24th. 彼の過去
「アンネ!」
心底嬉しそうに名前を呼ばれて、アンネは苦笑した。まさかまた、グレースのお気に入りの場所にやってくることになるなんて。
周りは木々に囲まれていて、小さな噴水がちょろちょろと水音を立てている。ここはそれだけだ。花もなければ、整えられたガゼボもない。本当に、小さな噴水があるだけの、静かな空間である。
「嬉しいわ、あなたにまた会えて」
「わたしはおまえの物好きさにびっくりだ」
「ふふ。だって、欲しいと思っちゃったんだもの。わたくしの一番優秀な侍女に頼んで、あなたをつけさせたの。気づいていて?」
「……全く」
苦い顔をして答えれば、グレースは「でしょう?」と無邪気に笑った。アンネとしては笑えない。なるほど、そうやって自分の正体がバレたわけだ。
「でも、これでもわたくしも驚いているのよ? エルフリーデの噂は少しだけ知っていたから。そんなあなたが
「悪いが守秘義務だ」
「そう、残念。でもいいの。今度はわたくしの願いを叶えてくれるのでしょう?」
そう言われて、アンネは頷きながら着ている服を引っ張った。渡されたのは、城の侍女と同じ服だ。
「そのために、こんなものまで着てるからな。でもなんで友人になってほしいだけで、あんな大金を?」
「保険よ。普通におど……お願いしても、あなたはきっとわたくしから逃げていくもの」
途中、何やら不穏な言葉が聞こえたが、アンネは全力で聞こえなかったふりをした。すでに逃げたいと思ったのは秘密だ。
「そんなことより、今日はわたくしのお気に入りの子たちを持ってきたの! あなたはこの子をお願いね。わたくしはこの子とこの子、一人二役よ!」
アンネの不安もよそに、グレースは嬉々として準備を始めていく。持参したシートを引いて、その上に座ると、アンネにも座るよう促した。
ああまた始まるのか、とアンネも渋々座る。渡されたのは、黒髪の男の子の人形だ。グレースは灰白色の髪の女の子と、黒髪で片目に傷がある男の子を持っていた。
ある意味憂鬱な時間が、始まった――。
「『――では、早々にあの蛮族共を沈めてこい。これは命令だ』」
「か、かしこ、まりました、父上。えーと、必ずや、ご期待にそえ、そってみせましょう」
「『ふん、どこまでできるか見物だな。なんなら、その先でくたばってきても良いのだぞ? はっはっは!』」
「いえ、かく、確実に――ってちょっと待て! なんかおかしくないか⁉︎」
ついに耐えきれず、アンネは芝居を投げ出した。人形とともに渡された台本を簡単にめくっていくと、この先の展開はどう見ても酷い。血生臭い。どこの世界にこんな人形ごっこがあるのか。
「最初はただのままごとかと思ったら、この家族、だんだんおかしくなってるよな⁉︎」
というか、人形ごっことは思えないほど、設定が細かかった。
よくあるお父さん役とお母さん役がいて、アンネに渡された人形が息子役で。その息子が三歳の頃まではよかった。仲睦まじい夫婦が、自分たちの息子をかわいがる。アンネは台本と睨めっこしながら、そんな幸せな一家をたどたどしくも演じた。
けれど、その息子が三歳のとき、毒殺されかける急展開が起きたのだ。台本を読みながら、アンネは目を点にした。なんかいきなり話が重くなったな、と。
少しの違和感を感じながらも、息子が十五歳になるまではなんとか演じきった。でもそれももう、限界だ。誰がなんと言おうと、この人形ごっこは変である。リアル過ぎる。しかも重い。いったい息子は何回殺されかけているのだろう。
加えて父はそれを見て見ぬふりだし、母は精神が壊れてやはり息子の窮状を救いはしない。ごっことはいえ、演じていて気持ちのいいものではなかった。
「ふふ、でしょう? あなたならそう言ってくれると思ってたわ」
「誰でもそう言うと思うが」
呆れて半目になる。
「それが、そうでもないのよ? みーんな嘘、嘘嘘嘘ばーっかり!」
嫌になっちゃうわ、とグレースは顔を歪ませる。今まで無邪気に笑ってばかりいた彼女のそれに、アンネはびっくりして目を見開いた。
「ねぇアンネ、知っていて? 母親ってね、とても無力なの。助けてあげたくても、できないの。それが裏目に出てしまうから。愛し愛されることのないわたくしは、妻でも母でもないわ。だって二人が
言っている意味が分からなくて、アンネは眉間にしわを寄せる。ままごとの続きについて話しているのかと思ったが、そうでもなさそうだ。
グレースはまるで、我が事のようにそう話す。我が事のように、傷ついた表情を浮かべる。悲しみと、怒りと、諦念の混じった瞳。
「ふふ、分からなくていいのよ。壊れ続けるふりは、もう疲れたわって話」
「壊れ続ける、ふり?」
「だって壊れていないと、あの子はわたくしを見捨てられないのだもの」
「悪いがグレース、順を追って話してくれ。頭がついていかない」
混乱するアンネをよそに、グレースはとても魅力的に微笑んだ。アンネの手から息子役の人形を優しく奪うと、愛しげな眼差しでその頭をなでる。
「わたくしの一番大切なものは、この子。三歳で毒を盛られ、父に戦を命じられ、母は狂ってしまった、哀れなこの子。ある日、この子の父は言ったわ」
そう言って、グレースは父親役の人形を手にとって立ち上がった。
「『なんだあの戦は! もっと派手に殺せと言っただろう! 次はもっと殺せ。我が国に逆らおうなどと考える余裕もないくらい、恐怖を与えよ!』」
アンネは唖然としてグレースを見上げる。
「『おまえの戦い方は生温いのだ! 敵を助けるなど言語道断、子供だろうと容赦するな!』」
開いた口が塞がらない。自分は今、何を見せられているのだろう。どうしてグレースの言葉を聞くたび、頭の中に浮かぶ顔があるのか。
重なりすぎている。父親に戦を命じられていた男のことを、アンネも知っている。極め付けは、
嫌な予感に、ごくりと息を呑んだ。
「またある日、父はこんなことを言ったわ。『他国から人質の姫をとる。おまえの側室とせよ』――まあ、なんて酷い父親でしょう。あの子はまだ結婚もしていないのに。あの子の評判は、地に堕ちてしまうわ」
母親役の人形が、顔を覆って泣いた。このときにはもう、アンネは一つの疑惑に囚われていた。ここまで似た状況の人間など、そうそういないはずだ。
彼にも、未婚のまま側室がいる。
「なんてかわいそうなあの子。父のせいで不名誉な噂を立てられ、それが父の思惑通りだと知っていながら、あの子は否定しない。人質よりも、側室のほうが待遇を良くできるからって。優しいわたくしの子。ああ、不甲斐ない母を許して……っ」
「グレース!」
グレースの身体が突然傾く。アンネは咄嗟に手を伸ばした。抱きとめた彼女は、顔色が悪い。色白であると思っていたが、よく見れば、それは健康的な白さではなかった。
「ごめんなさい。少し、立ちくらみをしただけよ。大丈夫」
しかし、本人が言うほど大丈夫そうには見えなかった。昨日も貧血で倒れていたし、もしかしたら身体が弱いのかもしれない。
「少し落ち着け。急に興奮なんかするからだ」
「そうね。少し、落ち着かなきゃね」
アンネに支えられながら、グレースはゆっくりと呼吸する。やがてほんのりと顔に血の気が戻ってきて、グレースは「ありがとう」と苦笑した。
「あなたは、どんな家庭で育ったのかしら。あなたのお母様は、きっとわたくしより良い母なのでしょうね」
「わたしは……」
突然話題を振られて、アンネは言葉に詰まった。語れる母は、もうこの世にはいない。アンネを逃して死んだ。母が囮になってくれなかったら、アンネもきっと死んでいた。
でも、どうせなら一緒に死にたかったと、何度も泣いた日々を覚えている。
「そうだな、わたしの母親は、世間では良い母だったんだろう。わたしを守って死んだ。でもわたしにとっては、そんなのちっとも嬉しくなかった。わたしを遺していった母だ。もっと一緒にいたかったと、何度も墓前で八つ当たりしたよ」
酷いだろう? と空を見上げる。酷いのは、自分だ。命をかけて守ってくれた母に、幼い頃、何度もそんな言葉をぶつけてしまった。それを、母は空の上から見ていただろうか。
「そう、あなたのお母様、亡くなっていたのね。ごめんなさい」
「といっても、もう十年も前のことだけどな」
いつのまにか、もうそんなに時が流れていた。流れたのに、心の中にはぽっかりと大きな穴がある。
最初の頃は、それはそれは皇帝を憎んだ。焦がれるほどの憎しみと、枯れることのない悲しみ。
でもある時期から、それらの感情が消えていた。代わりにできたのが、大きな穴だ。虚ろな穴。埋めてくれるものを、たぶん、無意識に探している。
「わたしは、あまり家族というものを知らない。だが、おまえが渡したこの台本。これが現実の家族なら、やっぱりおかしいとわたしは思う」
「ええ、おかしいのよ。あなたは正しいわ。でもわたくしの周りはね、みんな大丈夫って言うのよ。いつか元の夫に戻るから。いつか戦争はなくなるから。でもその"いつか"って、いつなのかしら」
グレースが自嘲する。哀れなのは、彼女も同じだと思った。
「グレース、訊きたいことがある」
「なあに?」
「おまえの息子の名、何という?」
どうしてか、心臓は早鐘を打っていた。別に緊張することでもないだろうに、アンネは確かに緊張していた。
グレースが、そっとまぶたを伏せる。
「オスヴァルトよ。オスヴァルト・クロイツ。わたくしの、哀れな子供」
冷たい風が吹いた。冬が近づいている。的中した予感は、まるで泥を飲ませられたように、アンネの呼吸を止めた。
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