふん、マルティナかい。まだ帰ってないよ。そういえば遅いね、今回は」
「やっぱりそうだよな。何かあったのか?」
ひとり言のように呟く。けれど、もし何かあったなら、妖精を遣わしてくれるはずだ。それがないということは、たぶん大丈夫ではあるのだろう。
でも、少し心配になる。なんだかんだ言って、マルティナももういい歳だ。
「ま、大丈夫じゃないかね。あれはそんなやわじゃないさ」
「まあそうだけど……。あ、そうだ。わたしも今夜からは、しばらく店を空けると思う」
「なんだい、新しい依頼でも入ったのかい?」
「んー、まあ。たぶんそっちにかかりきりになるだろうから、休みにするよ」
「ふーん。まあそっちはいいけどね。でも、マルティナが帰ってきたら今度こそ覚悟してもらうからね。あんたは絶対売れるんだから、娼婦としてばんばん稼いでもらうよ!」
「またその話か。売れるわけないと思うけど」
「いいや、売れる。いいかい、マルティナが頷いたら、約束どおり店に出てもらうからね」
「はいはい。マルティナが頷いたらな」
はぁ、と嘆息する。マルティナが頷くわけがないと、アンネは分かっているからだ。ヒルダも身にしみて分かっているだろうに、本当にしつこい婆さんである。
そのとき、部屋の扉がノックされた。「アンネ、いる?」と窺う声が聞こえてくる。
「いるよ。どうした?」
扉から顔を覗かせたのは、クラリッサだ。どこか困ったような笑みを浮かべていた。
「朝からごめんね。でもその、エルフリーデにお客様よ」
クラリッサが振り返ると、そこには一人の女がいた。顔にはしわが刻まれているが、理知的な瞳は老齢を感じさせない鋭さがある。例によって、身分の高そうな身なりだ。
その予想通り、女性は優雅に一礼する。
「お初にお目にかかります。私はとある貴婦人に仕える者でございますれば、あなたに、我が主より願いがあって参りました」
「……店は夜からの営業なんだが」
「承知しております。しかし夜の花街に女一人は危険だからと、我が主がご配慮くださったのです」
「へぇ」
アンネは素直に感心する。そんな気配りを使用人にできるなら、その主とやらは、なかなかの人格者かもしれない。まあそれなら、男の使用人を寄越せばいいのにとは、思わなくもないけれど。
それを見越したように、女が口を開いた。
「主はわけあって、動かせる使用人が少ないのです。無礼は承知ですが、何卒お聞きくださいませ」
淡々と告げられ、アンネはうーんと喉奥で唸る。すぐに叶えられることならば、依頼を受けられないわけじゃない。けど、アンネには他にやらなければならないことがある。
ヒルダのどうするんだい? という視線を受け止めて、アンネは逡巡したのち、小さく頷いた。意図を汲みとったヒルダは、クラリッサと共に部屋を出て行く。
「分かった。話を聞こう。受けるか受けないかは、それから決める」
「しかし主はどうしてもとのお話ですので、受けていただかないと困ります」
「ということは、厄介事か?」
最近そんなのばっかだなと、少しだけげんなりした。それを女は否定する。
「いいえ、それほど難しいことではありません。我が主は、友人をご所望です」
「……はい?」
「我が主は、友人をご所望です」
「いや、ちゃんと聞こえてたから。じゃなくて、それがつまり、願いってことか?」
「そうです。我が主は、エルフリーデさんを友人にとご所望です」
「わたし⁉︎」
びっくりして、声が一つ裏返る。友人を見繕ってほしい願いかと思いきや、まさか自分を友人にしたいとは。
アンネはあれ、と引っかかった。つい最近、似たようなことを言われた気がする。
「ちなみに、その主とやらの名前は?」
恐る恐る聞いてみれば、
「はい。グレース・モルガン様でございます」
つい最近も何も、昨日聞いたばかりの名前だった。アンネは顔を強張らせながら、弱々しく首を振る。
「無理……無理だ。その願いは
「主はアンネさんを友人にご所望です」
「繰り返さなくても聞こえてるから! 意味もちゃんと分かってる。だから断ってるんだろうが」
「主は、アンネさんを、友人にご所望です」
「しつこいな⁉︎」
というか、自分がエルフリーデであることを、昨日の今日で掴んだらしいことに内心で舌を巻く。オスヴァルトも短期間でアンネの過去を調べていたが、身分の高い奴らは暇なのかと言いたい。優秀な人材の使い道を、絶対に間違えているとアンネは思う。
「いいか、おまえが知っているかどうか分からないから言うが、わたしはすでにそのグレースとやらに会っている。お気に入りの場所とかに連れて行かれた後、わたしが何時間何に付き合ったと思ってる? 人形遊びだぞ! 棒読みすぎてやり直しを要求されること数時間だぞ⁉︎ わたしには向いてないんだ!」
そういう問題ではないのだが、アンネはいたって真剣だった。
本気で嫌がるアンネを、女は無表情に見据えていた。
「だからこそ、主はあなたを気に入ったのでしょう」
「は?」
「あなたは主の趣味を馬鹿にしませんでした」
「そんなの、趣味は人それぞれだろ? 別に馬鹿にする要素が見当たらないが」
アンネは不思議そうに首を傾げた。だって、アンネの知っている人だけでも、みんな本当に色んな趣味を持っている。
たとえばクラリッサは、お金が趣味だ。貯金ではない。
たとえばラウラは、性技を磨くのが趣味だ。新技を開発して、同僚やアンネに仕掛けるところまでが趣味だそうだ。毎回逃げるのに苦労する。
そんな環境で育ったアンネだから、人の趣味にケチなんかつけない。その概念すら彼女にはない。ただ、ラウラの実験体になるのが嫌なように、人形を使って演技をすることが嫌だった。絶望的に向いていないのだ。
「というか、そういうのはおまえたちが付き合ってやるのが普通じゃないのか」
「そういうわけにもいかないのです。私は古参ゆえ、主の趣味も存じておりますが、他の侍女たちは知りません」
「じゃあおまえが相手をすればいい」
「私では友人になれません。恐れ多いことです」
「だったらわたしもオソレオオイので断る」
「ですが交渉はここから始まります」
「うわ本当にしつこい」
ここまで食い下がられたのは、オスヴァルト以来じゃないだろうか。まさか自分が頷くまで、帰ってくるなとでも言われているのだろうか。
「これが、願いの報酬です」
そう言って差し出された紙には、一軒家が一つ余裕で買える値段がのっていた。思わずぎょっとする。
「友人一人にこの値段か⁉︎」
「主の意向です」
「いやいやおかしいだろ。友人なんて、その辺の奴でも捕まえればなってくれるかもしれないぞ。この百分の一でも握らせたらほいほい寄ってくるぞ、間違いなく!」
その場合、変な友人が寄ってきそうではあるけれど。そんなことを気にできないくらい、アンネは動揺した。上手い話には、必ず落とし穴がある。その落とし穴が怖くて、アンネは余計に警戒する。
「気に入った者を手に入れるためです。そのための労力を、主は惜しみません」
いや惜しんでくれ、と内心で突っ込む。こんな願いは初めてだ。ましてや自分と友人になりたいというだけで、大金をさらっと出してくるなんて。
まるで人買いに買われるような取引きだが、アンネがそう思うことはない。アンネはグレースという人間を、すでに見知っている。あの少女のような心を持つ女性は、きっと純粋にそれを願ったに違いない。そしてその手段として、お金を用意する。お金を払えばなんでも手に入る、貴族らしい考え方だ。
たぶん、もう価値観からして違うのだろう。それに気づいたアンネは、頭を抱えて諦めた。
「……分かった。願いを叶えよう。ただし、報酬はこの半分でいい」
「半分ですか?」
「それでも多いくらいだ。だから、特別に対価はいらない。わたしは自分にそこまでの価値があるとは思わない」
「かしこまりました。ではさっそくですが、こちらに着替えていただけますか」
目の前に広げられたのは、質素なドレスだった。紺色の、流行遅れのものだ。メイドのように白いエプロンはなく、どんな人間が着る服なのか理解した途端、アンネはついに言葉を失った。
(メイドの次は、侍女かっ)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます